2020年4月21日火曜日

複雑な精神文化の芽生え


山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 16

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「4 複雑な精神文化の芽生え」を学習します。

1 複雑な精神文化の芽生え 概要と感想
1-1 土偶の出現
・草創期土偶出土例
三重県粥見井尻遺跡…乳房を表現した土偶2点出土
滋賀県相谷熊原遺跡…女性上半身を想像させる土偶出土
鹿児島県掃除山遺跡や愛媛県上黒岩岩陰遺跡…女性を思わせる線刻画石製品(線刻礫)出土
・これらの資料は、素材を問わず明確な乳房の表現があることから女性をかたどったものと考えられるが、その具体的な用途、使用場面は現状では不明な部分が多い。しかしながら、この段階で女性に対する「なんらかの特別な視線」が存在したことは肯定できるだろう。その場合、やはり生物学的にも女性にのみ可能である妊娠・出産という、新たな生命を産み出す特性に注目せざるをえない。

滋賀県相谷熊原遺跡の土偶
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

→この説明の通りだと思います。次の2点について、共感と違和感という反対方向の感想を持ちましたのでメモしておきます。
ア 「複雑な精神文化の芽生え」という表現
妊娠出産育児に対する強い感情や奥深い精神活動は旧石器時代から引き続き存在していたと考えます。草創期から生まれたということはあり得ません。しかし、草創期からその強い感情や奥深い精神活動を土偶や線刻礫として表現して、それを呪術道具として活用し始めたということができます。強い感情や奥深い精神活動が呪術道具を使うことによって整理され、体系化され、豊かになり、子孫に伝わりやすくなったと想像します。おそらく道具は祈願のための言葉(呪文)と一体のものであり、その言葉(呪文)が多くの困難・障害克服にきわめて有効であったに違いありません。このような社会状況発生を「複雑な精神文化の芽生え」と表現することは大変適切で共感します。
呪術道具の発生=祈願の言葉(呪文)の発生と考えます。言葉(祈願に関連するテクニカルターム)が縄文草創期に豊富化したに違いありません。

この「複雑な精神文化の芽生え」の契機となるものが土偶であると考えます。
土器発明により、いわばその副産物で好みの造形が土製品として作れるようになって、土偶(呪術道具)が生まれ、それにより祭祀活動が豊かになるという社会発展側面を見ることができます。

イ 「女性に対する「何らかの特別な視線」が存在」という表現
揚げ足取り的、言葉尻的な違和感ですが、「女性に対する「何らかの特別な視線」が存在」という表現は男性が(あるいは社会一般が)女性を見ているような表現になっていて、違和感を感じます。
乳房を表現した土偶は、女性自らが作り、女性自らが使ったと考えます。土偶づくりで男性が関わるとか、その利用で男性が関わるとは考えられません。「女性に対する「何らかの特別な視線」が存在」したのではなく、女性が自らの社会使命(存在意義)である妊娠出産育児の成功を祈願する道具(とそれに付随する言葉(呪文))を発明したということが特筆されるべきであると考えます。

最寒冷期神子柴・長者久保時代に女性によって調理道具としての土器が発明され、草創期に同じく女性によって妊娠出産育児の祈願道具である土偶が発明されたと考えます。

1-2 墓のあり方
・草創期墓は多くない
栃木県大谷寺洞窟遺跡
・墓に関する資料はフェイズ3から増加
長野県仲町遺跡…近接土坑墓3基、埼玉県打越遺跡…実用品副葬、福島県仙台内前遺跡…実用品副葬
→追って詳しく学習することにします。

1-3 当時の社会構造
・草創期の段階において社会構造にまで迫れるような良好な資料はほとんどないが、大分県教育庁の綿貫俊一は、愛媛県上黒岩岩陰遺跡の事例を取り上げ、この難問に挑んでいる(綿貫二〇一四)。綿貫は、上黒岩岩陰遺跡から出土した女性像が刻まれた線刻礫に注目し、これを女性の持ち物と見なした。その上で、仮に上黒岩岩陰遺跡のある久万高原から海岸部や平野部への婚姻などによる女性の移動、あるいは双方向における夫方居住婚や、居住形態としての季節的な移動があったならば、海岸部や平野部でも線刻礫は見つかるはずだとし、現状では上黒岩岩陰遺跡以外に出土例が確認されていないことから、結婚後も集落に女性がとどまるような婚姻形態(夫が集落にやってくる妻方居住婚)が採られていたと考えている。 また、綿貫は線刻礫を用いる儀礼が長期にわたって存在した可能性を指摘するとともに、上黒岩岩陰遺跡四層から出土した人骨には女性骨が多いという点から、早期においても妻方居住婚が存在したと考えている。通常、妻方居住婚は母系的な社会に見られることが多いということを勘案すれば、草創期から早期にかけてこの地域には母系的な社会が存在していた可能性が指摘できるだろう。

