2020年6月21日日曜日

墓制の展開

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 30

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「5 さまざまな墓制の展開」の小見出し「墓域、埋葬群、埋葬小群」「埋葬小群は何を表すか?」「小竹貝塚の墓域構造から前期の社会を考える」「抱石葬の理由」を学習します。

1 墓域、埋葬群、埋葬小群
・埋葬小群…墓群集して塊状
・埋葬群…埋葬小群の集まり
・墓域…埋葬群の分布域

2 埋葬小群は何を表すか?
・晩期愛知県保美貝塚の事例から埋葬小群には遺伝的な関係を有する小家族集団(3世代くらい)が埋葬されていて、一つの世帯を構成していると考える。
・前頭縫合(小変異)が通常ではありえない確率で出現していることから、埋葬小群が家族集団埋葬と考える。

埋葬小群の例
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・埋葬小群の中には、土坑墓が斬り合っているものがあり、わざと重複させることにより場所を共有し血縁関係者および祖霊との共存をはかり、埋葬を行った人々のつながりを再確認・強化する意図があった。

斬り合いのある土坑
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 小竹貝塚の墓域構造から前期の社会を考える
・縄文前期富山県小竹貝塚出土人骨の食性分析で外部からの男婚入者…堅果類に偏り特殊な小臼歯咬耗男人骨(山間部からの婚入者)

小竹貝塚人骨の食性分析結果
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・仙台湾抜歯(上顎側切歯抜歯)の可能性のある男人骨
・埋葬姿勢が袋に入れられた可能性のある男人骨
・潜水漁労(外耳道骨腫)(三陸仙台湾)の可能性のある男人骨
・以上から小竹貝塚人集団は男性が婚入してくるような社会構造。
・妻方居住婚制で母系的社会。

小竹貝塚に仙台湾からの婚入者がいた可能性

4 抱石葬の理由
・外来者や他集団からの婚入者が抱石葬の主たる対象と思われる。
・「何らかの理由」のある外来者に対する呪術葬法。

5 感想
小竹貝塚の男性婚入者2人の出身地想定に仙台湾及び三陸が含まれていることに驚きます。太平洋岸貝塚から直線距離370㎞離れた日本海側貝塚に婿入りがなされているのです。
この図書を読んでいて、当初は、男性「婚入者」出身地イメージは対面交易関係範囲内でせいぜい数10km程度と考えていました。ところが370㎞離れているので、いくら想定とはいえ、驚きます。
この男性「婚入者」想定が一般的な事象であるならば、つぎの地域間でも婚姻関係が生まれていた可能性があります。
仙台湾貝塚と東京湾貝塚の間
東京湾貝塚と小竹貝塚の間
東京湾貝塚と伊勢湾貝塚の間
伊勢湾貝塚と小竹貝塚の間

加曽利貝塚では遠隔地との交流を示す資料として東北地方の土器(大洞式)が出土展示されています。この交流には実は男性婚入者の存在が含まれていると考えることが大切であるのかもしれません。
単なる情報交換、物資交易としての交流ではなく、東北から男性が婚入していると考えると、自分の房総遺跡出土物に対する見方がまるで違ってきます。鋭く出土遺物を観察して、婚入外来者をあぶりだしたくなります。縄文学習がますます面白くなってきました。

2020年6月16日火曜日

広域交換・交易

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 29

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「4 広域交換・交易の発達」を学習します。

1 大型のハマ貝塚の出現
・集落貝塚、ムラ貝塚とは別に中期になるとハマ貝塚が出現。
・ハマ貝塚…東京都中里貝塚(中期主体)、伊皿子貝塚(後期)、愛知県水神貝塚(晩期)
・中里貝塚…1000m×40m、マガキ・ハマグリのみ、年間2シーズンの採貝活動の繰り返し。加工して交易につかった。

中里貝塚の貝層
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

中里貝塚の位置 地理院地図3Dモデル
土地条件図+一般地図、垂直倍率×9.9

2 海を越える黒曜石・南海産貝の交易
・神津島黒曜石…伊豆半島東海岸見高段間遺跡が陸揚げ場で各地への搬出場

神津島と見高段間遺跡の位置 地理院地図3Dモデル
写真、垂直倍率×9.9

・八丈島倉輪遺跡…オオツタノハ

3 さまざまなネットワークの発達
・複数の集落がお互いに補完しあいながら一定地域内の集落群全体として生業や生産活動をまとめていく経済のあり方、社会の紐帯を生み出していた。

4 感想
・中里貝塚、見高段間遺跡、オオツタノハに関して資料を入手してその概要を学習することにします。
・房総には中里貝塚のような交易に徹したハマ貝塚がなぜないのかその理由が知りたくなります。海岸背後に多くの集落を抱える武蔵野台地・丘陵山地と、限定された集落を抱える下総台地という地勢が大きく影響しているのでしょうか?

