2021年10月17日日曜日

磯前順一「土製儀礼用具-ポスト構造主義と組成論」学習

 趣味活動の一環である土偶学習をより楽しむためにはある程度専門的知識を入手する必要性を感じるようになりました。

ブログ花見川流域を歩く2021.10.11記事「土偶学習の発起

手元の一般図書以外に考古学専門書・論文も学習してみることにしました。その第1弾を磯前順一(2014)「土製儀礼用具-ポスト構造主義と組成論」(講座日本の考古学4縄文時代下、青木書店)として学習しましたのでメモします。


磯前順一(2014)「土製儀礼用具-ポスト構造主義と組成論」が掲載されている講座日本の考古学4縄文時代下(青木書店)

自分のこれまでの学習・知識と真向から衝突し否定する記述も含まれていて、結果的に最初の学習文献としてはとてもふさわしいものでした。なぜこの文献を最初に学習したいと思ったのか詳しい経緯は錯綜してきていますが、大方の専門図書参考文献に掲載されていることと、著者がユング心理学からの土偶理解など視野が広い研究者であるように感じたからです。

以下、主な記述内容と感想をメモします。

1 編年研究のいきづまり

1-1 記述

・型式研究から宗教観念を探ろうとする試みが座礁したことが明らか。

・どのようなかたちで型式から観念を探るべきなのか、その問の立て方を吟味する必要がある。

・型式研究とはいったい何なのか、型式の内実をきちんと検討することが大切。

・筆者の宗教遺物構造論、大塚達郎のキメラ土器論がそれぞれのやり方で方向性を示唆している。型式研究は時期区分のための編年確立に尽きるものではない。

・社会構造の動態を表出した集合表象としてよみとられるべきものである。

・これまでの土偶研究は型式研究を編年研究として、時期区分のための分類作業として捉えてきた傾向がある。そこで区分された時空間のまとまりからどのような特徴を読み取るべきなのかということを等閑してきた。

1-2 感想メモ

従来の土偶型式研究は編年確立に偏重して、宗教観念を探る試みは座礁したという現状判断を考古学研究者がしていることを初めて知りました。また、編年により時期区分された時空間のまとまりにどのような特徴を読み取るかということが重要であるとの指摘が今後の研究方向と大いに関係があると考えます。

2 宗教研究の陥穽

2-1 記述

・吉田敦彦「土偶の神話学」は水野正好「土偶祭式の復元」を神話学の知見から展開したもの。このような土偶論にたいして他民族の民族誌では縄文文化の特異性を理解できないとの不信感がある。斉一性(人類や特定文化圏のなかの共通性)の論理に疑問がある。

・宗教学や神話学の目的は宗教や神話の観念を解き明かすことであり、さまざまな地域や過去の社会を題材にして一つの「仮説」として概念を組み立てる解釈行為である。それは新たな資料で絶え間なく修正され、然るべき時期がくれば異なるパラダイムによって抜本的に読み替えられていく行為遂行的な発話である。

・この解釈概念を事実化しようとする欲求が潜んでいる。考古学者はその欲求を鵜呑みにしてはならない。

2-2 感想メモ

ア 吉田敦彦「土偶の神話学」について

ア-1 吉田敦彦の論を事実と勘違いしてはいけない

吉田敦彦の土偶に関する神話学は最近の自分の土偶観察の根拠・理論背景としてきたものです。それが真向から否定されているので大きな刺激を受けます。


愛読している図書 吉田敦彦「縄文の神話」

ここでの批判は次のような論理になっています。

「吉田敦彦が神話学のテーマとしてハイヌウェレ型神話や地母神像の内容を豊かにし、その分布を確保するための補助資料として土偶を論じることは「解釈」である限り、なんら論理的誤りはない。問題はそこで推察された文化圏が実体化され、土偶の観念を論じるさいにあらかじめ用意された「事実」にまつり上げられたときに、懸念が生じる。」

吉田敦彦は東アジアから東南アジアにかけて女神殺害再生神話が分布し、それと同じ神話が縄文社会に存在していたと考え、土偶はその神話に基づく祭祀で使われたものと詳しく論じています。