→大変興味深い記述です。しかし詳しい資料を読まなければ「そうなんだ!」と膝を手で思わず打つような実感がわきません。学習になりません。資料を入手して学習を深めたい遺跡です。しかし図書引用文献は現状では入手が不可能なようです。資料入手機会をうかがいたいとおもいます。
なお、国立歴史民俗博物館研究報告154集及び「縄文文化のはじまり 上黒岩岩陰遺跡」(小林謙一、新泉社)が入手できましたので、この遺跡は特段の興味が湧きますので、寄り道学習をしてみることにします。
→上黒岩岩陰遺跡の線刻礫の意義がわかりかねています。何故土偶ではないのか?なぜ線刻礫出土例がほとんどないのか?…??本当に女性用?

上黒岩岩陰遺跡出土石偶 国立歴史民俗博物館研究報告154集から引用

2 参考
2020.04.20Twitterで三上みみ様の相谷熊原遺跡出土土偶紹介ツイートをリツイートさせていただきました。そのリツイートで次のように書きました。
「私は最初の土偶は母乳が出て乳児を餓死させない祈願だと考えました。首の穴に紐を樹液等で付けて身につける。小さいので女性個人専用で集団「祭祀」活動などと無関係と想像しています。」

Twitterの画面

2020年4月19日日曜日

わかりはじめた植物利用のあり方

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 15

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「3 わかりはじめた植物利用のあり方」を学習します。

1 わかりはじめた植物利用のあり方 概要と感想
1-1 堅果類用貯蔵穴の存在
・氷期がおわりに近づきつつあった約一万五〇〇〇年前頃、地球環境は急激な温暖化に見舞われた。
・この温暖化によって多くの植生は、冷温帯性の落葉広葉樹林に急速に置き換わっていった。この新しい森の主役はドングリを実らせるナラ類であった。
・鹿児島県の東黒土田遺跡からは、縄文時代草創期のドングリ類貯蔵穴が発見されており、これは約一万三四〇〇年前のものという年代測定結果が得られている(工藤2011)。
・食用とするのにアク抜きを必要とする種類のものであったら、この時期にまでアク抜きによる植物加工技術はさかのぼると見てよいだろう。
→フェイズ1の最寒冷期に食糧不足を少しでも補う目的で土器が(おそらく魚貝類調理のために)発明されたと想像します。その後のフェイズ2の温暖化でその土器が堅果類アク抜きに「転用」され、それが結果として縄文人の主食確保につながり縄文社会の基礎ができたと素人考えします。
本来の目的ではない別目的で発明された道具が、突然の環境変化で思いもかけない重要機能を担うようになったという現象が発生したと理解します。
このような事象つまり「別目的で作られた道具が転用により社会発展の原動力になる」が人の歴史、古今東西の歴史に多数あるのかどうか興味が湧きます。
このような事象を単なる偶然として片づけてよいものか、それとも偶然以外の法則的な現象であると捉えられるのか、興味が湧きます。
→ドングリ類のアク抜きの方法や必要量・保管方法等について詳しく学習する必要性を痛感します。膨大な量の備蓄方法など。

1-2 クリの利用開始
・縄文人は、温暖化によって植物相が変化していく中で、木材として食料として、有用な樹木であるクリをいち早く見いだしていたのである。
・この時期にノビルやギョウジャニンニクといった植物が利用されていたこともわかっている。
・他、ダイズ属(ツルマメ)の土器圧痕も検出されており、当時の人々がすでにマメ類も利用していた可能性が高い。
→クリの活用、クリ林の管理については別に詳しく学習したいと思います。

1-3 ウルシの利用開始?
・鳥浜貝塚からは、約一万二六〇〇年前のウルシ材が出土している。ウルシは、本来、日本には自生しない外来植物であることから、ウルシがすでに草創期には日本に持ち込まれていたことになる。現状では、当時ウルシが何に使われたのか判断するのはむずかしいが、樹液を採集し、石鏃と矢柄を接着したり、土器を接合したりする接着剤として使われた可能性も否定はできない。また、すでにこの段階で漆器の製作加工の技術が存在した可能性も視野に入れておいてもよいかもしれない。
→ウルシの樹液による漆器製作にはウルシ液の保温等のために土器が必須ではないだろうかと考えます。土器が先行するからこそウルシ液活用が始まったと考えてよいか学習を深めます。

2 参考 加曽利B2式土器漆パレット再利用品

西根遺跡352番土器 内面 (千葉県教育委員会所蔵)
(観察土器は放射性炭素測定資料採取のためにあらかたの漆が除去されています。)