2020年6月13日土曜日

環状集落と大型貝塚

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 28

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「3 環状集落の成立と大型貝塚の発達」を学習します。

1 環状集落の成立
・縄文前期に空間利用(居住域、墓域、廃棄帯等)を明確化した定型的集落として環状集落が成立した。
・環状集落は同心円状構造を持ち、竪穴式住居、貯蔵穴、掘立柱建物、墓域を配置する。

市原市草刈遺跡
「千葉県の歴史」から引用

2 環状集落間に見られる格差
・最大級居住域最大外径は150m、小さいものは外径70m
・「これらの集落の大きさは、大きな円を描くのか、それとも小さな円を描くのかを予め想定していた、つまりその大きさは、予定された住居数や人口によって決められており、当初から、集落間における機能的な差異が存在していたと考えることができるだろう。」→重要
・環状集落には地域中心の拠点集落とそれに付随する集落がある。拠点集落を中心にして規模の小さな環状集落が位置している。規模の小さな環状集落は分村、資源開発中継点、あるいは分業的役割分担や社会的差異など。
・中期には集落間の格差・役割・性格を集積・配分センター・中継点・末端消費地という機能差として理解できる。

3 大型貝塚の発達
・馬蹄形ないし環状の大規模貝塚の発達。
・千葉県曽谷貝塚は東西210m、南北240mで日本最大規模
・加曽利貝塚は全体で8字形をしていて南北貝塚をあわせると日本最大。

加曽利貝塚
「千葉県の歴史」から引用

・この時期の貝塚が単なるゴミ捨て場としての機能だけではなく、アイヌの人々の「送り場」のような精神文化的な意味合いを併せ持っていたと考える研究者は多い。

4 感想
「これらの集落の大きさは、大きな円を描くのか、それとも小さな円を描くのかを予め想定していた、つまりその大きさは、予定された住居数や人口によって決められており、当初から、集落間における機能的な差異が存在していたと考えることができるだろう。」との記述から次のような思考が発生しました。
ア その地域の社会が始まった時、人々の間に社会的分業や役割分担が明確に存在しており、その目に見えない社会関係が集落ネットワークの形状や集落大きさにおのずと投影されたと考えます。
イ 有力複数家族が拠点大集落に居住し、外様大名的家族が主要出先中集落に居住し、有力家族とは縁の遠い家族が末端小集落に居住していたというイメージを空想します。
ウ 貝塚集落の場合空間的漁業権(漁場の優先利用権利)と集落ネットワークが密接にかかわっていたと想定します。拠点大集落が広域海岸の漁業権(と自分の食い扶持となる地先海岸漁業権)を保持し、出先中集落が拠点大集落管理下で日常的作業単位としての海岸漁業権を保持していたと考えます。
エ 集落ネットワークは人々が取り組んでいる生業活動を最適化するように組み立てられていると考えられます。自然環境が変化するなどして生業活動そのものが変化すれば、当然ながら集落ネットワークも変化すると考えられます。後期から晩期になると貝塚集落が減りますが、利用できる海岸が少なくなったので集落ネットワーク改変が生じたことは当然です。貝塚集落が減ったからと言って単純に人口減少したとはいいきれません。拠点集落(母村)に人々が集まって新たな生業体制を築いたという可能性も検討する必要があります。(大膳野南貝塚等と六通貝塚(母村)との関係からのイメージです。)

2020年6月12日金曜日

クリとウルシ

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 27

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「2 低地遺跡にみる卓越した植物利用技術」の小見出し「縄文人にとって重要な資源だったクリの管理」「ウルシの利用」「縄文人はタネをまいたか?」を学習します。