このような吉田敦彦の解釈・仮説を考古学が真に受けてはならない(事実と勘違いしてはいけない)というのが磯前順一の指摘です。

考古学という立場にたてば真っ当な議論だと思います。考古学独自の手法で土偶とか縄文宗教観念とかにせまりたいというのが磯前順一の願いであることが判りました。

ア-2 神話学や心理学からみた土偶

神話学や心理学の知識や興味を土偶に投影して土偶を解釈した仮説は考古学者の研究とは関係ないということになりますが、一般市民としては興味をもつところです。自分の趣味活動では神話学者吉田敦彦の土偶解釈・仮説を楽しみたいと思います。また磯前順一が以前行っていたユング心理学を土偶に投影した解釈・仮説も楽しみたいとおもいます。最近話題になった人類学者竹倉史人の「土偶を読む」も楽しみたいとおもいます。

考古学土偶研究の学習を基本としつつ、周辺学問における土偶研究も学習して、自分の土偶学習を豊かなものにしたいと思います。

3 考古学で「知る」ことの2つの次元

3-1 記述

考古学で「知る」ことは次の2つの次元から構成されている

1 物理的証拠から確定される事柄(壊す埋める作り直す)…過去の事実に接近できる

2 宗教観念の推測…異なる時代・地域の社会の分析から導き出された概念が土偶に当てはめられる。推測で依拠する観念自体が既に推測の産物である

縄文時代を知るとは物理的事実をもとにしながらも既存の解釈によって有意味化させること。

「~という解釈を前提とすると、縄文人の痕跡はこのように読み取ることも可能である」という推測の段階。

縄文人が宗教的行為を概念化して理解していたとも限らない→神話のような概念的なものと儀礼のように言語を介さない身体行為をとる場合がある。

土偶のように儀礼行為をともなうものでは意識化された概念次元よりも無意識的な身体行為に強く結びつく傾向を持つと考えられる。→現代研究者と縄文社会の宗教行為の間に溝が生じる。

観念の実体的復元が最終目標にはなりえない。

「興味深いしかも甚だ把捉しがたい問題を如何にして解くことができるであろうか」といって問いのあり方そのものが考慮されなければならない。どのように彼らの信仰を論じるべきなのか、どのようなかたちであればそれが可能になるのか、問いの立て方自体が問題なのである。

3-2 感想メモ

「縄文時代を知るとは物理的事実をもとにしながらも既存の解釈によって有意味化させること。」これが土偶学習の真髄であるとかんじます。どんなに精緻に物理的事実を調査しても、既存の解釈が無ければ(既存の解釈が優れていなければ)土偶の有意味化ができないところが悩ましいところです。

4 2つの研究動向

4-1 記述

次の2つの研究動向が浮上している

1 縄文末期から弥生前半期にかけての土偶の意味変容論

2 縄文中期以降の土偶型式の組成論

1の設楽博己の研究…黥面土偶・土偶形容器・顔付土器→地母神的な「多産の象徴」から「祖先の像」へと意味変容したという解釈

磯前順一は亀ヶ岡文化の宗教関連遺物の構造性を析出した。


亀ヶ岡文化の宗教関連遺物の構造性

縄文社会の宗教研究は縄文時代の均質な世界観を捉えるのではなく、各時期各地域の複雑性へ踏み込んでいいくことになる。

構造変形は地域性の問題につながる。

安行・亀ヶ岡双方に(よそ者・異人)がいる

異系統土器、キメラ土器

4-2 感想メモ

自分の土偶学習でどのような分野で誰の研究を学習すべきか、そのターゲットを考える上で参考になります。

5 まとめ

5-1 記述

型式と遺物あるいは構造と遺跡との往還関係から縄文社会の信仰関係を研究するためには、型式や構造という理念型は欠かすことのできない概念であり、このような同一性を介在させることで、はじめて現代の研究者にしても当時の社会の人々にしても、一定の共同幻想のもとに文化や社会を構築することができるのである。

先史社会の宗教研究は、神やマナなど、不可視の力として想起される人間の世界把握の思惟様式を、型式と遺跡との往還関係のなかで、構造の変転過程として思考していくことなのである。

5-2 感想

土偶型式の学習を急ぎたいと思います。また今回はじめて構造(例亀ヶ岡文化の宗教関連遺物の構造性)という概念を知りました。いつかどこかの遺跡を事例にして構造を学習してみたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