352番土器漆付着の様子
西根遺跡発掘調査報告書から引用
出土した時の漆付着の様子写真です。
ブログ花見川流域を歩く2019.06.04記事「加曽利B2式土器 西根遺跡 漆パレット再利用品

2020年4月13日月曜日

草創期フェイズ3の学習

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 14

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「2 草創期における各様相」の「フェイズ3におけるさまざまな展開」を学習します。

1 フェイズ3におけるさまざまな展開 概要と感想
・寒の戻りであるヤンガードリアス期の頃で、およそ一万三〇〇〇年前から一万一五〇〇年ぐらい前のことである。

参考 旧石器時代末から縄文時代にかけての狩猟具の変遷と気候変動
堤隆著「狩猟採集民のコスモロジー 神子柴遺跡」(2013、新泉社)から引用・加筆

・この時期に使用された土器…爪形文土器群、多縄文土器群、表裏縄文土器群
・「遺跡の立地をみると、山間部へと分布が拡大していくさまが読み取れる。遺跡数も以前より増加し、住居跡等の遺構の発見例も多くなる。」
→山間部への分布拡大について、後日データを見つけてその具体的状況を確認したいと思います。一般論として生活域が拡大したというレベルではなく、〇〇のために山間部まで分布が拡大したと考えられるにように学習します。寒冷化で生活が厳しくなる状況で、なぜ山間部にまで拡大したのか?なぜ住居跡等の発見が多くなる(≒遺跡増、人口増?)のか?
・「実用品である石器や土器以外にも呪術具である土偶(三重県粥見井尻遺跡・滋賀県相谷熊原遺跡)や赤色顔料を塗った土器(宮崎県清武上猪ノ原遺跡)なども出土しており、この段階で精神文化にある程度の高揚があったことは間違いないだろう。」
→精神文化の高揚と寒冷化で生活が厳しくなったという事象に関係があるような気がします。寒冷化と精神文化高揚の相関を考えてよいか?
飢えで家族が死ぬなどの厳しい場面に何回も遭遇する中で、自分の正気を保ち、困難に立ち向かう気力を保持するための心の持ち方の工夫が集団全体で営まれたと想像します。その精神的営為における産物が土偶や赤色土器であると理解しておきます。

滋賀県相谷熊原遺跡の土偶
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
土偶の乳房は、出産後赤ん坊に十分な母乳を飲ませることができて、無事育てられることを祈願していると思われます。
おそらく母乳が十分に出ないために、出産後しばらくして死してしまう赤ん坊が多かったのだと思います。
妊娠した女性が母乳がたくさん出るように乳房が大きくなるように祈願して、土器製作の合間に自ら作成したと想像します。
首のところにある穴はここに蔓のような紐を差し込んで樹液等で接着し、その紐で衣服に縛ってお守りとして肌身離さず持てるようにしたと想像します。土偶(お守り)が生活の邪魔にならないように手でできる最小限の大きにしています。
土偶(お守り)が最小限の大きさであることから、逆に、妊娠女性が自分だけで加護を祈願していたということがわかります。家族に見せるためとか、家の中に飾るとかの用を全く考えていなかったことがわかります。出産と育児の全責任が自分にあるという覚悟を持っていたことが判ります。
赤ん坊が無事育つことがいわば奇跡であり、無上の幸福であった時代であることをこの土偶が語っているのだと思います。
逆にこの土偶は、多くの出産後女性の乳房が小さく、母乳が十分に出ないので赤ん坊の多くが死んでしまう食糧事情を物語っています。

・「フェイズ3の段階における居住形態は、本格的な定住を視野に収めつつも、その段階にはまだいたっていないものと考えられるだろう。」
→三重県粥見井尻遺跡や滋賀県相谷熊原遺跡の住居について発掘調査報告書等を入手してデータを確かめて、本書記述の理解を深めたいと思います。

2 参考 縄文早期前半のバイオリン型土偶

バイオリン型土偶 小室上台遺跡出土
船橋市飛ノ台史跡公園博物館展示

2020年4月12日日曜日

草創期フェイズ2の学習

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 13

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「2 草創期における各様相」の「フェイズ2における状況」を学習します。