1 縄文人にとって重要な資源だったクリの管理
・アク抜き不用の重要な食用植物。
・クリが加工食品(縄文クッキー)に使われた可能性。→前期山形県押出遺跡。
・青森県三内丸山遺跡では集落形成とともにクリが多くなり、クリの純林に覆われるようになり、中期末集落廃絶とともに再びナラ林が復活する。クリを管理していた。
・加工容易で腐食しにくい建築材。
・富山県桜町遺跡…貫穴のある建築材出土。
・石川県真脇遺跡…枘(ほぞ)のある柱材出土。→軸組工法の存在。→中期の三内丸山遺跡、富山県不動堂遺跡や長径が数十mに及ぶ大型住居で軸組工法が採用されていた可能性。
・後晩期遺跡(埼玉県寿能遺跡、赤山陣屋跡遺跡、栃木県寺野東遺跡)では土木材のクリ割合が50%超。
・三内丸山遺跡六本柱の大型掘立柱建物では直径1mのクリ材利用→成長に200年から250年かかる。→世代を超えたクリ林管理。
・奈良県観音寺本馬遺跡、石川県米泉遺跡では集落近接してクリ根株検出。

2 ウルシの利用
・最古のウルシ木材は12600年前の鳥浜貝塚出土。

鳥浜貝塚出土ウルシ
田中祐二著「縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚」から引用

・最古の漆工製品は北海度垣ノ島B遺跡の墓出土装身具で9000年前。
・中国最古漆工製品(弓)は7600年前、韓国(漆塗杯)は2400年前。
・漆技術は複雑で専従的にかかわる集団存在の想定。
・東京都下宅部遺跡から漆を掻きとった痕のあるウルシ杭出土。

漆を掻きとった痕のあるウルシ杭
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・ウルシの林を集落近くで作り出し管理していたと考えられる。
・赤漆をつくるための辰砂(水銀と硫黄からなる鉱物)が黒曜石などと広く流通していた可能性。
・木胎漆器、陶胎漆器、籃胎漆器などがあった。

木胎漆器
田中祐二著「縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚」から引用

陶胎漆器
田中祐二著「縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚」から引用

・エゴマの油が漆溶剤として利用されていた可能性
・食糧確保など生存に直接かかわらない漆工製品に「縄文人たちは、多大の時間と労力を漆製品の製作に注いでいた。これは縄文人の生活が、われわれが従来考えていたよりもずっと安定しており、漆製品の生産のような、生存に直接かかわらない作業に対して、十分な時間と労力を注ぐ余裕があったことを示している」(鈴木1988)。
・現在では、このような漆工製品が奢侈品として交換財となり、当時の社会においてさまざまな価値と意味をもっていた可能性も考えられている。

3 縄文人はタネをまいたか?
・圧痕法による種の同定。→時期決定が容易、コンタミが排除できる。
・マメ類(ダイズ、アズキ)の栽培。
・マメ類を主体とする「縄文農耕」が社会構造の変化を引き起こし、社会の複雑化、集団間の成層化を進展させたという証拠は見つかっていない。

4 感想
漆製品が奢侈品としての価値があったという指摘は遺跡出土物から情報を引き出す上で大変重要な指摘だと考えます。
漆製品率(例 陶胎漆器数/全土器数)が時期によってどのような変化がみられるのか調べることができれば社会の豊かさの一端を測ることができると考えます。
食うか食わずかのギリギリの生活であったのか、余裕のあるゆたかさのある生活であったのか、その程度の時期変化を測ることが社会変動の様子をダイナミックにとらえることになります。
例 縄文後晩期の社会衰退期に漆製品率(例 陶胎漆器数/全土器数)はどうなっただろうか?
低下したのか、上昇したのか、かわらずか?
その頃食うか食わずかのギリギリの生活であったのか、余裕のあるゆたかさのある生活であったのか?興味が湧くところです。

2020年6月7日日曜日

鳥浜貝塚など低地遺跡

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 26

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「2 低地遺跡にみる卓越した植物利用技術」の小見出し「縄文文化の研究の画期となった鳥浜貝塚の調査」「低地利用の一般化」「デーノタメ遺跡にみる土地利用」を学習します。

1 縄文文化の研究の画期となった鳥浜貝塚の調査
・海抜0m以下に縄文時代包含層が厚さ2mにわたって存在。→低地遺跡の再認識
・弓・石斧柄などの木製品、飾り櫛などの漆工芸品、ヒシや堅果類などの植物遺存体が出土。→「貧しい縄文人」イメージを一変
・淡水産貝殻層、魚骨層、堅果類層など廃棄された食物残渣(生ゴミ)が明確な層をなす。→生業形態の季節性
・植物学、動物学、各種理化学的分野による学際的研究→縄文人の年間を通じた計画的暮らし・生活のありかた、道具の使用方法などの研究レベル引き上げ

2 低地利用の一般化
・前期の山形県押出(おんだし)遺跡では低地部に盛土。
・埼玉県寿能遺跡では泥炭層の中から中期後葉以降の杭列・木道施設
→低地にアクセスしやすくするためのインフラ整備

3 デーノタメ遺跡にみる土地利用
・台地上の居住域と低地部の両方がセットで理解できる数少ない調査例。
・台地部…大きな環状集落
・低地部…「クルミ塚」、道の跡、土器を敷きつめた作業場、近くにウルシ林

4 感想
・鳥浜貝塚は早速資料を入手して学習を深めることにします。
・押出遺跡は「全国遺跡報告総覧」(奈良文化財研究所)から発掘調査報告書を入手することができました。早速学習を開始します。
・寿能泥炭層遺跡は今後資料を入手して学習を進めることにします。
・デーノタメ遺跡発掘調査報告書は北本市ホームページで公開されています。早速ダウンロードしましたので学習を開始することにします。カラー写真が多用されている見やすい発掘調査報告書です。「デーノタメ遺跡総括報告書(第1分冊、第2分冊、概要版)」(2019、埼玉県北本市教育委員会)

4つの低地遺跡
基図は地理院地図

・以前から低地遺跡出土木製品について興味がありました。2019年7月~9月には市川考古博物館で企画展「大地からのメッセージ-外かん自動車道の発掘成果-」が開催され、縄文早期後葉貝塚の遺物が展示され、展示木製品について強い興味をもちました。そのような経緯から、鳥浜貝塚、押出遺跡、寿能泥炭層遺跡、デーノタメ遺跡について参考資料を入手してよく読み、その学習結果を追ってブログ「花見川流域を歩く」の縄文社会消長分析学習の一環として記事にしたいと思います。
・木製品として祭具としてつかわれた「イナウ」が低地から出土し、それが木製品「イナウ」としては認識されていないという問題意識を密かなる軸として学習を進めたいと思います。(結果としてこの問題意識がトンチンカンなものでも、低地学習促進剤の役割をすればよいと割り切ります。)
縄文後期イナウ似木製品の意匠と解釈-印西市西根遺跡出土品の実見・分析・考察」(2018、荒木稔)

2020年6月3日水曜日

縄文海進と人口急増

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習25

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「1 温暖化のピークから低温化安定へと向かった気候変化」を学習します。

1 縄文海進
・約7000~5900年前の高温ピーク時には現在より気温が2度ほど高い。
・海水面はげんざいより2.5mほど高い。
・栃木県栃木市藤岡町篠山貝塚は奥東京湾最奥部貝塚。
・黒浜式土器以降気温低下するも温暖、関東ではクリ林優勢。

縄文海進の詳しい資料
「デジタルブック最新第四紀学」(日本第四紀学会)から引用

2 急激に増加した人口
・早期全人口2万人程度、前期10万人超え、中期24万人
・中期東日本(東海地方まで)227200、西日本(近畿以西)9300人

縄文時代の時期別・地域別人口
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
……………………………………………………………………
追記
この人口グラフは原典掲載の北陸・四国分が欠落していて不十分なものです。中期人口24万人と文中で記述していますが、正確には26万人になります。
……………………………………………………………………

3 感想
縄文海進の詳しい資料が「デジタルブック最新第四紀学」(日本第四紀学会)に掲載されていますので、今後の学習で利用します。
人口データの元資料にあたってみて、推計の方法等の学習を追って行うことにします。
各時期の全人口を遺跡別に割り振ってみて、特定遺跡の人口イメージを確かめたいとおもいます。いままでなんとなく自分が抱いていた集落の人口イメージと、専門的推計によるものとの間で大きな齟齬がありそうです。

2020年5月26日火曜日

縄文早期の精神文化

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習24

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「4 墓制・祭祀・装身具等の発達に見る精神文化」を学習します。