1 フェイズ2における状況 概要と感想
・温暖化が始まった15000年ぐらい前から13000年ぐらい前の段階。

参考 旧石器時代末から縄文時代にかけての狩猟具の変遷と気候変動
堤隆著「狩猟採集民のコスモロジー 神子柴遺跡」(2013、新泉社)から引用・加筆

・「この頃になると植生も落葉広葉樹が多くなり、遺跡も台地や丘陵地へと進出していく様相を見ることができる。この頃に使用されていた土器は、口縁部に粘土の貼り付けによってミミズ腫れのような文様を付けた隆起線文土器群と呼ばれるものである。この時期には、日本各地において遺跡数も増加し、住居跡と考えられる遺構の発見例も増えてくる。」
→台地や丘陵地は旧石器時代から主要な狩場として利用されてきていますが、フェイズ2の段階ではじめて台地や丘陵地の狩猟キャンプでも土器を利用しだしたと理解します。土器が海岸や河川での生業で使われるだけでなく、狩場近くの逗留地でも使われるということは土器の利用の幅が広がったということで、堅果類の食用に使いだしたと考えます。また土器を所持するということから1箇所に定着する期間が延びたということ、つまり定着性が進んだというとも意味すると考えます。
→温暖化による植生変化という自然事象を、土器という道具を活用することによって、生活を有利に展開する条件に変えたことが縄文文化展開の根本的な基礎であると考えます。

・「縄文時代を代表する石器である石鏃の出土数も増加する。しかしながら、石鏃が出土しない遺跡も存在するので、この段階には弓矢の使用はまだ一般化していなかったのかもしれない。」
→弓矢の発明がいつ行われたのか、その契機(背景)はなにかなど学習を深めたいと思います。
→携帯弓矢と設置型仕掛け弓との関係も研究があれば知りたいと思います。
→この時期だけ矢柄研磨器が伴うのはなぜか、その疑問に対する答えを得たいと思います。

・「九州地方南部における人々の定着性(定住化傾向)は、他地域に先駆けて強くなっていたと考えられるだろう。」
・「北海道にも本州と同じ時期に土器文化が存在したことが明らかとなった。」
→九州地方南部と北海道の遺跡事例を発掘調査報告書等により今後学習したいと思います。
→九州の事例では「植物加工に用いられたと思われる石皿や磨石類(堅果類などを敲いてすりつぶすための丸い石)が目立つようになる。」のに対して、北海道の事例では「おそらくは川をさかのぼったサケ・マス類を土器で調理した痕跡である可能性が高いとされている(Kunikita,D.etal2013)。」という対比は土器利用の主目的が時間によって変化した様子を地理的に表現しているように理解します。

2 参考 隆起線文土器及び有舌尖頭器 3Dモデル

隆起線文土器片(44図-1) 一鍬田甚兵衛山南遺跡出土 観察記録3Dモデル
撮影場所:千葉県教育庁文化財課森宮分室
撮影月日:2019.05.27
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.353 processing 52 images

有舌尖頭器(88図-30) 一鍬田甚兵衛山南遺跡出土 観察記録3Dモデル
千葉県教育委員会所蔵
撮影場所:千葉県教育庁文化財課森宮分室
撮影月日:2019.05.27
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.353 processing 42 images

一鍬田甚兵衛山南遺跡出土土器、石器を多数閲覧して3Dモデル作成用撮影を行っていますので、それを材料にして時期設定して草創期フェーズ2学習を深めたいと考えています。

2020年4月11日土曜日

草創期フェイズ1の私的学習仮説のバージョンアップ

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 12

2020.03.29記事「草創期フェイズ1と私的学習仮説」の追補記事です。
数冊の図書を読み旧石器→縄文の移行期のイメージが少しだけですが豊かになりました。そこで草創期フェイズ1に関する私的学習仮説をバージョンアップします。
なおこのブログでの私的学習仮説とは、自分がこれから行う縄文社会消長分析学習で何が問題・課題であるか、つまり自分は何に興味を持つべきかという態度を整理するために設ける学習興味一覧みたいなものです。自分の学習をより効率化するための仮説です。

フェイズ1に関する私的学習仮説(バージョンアップ 2020.04.11)
1 寒冷化が促したヒトの土器発明
1-1 最寒冷期にヒトが生き残るために食糧資源開発が活発化した。
最終氷期クライマックス期に入り寒冷化が一段と進み、ヒトという種が生き残るために食糧資源開発が喫緊の課題になったと考えます。
寒冷化の中で狩猟で獲った動物だけではヒト社会を維持できるだけの食糧を全部賄えない状況が生まれたと考えます。
古本州島では生き残りのためにヒトは次のような工夫をした(せざるをえなかった)と考えます。
ア 動物をより効率的に獲る工夫をする
イ これまで利用しなかった獲物部位や動植物をより効率的に食糧資源化する
・骨や皮・腱等の効率的食糧利用
・サケマスの食糧利用
・貝の食糧利用
・樹皮や根茎等の食糧利用

アに関しては当時のハイテク技術とでもいえる細石刃文化が古本州島に入ってきたことに対応していると考えます。石材を採集し持ち運ぶ手間が急減し、狩猟活動が効率化したと思います。
イに関して、多様な工夫がなされ、その一つに煮沸のための容器有用性が体験的に知られるようになり、土器発明の条件が整ったと考えます。
貝の利用は当時の海岸線が海抜マイナス100mにあり、遺跡遺物から検証することは現状では不可能です。しかし、当時の人が海岸線にも進出して食糧を調達したことは当然であると考えます。