「4 墓制・祭祀・装身具等の発達に見る精神文化」は次の小見出しで記述されています。
1 墓域・配石遺構の発達
2 動物祭祀の発達
3 赤色顔料の多用
4 仮面習俗の存在?
5 多様な装身具
6 土偶の増加
7 早期の社会構造
8 縄文文化の主要な要素の萌芽期としての早期
これら一つ一つについて興味があります。それぞれ徹底して学習したくなります。しかし、5月は第三章学習、6月は第四章学習、・・・と計画的学習進行を優先させ、まず縄文社会変動の大局観をこの学習で得ることを主目的とし、寄り道学習はあくまで許容できる範囲の寄り道にすることにします。
この記事では上記小見出し記述の概要を確認し、今後の学習の仕方をメモします。

1 墓域・配石遺構の発達
・大規模墓域確実視…鳥取県上福万遺跡(配石墓、土坑墓、墓域正立)
・熊本県瀬田裏遺跡…方形配石遺構(押型文土器の時期、胴部に孔のある壺形土器)

墓域・配石遺構については今後折に触れて徹底して学習することにします。
草創期と早期では墓についてどのように異なるのか?
上福万遺跡は「全国遺跡報告総覧」(奈良文化財研究所)から発掘調査報告書(2冊)をダウンロードしてざっと見ることができました。興味が湧きます。

2 動物祭祀の発達
・千葉県取掛西貝塚…動物供儀
2019.02.07記事「飛ノ台史跡公園博物館企画展「ここまでわかった!~1万年前の取掛西貝塚~」」などで企画展展示観覧をはじめ何度か興味をもち学習をしています。
過去の学習をさらに発展させたい思考がいろいろ浮かびます。
「動物供儀」という言葉ではなく、その活動のイメージをよりリアルに推測できるようにしたいと思います。

竪穴住居跡から動物供儀跡が出土していますが、動物供儀は上屋のある住居内で執行されたのか、それとも廃屋となり、上屋が取り払われた野外空間としての住居跡で執行されたのか?
上屋のある室内空間での動物供儀は、根拠はありませんが、考えられないと直感します。
室内空間では集落の全員がその式に参加できません。
またイノシシやシカの頭と体の分離は動物供儀の重要な項目として式途中に衆人環視の中で執行されたに違いありません。首を切った動物の中にはまだ生きているものが含まれていたに違いありません。
動物供儀が野外(竪穴住居跡)で執行されその後、ある程度急速に貝をかぶせたと想像します。

動物供儀に関する図書も数多くあるようですから学習テーマの一つにしたいと思います。

動物供儀跡の状況
船橋市飛ノ台史跡公園博物館企画展(2019年2月開催)パンフレットから引用

縄文早期遺跡に動物供儀跡が発見される意義も検討価値があります。草創期にも同じようなことがあり、ただ発見できないだけなのか、それとも草創期には少なく早期に盛行しだしたのか?

3 赤色顔料の多用
・旧石器時代の赤色顔料…北海度嶋木遺跡出土石皿(台石)付着ベンガラ、北海道柏台1遺跡…褐鉄鉱
・鹿児島県関山遺跡…入れ子状土器の小型土器内部にパイプ状ベンガラ(早期後葉)
・北海道東釧路貝塚…人骨の全身にベンガラ
・北海道垣ノ島B遺跡…土坑墓からベンガラ赤漆の漆工製品(9000年前)火災消失
・石川県三引遺跡…ベンガラ漆塗竪櫛(7200年前)

4 仮面習俗の存在?
・東名遺跡から木製仮面出土…仮面習俗…祖霊祭祀
・中期以降に土製仮面(土面)増加

東名遺跡出土 木製仮面
佐賀市教育委員会編「縄文の奇跡! 東名遺跡」(2018、雄山閣)から引用

仮面習俗も大変興味がありますから、重要な学習テーマとしたいと思います。
2020.03.20記事「国宝土偶「仮面の女神」注記付き3Dモデルと想像的解釈

5 多様な装身具
・東名遺跡…シカ角加工装身具(腰飾り)、ツキノワグマ犬歯製垂れ飾り、サメ歯製垂れ飾り、貝製装身具(クマサルボウ製、マツバガイ製、ベンケイガイ製、オオツタノハ製)
・滋賀県石山貝塚…子ども埋葬例に伴うツノガイ製玉
・千葉県取掛西貝塚…ツノガイ製玉
・愛媛県上黒岩岩陰遺跡…タカラガイ製装身具、マキガイ製ビーズ

東名遺跡出土装身具
佐賀市教育委員会編「縄文の奇跡! 東名遺跡」(2018、雄山閣)から引用

千葉県取掛西貝塚出土 ツノガイ製玉
船橋市教育委員会発行「ふなばしの遺跡」(2017)から引用

6 土偶の増加
・千葉県木の根遺跡…三角形に大きな乳房
・茨城県花輪台貝塚…大きな乳房
・大阪府神並遺跡…四角い粘土版に乳房貼り付け
・鹿児島県上野原遺跡…顔の表現はない
・千葉県中鹿子第2遺跡…腰部だけで乳房はない
・千葉県打越岱遺跡…頭部から腰で乳房はない
・土偶の多元的発生説

茨城県花輪台貝塚出土土偶
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

土偶についてはすでに重要学習テーマとして興味を持っています。土偶は時期によりその意義が微妙に(あるいはかなり)異なるようだとの作業仮説の下に学習を進めたいと思います。

7 早期の社会構造
・母系的な社会の可能性

8 縄文文化の主要な要素の萌芽期としての早期
・早期は縄文文化の萌芽期で、要素はすべて前期にまで持ち込まれる。

9 感想
縄文早期になぜ縄文文化の諸要素の萌芽が生まれたのか、なぜそれが前期に持ち込まれたのか、その理由(背景)をより深く理解できるように今後学習することにします。
縄文早期初頭は海面が現在より40m低く、縄文早期末までに海面が40m上昇しました。この地形の大変化(現代風に言えば国土の大縮小)と縄文早期文化とはどのように絡むのか、学習を深めたいと思います。

2020年5月20日水曜日

イヌの利用

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習23

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「3 多様な動植物の利用」の小見出し「イヌの利用にみる動物管理の開始」を学習します。

1 イヌの利用にみる動物管理の開始
「年代的にも確実な日本最古のイヌの事例として認められているのが、神奈川県夏島貝塚と上黒岩岩陰遺跡、佐賀県東名遺跡の各遺跡から出土した縄文時代早期の事例である。特にイヌの埋葬例もこの時期までさかのぼることから、すでにイヌがヒトと社会的な関係を取り結んでいたことがわかる。おそらくは、主に猟犬として利用されていたのだろう。」
「イヌが誕生したのはユーラシア大陸のどこかと考えられているが、最古の事例の年代から見て、日本にはすでに馴化が進んだイヌが持ち込まれたと考えられている。縄文においてはその当初から、イヌはヒトのよきコンパニオンアニマルであったのだろう。」
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

2 感想
縄文人の犬に対する親愛の感情は強いものがあったと常日頃から感じています。以前千葉市大膳野南貝塚の学習を体系的に行ったときに、竪穴住居跡による廃屋墓が多数存在していることを知りました。しかし、ある堀之内1式期の竪穴住居跡は犬用廃屋墓として利用されていることを知り、犬が人と同格に扱われている状況を感じました。

2号犬骨(幼犬)
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

J9竪穴住居 人骨と犬骨の土層断面模式位置
2号犬骨は竪穴住居床面で貝層直下から出土しています。貝層からはなんと周産期人骨が出土していて、犬用廃屋墓に人の赤ん坊も後に一緒に埋葬されたことになります。
ブログ「花見川流域を歩く」2017.12.18記事「犬用廃屋墓」参照

3 参考

縄文犬 飛丸くん 3Dモデル動画
船橋市飛ノ台史跡公園博物館常設展展示模型 縄文犬「僕の名前 飛丸」
船橋市藤原観音堂貝塚出土犬骨に基づく復元模型
3Dモデルはhttps://skfb.ly/6JQZw

多様な動植物の利用

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習22

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「3 多様な動植物の利用」の小見出し「食料としての動植物」「東名遺跡にみる水辺利用と貝塚」「植物の素材利用の開始」を学習します。

1 多様な動植物の利用
青森県長七谷地貝塚出土物(食べられていたもの)
ハマグリ、オオノガイ、ヤマトシジミ
ニホンジカ、ツキノワグマ、キツネ、ニホンアシカ
スズキ、クロダイ、カツオ
貯蔵穴からオニグルミ