1-2 土器の発明
・動物の骨や皮・腱等、サケマスや貝、樹皮や根茎当を調理して美味しく食べるために試行錯誤の末に土器が発明されたと考えます。
・土器は調理器具として発明されたのであり、即ち女性が発明したものです。

2 土器発明が定着場面増加を促す
土器が発明されサケマス、貝、樹皮や根茎等を効率的に食糧に取り込み、美味しく食べられるようになると、それらの食材は全てある季節に獲れるものであり(旬の食材)、その季節に一定の場所で定着することになります。
石器石材の持ち運びに苦労している狩猟民にとって土器はそれ以上に持ち運びに不便なものです。
土器の発明は最初からそれを使う場所での一定の定着生活を意味していたと考えます。
つまり、土器が発明され食材が多様になるとともに遊動生活に定着場面が増えたと考えます。

3 定着場面増加が遊動集団の領域占用を促す
遊動的狩猟をしつつも季節の旬の食材を特定場所で獲得する生活を繰り返しているうちに、集団ごとに領域占用が生まれたと考えます。
同時に集団ごとの交易も始まったと考えます。
集団は自分の領域にないものは交易によって入手できるようになります。

4 石器石材を交易で入手できるようになる
土器発明に起因する定着場面増加→遊動集団の領域占用→交易の活発化によって石器石材も入手できるようになったと考えます。
素材としての石材だけでなく、製品としての石器の流通も始まったと考えられます。
神子柴遺跡の大型石斧はこのような交易の様子を示しています。
細石刃のような石材の超節約をしなくて済む社会が生まれたのだと思います。
土器発明が引き金となって石器石材が交易ルートで入手できるようになると、細石刃文化は用済みになったと考えます。

5 土器発明が古本州島で生じた地形的背景
土器発明が古本州島で生じたと考えるとき、その背景として次のようなことが考えられると想定します。
ア 古本州島では海岸域(貝類)-河川中上流域(サケマス)-台地丘陵山地(陸獣)のセットが手ごろな「流域」として存在しています。その多様な自然環境を家族-集団が独占的に利用できます。したがって、貝類やサケマス資源開発が社会テーマとなった時に社会全集団がその開発に取り組むことができます。
イ 古本州島は地形が複雑であり大規模で効率的な陸獣猟が不可能であることから貝類やサケマス資源開発を促進せざるを得ない側面もあったと想定できます。
ウ 沿海州大陸では地形単位が大きく陸獣猟が効率的にできることからサケマス資源開発が遅れた可能性があります。その結果土器発明も遅れたと考えます。
エ 沿海州陸域面積に比して海岸線が短く、結氷の影響もあり貝類等海域資源開発は低調であったと想定します。海岸部利用の低調さが魚貝類資源開発の遅れになり、それが土器発明遅れに影響したと想定します。

ツタの新芽

2020年4月7日火曜日

春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」学習

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の参考文献(佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」)に出ていて参考文献の学習です。

1 春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」(国立歴史民俗博物館研究報告 第90集 2001年3月)
国立歴史民俗博物館サイトからダウンロードして入手できました。専門論文が一般市民でも即入手できるということは素晴らしいことです。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun4/index.html

2 縄文土器出現の契機に関する記述
佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」で縄文土器出現の契機について次のように記述し、その参考文献として春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」をあげています。
「縄文草創期の温暖期あるいは早期以降は堅果類のあく抜き処理容器として利用された痕跡が確認でき、煮炊きと並んでこれが縄文土器の主要な用途と考えられるが、出現の契機は別であろう。」

春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」における縄文土器出現の契機に関する記述は次の通りです。
「考古学では,土器の出現を,弓矢・磨製石斧とあわせて後氷期における技術革新の一つとして取りあげてきた長い歴史がある。すなわち,気候の温暖化,完新世の始まりと土器・弓矢・磨製石斧の出現を結びつけて,これらは完新世の新しい環境に適応するための技術革新であり生活革命であると理解し,縄文時代の始まりの意味を追究してきた。考古学・古植物学の新たな展開があってもなお,年代をさかのぼらせることによって,これまでの理解を基本的によしとするのか,それとも東日本のばあいはむしろ,寒冷気候下での自然資源の変貌に対応するための発明であったと考えなおすのか,新たな観点からの再検討を迫られている。」(太字は引用者)

関連する掲載図表
春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」(国立歴史民俗博物館研究報告 第90集 2001年3月)から引用