2 東名遺跡にみる水辺利用と貝塚
佐賀県東名遺跡出土物(食べられていたもの)
貯蔵穴(水漬け保存)からイチガシ(8割)、ナラガシワとクヌギ(1割弱)
オニグルミ
スダジイ、ツルマメ
イノシシ、シカ
タヌキ、ノウサギ、アナグマ、テン、カワウソ
スズキ、ボラ、クロダイ
アユ、コイ、フナ
次の図に示すように食料をバランスよく摂取していた。

佐賀県東名遺跡出土人骨における食性分析結果
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 植物の素材利用の開始
カゴなど編組製品とその素材(樹皮、ヘギ材、シダ植物、ツル植物などが束状になったもの(素材束))が出土。

低地型貯蔵穴と編みカゴ カゴ復元品
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

4 考察と感想
4-1 長七谷地貝塚と東名遺跡の情報源
長七谷地貝塚に関して次のwebサイトから解説書をpdfファイルで入手することができました。

サイト「北海道・北東北の縄文遺跡群
長七谷地貝塚に関する資料が掲載されているサイト

入手解説書掲載図
遺跡と縄文海進との関係が詳しく調べられているようです。

東名遺跡に関して次のサイトで解説書を閲覧することができました。

サイト「saga ebooks 東名遺跡解説パンフレット
東名遺跡に関する資料が掲載されているサイト

東名遺跡解説資料に掲載されている地下における遺跡の状況

4-2 参考 長七谷地貝塚と東名遺跡の現在の地形

長七谷地貝塚付近の現在の地形3Dモデル
貝塚が形成されたころ、海がどこら辺にあったのか、研究成果をみればわかると予想します。

東名遺跡付近の現在の地形3Dモデル
東名遺跡で人が生活していた時、海岸線はどうなっていて、その場所から背後の山までの平地はどのように利用されてて、山はどのように利用されていたのか興味がそそられます。時間とともに地形がどのように変化したのかと、その利用を人がどのように行ったのか興味が尽きません。

4-3 感想 その1
長七谷地貝塚と東名遺跡についてさらに専門的資料を入手して詳しく学習したいと思います。
双方の遺跡の発掘調査報告書は「全国遺跡報告総覧」からはダウンロードできません。

4-4 感想 その2
長七谷地貝塚と東名遺跡ともに縄文早期後半の縄文海進が進んで海域が広がったころの遺跡です。
その頃は縄文早期前半とか最初期と比べると平地面積が極めて狭小になっています。従って、早期前半と比べると早期後半は平地におけるシカやイノシシの狩猟が困難になっています。獣肉の入手が限られるので、動物タンパクの入手という点で、どうしても漁労に頼らざるをえません。
縄文海進の影響はプラス面(良好な漁場の現出)とともに、マイナス面(良好な猟場の消失)ということも考えなければならないと考えます。

山地での狩猟では多くの人口を養えません。しかし平地での狩猟ならばある程度の人口を養えると思います。
縄文早期前半では海面高度が低く平地面積が広く存在していました。したがって狩猟による動物タンパクの摂取をある程度獣から賄えていたと考えます。
しかし海面高度上昇で平地面積が急減すると狩猟による動物タンパク摂取は気休め程度になってしまいます。その窮状をしのぐために漁労に向かわざるを得なかったと考えます。

人骨食性分析結果から「バランスよく栄養を摂取している」旨佐賀縄文人が褒められていますが、当時の縄文人の心情は「できれば獣肉で腹を一杯にしたい」のだったのだと思います。(千葉では、縄文海進ピークから海退に転じた縄文晩期には平地(干潟や砂洲)が広がり獣が増えます。そうすると漁労は下火になり、獣骨出土が増えます。)

2020年5月18日月曜日

北の大規模集落

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習21

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「2 定型的な居住様式の確立と貝塚の形成」の小見出し「北の大規模集落」「本州における様相」「集落から居住集団を推測する」を学習します。