著者は寒冷化が進んで2万年前頃には本州の東ではナウマンゾウなどの大型狩猟獣が姿を消し、旧石器時代人は新たな食糧資源開発を迫られたと述べています。その寒冷期食料資源開発の一環として土器発明もあるのではないかと述べていることになります。

氷期のさらにクライマックス期に土器が発明された理由としてとても分かりやすいものになっています。

3 論文の本旨
論文の本旨は、本州におけるナウマンゾウなどの絶滅の主要な理由は人によるオーバーキルではなく、植生変化によるものであるという点にあります。

更新世後期から完新世にかけての動物の編年的分布
春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」(国立歴史民俗博物館研究報告 第90集 2001年3月)から引用

この論文はシンポジウムの資料に手を入れたものだそうで、読んでいると著者がしゃべっている様子が目に浮かんでくるような錯覚を覚えるようなとても読みやすい読み物です。
更新世後期から完新世にかけての大型動物絶滅の様子がよくわかります。
古生物学と考古学の橋渡しがこの論文で行われています。

佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」学習 その2(完)

佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」(2013、岩波講座日本歴史第1巻収録、岩波書店)の学習を2回に分けて学習し、そのメモをつくりました。
この記事では土器誕生から縄文時代全部の様子を学習します。

1 興味を持った情報の要旨
ア 世界最古級土器の出現
古本州島では青森県大平山元Ⅰ遺跡の無文土器を最古例として世界最古級土器(16000~15000年前)が出現し、以降連綿と土器文化が継続する。
この時期に中国南部や東シベリア・極東等の一部で相互に独立して土器が出現するが、それらの地で継続した痕跡は確認できない。
南アジア・中国では定住集落による農耕が開始され、おくれて牧畜も発生するがすべて完新世になってからの出来事であり、更新世に土器文化の起源を有する縄文文化は世界的にも稀有な考古的現象と考えられる。
古本州島の最古の土器出現プロセスは依然として明らかでない。

縄文草創期の温暖期あるいは早期以降は堅果類のあく抜き処理容器として利用された痕跡が確認でき、煮炊きと並んでこれが縄文土器の主要な用途と考えられるが、出現の契機は別であろう。

イ 草創期における縄文化への構造変動
最古土器群は寒冷期に相当し、出土数がきわめて限られる。
晩氷期前半温暖期は遺跡が増え、隆起線文土器期で列島中に分布が認められる。本格的な定着生活に移行しておらず、広域移動戦略も行われていた。
爪形文・多縄文・押圧縄文期になると遺跡が激減し晩氷期後半の寒冷期になった可能性が高い。旧石器的な資源環境が復活し遊動的行動生活が有利であった。
早期初頭に遺跡数が本格回復する。
植物処理具(礫石器)は未発達、狩猟具は旧石器時代系譜の両面体尖頭器や有茎尖頭器が主体、弓矢を示す石鏃は前半ですでに出現しているが一般化は後半から、水産資源開発・漁労の証拠である貝塚は早期初頭から、小規模な集落出現は後半からとなる。
縄文化への構造変化は、草創期を通じて徐々に行われた。

ウ 竪穴住居
半地下式の竪穴住居は住居の壁を土で代用でき相対的に堅牢で簡便に構築でき、冬季の暖房効率が高い。定着的生活が竪穴住居採用の必要条件のひとつである。

エ 環状集落
中央墓坑群を中心に竪穴住居がめぐり外側を貯蔵穴が取り囲む構成となる。
系統を同じくする同一集団が社会構成原理を維持しながら長期にわたって居住し続けた。同時存在した住居は数軒にすぎない。
中央の墓群と周囲の竪穴住居が祖先-子孫関係のような血縁紐帯によって密接に関連付けられる分節化した部族社会(階層化社会)であったとする解釈が有力。
中心が聖的空間、外側に向かって世俗空間化するとみなされている。
1年を通して定住していたとは単純にみなせない。おそらく春から秋にかけては生業現地に分散居住し、冬季は埋葬・貯蔵施設をもつ環状集落に集住することを基本としていたであろう。

オ 植物資源
アサ、ヒョウタン、豆等の栽培植物、クリの選択管理、イノシシの放獣等が行われたことは明らかである。
雑穀等の農耕(焼畑や畠作)の証拠はなく、縄文農耕論は晩期末を除いて各種研究成果から否定される。
重要な植物資源はクリ、トチ、ドングリ、クルミ等の堅果類で、あく抜きの必要な堅果類は土器を用いた加熱や水さらしによって処理し、主要な食糧としていた。
ただし、堅果類の管理栽培は定住の必然性がない。

カ 水産資源
早期前葉になると貝塚が形成されるようになった。温暖気候化に伴う海退(ママ)によって大陸棚が発達し広大な干潟が形成されたため、貝類をはじめとする水産資源が豊富になったためである。
旧石器時代にはなかった資源環境が出現し、各種漁労が開始された。
北米北西海岸先住民のように漁労や海獣狩猟に高度に依存した社会では例外的に階層化社会を形成していたことが知られているので、北海道の縄文後期海獣猟漁民社会では、すでに階層化社会に到達していた可能性も議論されている。

キ 陸獣狩猟
旧石器時代の狩猟民が特定の中・大型獣を狩猟対象としするスペシャリストであったのに対して、縄文人はゼネラリストの猟漁採集民であった。旧石器時代人は広域移動する集団猟、縄文人は小地域占有的個人猟を発達させた。
列島最古の猟犬は草創期愛媛県上黒岩陰遺跡から埋葬跡とともに出土している。
罠猟のうち陥し穴猟は後期旧石器時代前半期の相対的な温暖期に一部の地域で盛行するが、寒冷化が進行すると衰退した。完新世の温暖化をいちはやく迎えた南九州の後期旧石器時代末期に活性化した。草創期になると北海道を除いて列島各地に展開し、早期にはピークを迎える。
一定の見回りと補修行動が要求される罠猟の盛行は、縄文時代における季節的で定着的な計画的生業活動の発達を意味していた。

ク 資源の流通
生活財から装飾品・奢侈品まで広範囲にわたる産品が流通・交易の対象とされていた。
縄文時代の流通ネットワークは近隣集団間で行われた日常品の交換・交易と地域集団間の同盟関係を安定させるためにもっぱら上層クラスの間で象徴的に行われた奢侈品や威信財の遠距離の贈与交換の2種類から構成されていたと考えられる。

ケ 土偶
土偶は草創期後半から認められ、列島全体で発達した。
土偶の性格を家神(祖先神)に帰するか、地母神・精霊等に帰するかという論争は決着していない。
いずれにせよ縄文時代には、神話と伝承・呪術に満ちた何らかの精神世界が活発に展開していたに違いない。

コ 小氷期のような環境変動の影響
列島規模でみられる環境変動に起因した地域社会の崩壊と再生の画期は、早期中頃、中期・後期移行期、縄文晩期・弥生移行期の各小海退(小氷期)とよく一致している。
高度の動植物資源利用システムの発達こそが、小氷期のような環境変動の影響を受容しやすくしていたのであろう。

サ 縄文中期・後期移行期の寒冷化(小海退)の影響
東日本では谷の削剥等の地形環境の変化に伴い低地にトチが繁茂する環境が出現し、クリからトチの利用へと主要な食糧資源が変更され、それに伴いそれまでの大型環状集落への集住といった居住形態から、河川流域等に分散して居住する散村へと集落形態が移行した。
そのため、集落内にあった各種の儀礼施設・装置が集落外へと移行し、集団維持のための大規模祭祀センター(ストーン・木柱サークル等)が出現するようになる。
中心-周縁からなる可視的空間構成の原理が解体し、今日の集落の構成形態に類似する空間構造へと再編された。
集落は台地上の広い平坦地から尾根・丘陵等のより狭い平坦地や谷際に移動し、谷間にはトチの実を水さらしするための水場等の施設が作られた。
今日の里山に類似する資源利用構造が出現した可能性が高い。

2 感想
2-1 問題意識を深めた情報
ア 「縄文草創期の温暖期あるいは早期以降は堅果類のあく抜き処理容器として利用された痕跡が確認でき、煮炊きと並んでこれが縄文土器の主要な用途と考えられるが、出現の契機は別であろう。」には参考文献(30)「春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」(国立歴史民俗博物館研究報告 第90集 2001年3月)」が注記されています。
この文献を芋づる式に読んで、土器発明が「寒冷気候下での自然資源の変貌に対応するための発明であった」と示唆されていて、その通りだと考えました。

 「土偶の性格を家神(祖先神)に帰するか、地母神・精霊等に帰するかという論争は決着していない。」の論争の意味が全くわからないので、参考資料を芋づる式に手繰って学習することにします。

コ 「東日本では谷の削剥等の地形環境の変化に伴い低地にトチが繁茂する環境が出現し、クリからトチの利用へと主要な食糧資源が変更され、それに伴いそれまでの大型環状集落への集住といった居住形態から、河川流域等に分散して居住する散村へと集落形態が移行した。」と書いてある事柄が自分の縄文社会消長分析学習のテーマそのものです。
この図書に書いてあるような具体内容を初めて知りました。
対戦相手の様子がわかってきて、闘争意欲がますます強まったような心境になります。
これまで縄文社会消長の原因について「専門家は判らないことは何でも気候変動のせいにしてしまう」という不満・不振を強く持っていました。そうではなく、専門的研究やデータ分析で縄文社会消長と気候変動の関係が明らかになっているのならば、ぜひともその専門論文を学習したいと思います。その学習のなかでいろいろな知識が身に付き、より合理的な感想をもつことができると思います。
この記述にかかわる文献を芋づる式に学習することにします。