1 北の大規模集落
「北海道八千代A遺跡からは早期前半の時期の竪穴式住居が103棟以上確認されたほか、9万点弱もの遺物が出土しており、全国的に見ても稀有な大規模な集落遺跡であることが判明している。また、北海道函館市の函館空港中野B遺跡は、津軽海峡を望む海岸の台地の上に広がる大規模な集落跡だが、そこから早期後半の事例を中心とする竪穴式住居跡が700棟以上、検出されている。住居跡の数だけをみれば、まさに縄文屈指の大集落である。」山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

2 本州の様相
「本州でも岩手県馬立Ⅰ遺跡から早期前半の住居跡が14棟、山形県二タ俣A遺跡では早期前半を主とする住居跡が18棟、群馬県多田山遺跡群では早期前葉の稲荷台式期を中心に住居跡が23棟見つかっている。」
「近畿地方でも、三重県鴻ノ木遺跡から早期前葉の住居跡が18棟確認されている。」
「中国地方でも、島根県堀田上遺跡や鳥取県取木遺跡の事例など、そのほとんどの集落が数棟程度の規模しかない。
「九州においても、その南部を除いては、竪穴式住居の検出例は少ない。」
「現状では、早期の段階においては、すでに通年的定住生活を行っていた地域と、そうでない地域があったと理解しておいた方がよいだろう。」
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 集落から居住集団を推測する
1つの住居に何人が生活していたかは、
居住者数=(住居跡の床面積)÷3(人が手足を大きく伸ばしたときの広さ)-1
という式でおおよそわかる。

上野原遺跡では早期住居跡の平均床面積(約7.13平方メートル)から1棟に2~3人生活していたと推定できる。1時期に6~7棟住居があったとすれば、多くとも20人程度が集落人口である。
北海道中野B遺跡では平均床面積(約15.4平方メートル)から1棟に4~5人生活していて、1時期に6棟前後の住居が同人存在していたとされるので集落人口は30人前後と推定される。
集落は2~3家族程度の人々から構成されていたと推定できる。
以上山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

4 感想
これまでの学習結果と合わせると縄文早期定住に関して、山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から次のような情報を読み取ることができます。
●貝塚が形成され本格的な定住生活が営まれていた地域…東京湾沿岸部、青森県赤御堂貝塚や長七谷地貝塚、岡山県黄島貝塚、滋賀県粟津湖底遺跡など
●早期の段階において通年的定住生活を行っている地域…九州南部の上野原遺跡付近、北海道の北海道八千代A遺跡周辺、函館空港中野B遺跡周辺など
●通年的定住生活を行っているとは考えられない地域…上記を除いた本州東北・関東・近畿・中国・九州北部など

以上の結果を地図にプロットすると次のようになります。

縄文早期大型集落と縄文早期貝塚

関東平野の縄文早期貝塚

図書に記述されていることを機械的に理解すると、九州南部と北海道及び関東の3カ所が縄文早期に定住化が全国に先駆けて進んだと考えることができます。
九州南部は列島で南に位置していて気候の温暖化が早かったという条件から定住化が早かったと理屈をつけることができます。
関東は海進の影響が顕著で漁労という有望な新たな生業を獲得できたので定住化が早かったと理屈をつけることができます。
北海道はなぜ定住化が早いのか?草創期以来の大陸からの影響が「資産」として残っていたからなのか?今一つ自分には理屈をつけることができません。

函館空港中野B遺跡については今後さらに検討を深めたいと思います。

(縄文時代の全国貝塚データを当方活動のために奈良文化財研究所から提供していただきました。感謝申し上げます。そのデータから早期に関わる遺跡を抽出してQGISでプロット図を作成しました。)


5 参考
5-1 上野原遺跡の位置

上野原遺跡の位置
webにおいて、鹿児島県立埋蔵文化財センター→埋蔵文化財情報データベース→埋蔵文化財全情報検索→遺跡分布地図検索(詳細版)→霧島市→上野原遺跡の操作で正確な遺跡位置図を入手できました。

5-2 函館空港中野B遺跡、北海道八千代B遺跡の位置

函館空港中野B遺跡の位置

北海道八千代B遺跡の位置
webで北海道オープンデータポータル→データカタログ→データセット検索→地図・GIS→埋蔵文化財包蔵地(GISデータ)【北海道】でデータをダウンロードして、QGISプロットして位置を確認できました。
webで北の遺跡案内→北の遺跡案内へ進む→地図から探す→(自治体別操作)で遺跡地図にたどり着けることもできます。