2-2 疑問が生まれた情報
 「早期前葉になると貝塚が形成されるようになった。温暖気候化に伴う海退(ママ)によって大陸棚が発達し広大な干潟が形成されたため、貝類をはじめとする水産資源が豊富になったためである。
旧石器時代にはなかった資源環境が出現し、各種漁労が開始された。」
大いに疑問が湧き出る記述です。
1 まさか海退によって(海面が下がり)大陸棚が顔を出した状況を脳裏に浮かべているのではないと推察します。いくらなんでもそこまで勘違いしていることは無いと思います。
2 海進により(海面が上昇し)大陸棚が徐々に水没して干潟ができた状況を表現しているのだと思います。
そのように記述しているとすれば、2つの疑問が生まれます。
疑問1 海進(海面上昇)により現在大陸棚といわれる部分が徐々に水没していくとき、広大な干潟は形成されていないと思います。寒冷期に長期にわたって浸食を受けている陸地が水没するのですから、リアス式海岸が生まれます。複雑な入り江のある海岸が生まれます。その海岸は干潟よりも水産資源が豊富だったと思います。
疑問2 文章から、寒冷期(海岸低下期)よりも温暖期(海岸上昇期)の方が水産資源が豊富であると読み取れます。それが本当のことであるのか疑問が生まれます。旧石器時代人が水産資源を利用するという観点からみて、海岸低下期の海の状態がどうであったか知る必要があります。その海岸線は旧石器時代人にとって利用すべき資源は少なかったと結論付けることができるのでしょうか?そう言える研究とかデータがあるのでしょうか?

旧石器時代人が当時の海岸には寄り付かなかったという根拠はありません。サケマス漁をするくらいですから、海岸線で貝や魚を取った可能性を否定する根拠はありません。
寒冷期海岸線の様子がわからないだけで、またそこでの遺跡存否がわからないだけです。
寒冷期海岸線で旧石器時代人がサケマス漁と同程度のレベルで漁労をしていたことを頭ごなしに否定できる根拠はありません。

自分の言いたいことは、海岸線漁労も内水面漁労や土器発明と同じで、寒冷期の自然資源開発の一環として行われたという仮説がありうるということです。

路傍の花(2020.04.07)

2020年4月6日月曜日

佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」学習 その1

佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」(2013、岩波講座日本歴史第1巻収録、岩波書店)の学習を2回に分けて学習し、そのメモをつくりました。
この記事では土器誕生までの更新世の様子を学習します。
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習の寄り道学習です。プロローグに参考文献として掲載されていた文献です。

1 興味を持った情報の要旨
ア 現生人類の出現過程と列島に後期旧石器時代人が棲むようになるまでの様子
現生人類型行動という概念を使って後期旧石器時代人が棲むようになるまでの様子について知りました。

イ 後期旧石器時代の古北海道半島の様子
古北海道半島は大陸と地続きで動植物相と人類文化は大陸とよく似ている。
古北海道半島の後期旧石器時代時代区分の存続期間は古本州島と異なる。

後期更新世の日本列島における地質時代区分と考古学的時代区分の対比
佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」(2013、岩波講座日本歴史第1巻収録、岩波書店)から引用

ウ 古北海道半島人類文化の変遷
古北海道半島の最古人類文化は古本州島系の台形様石器群と考えられる。
台形様石器の多くは臨機的な狩猟具であったと考えられる。
前半期後葉になると古本州島で基部加工尖頭形石刃石器が出現し、古北海道にも伝播する。
突然細石刃石器群が登場し、後半期を通じて存続する。
細石刃技術は究極的な石材節約技術であり、素材補給という節約から解放され、人々は大型動物狩猟に専念できた。
細石刃技術は最寒冷期にシベリアからマンモス動物群が渡来する時期と一致し、シベリアからの人類集団渡来によって将来されたと考えられる。
細石刃技術や非細石刃石器群を加えた区分は空間的・時間的重複が大きく、明確な地域差を看取できない。異なる石器群集団は異系統であると考えられるが、広域移動戦略を共有するため排他的領域を発達させなかったと考えられる。この点は後半期に古本州島で排他的地域性が顕在化するのと大きく異なる。

後期更新世の日本列島に見られた中大型哺乳動物相
佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」(2013、岩波講座日本歴史第1巻収録、岩波書店)から引用

エ 古本州島人類文化の変遷
パッチ状に草原が散在する針葉樹林や針広混交林の中でナウマンゾウ-オオツノシカ動物群を狩猟する行動戦略がとられた。
前半期は台形様石器群が基調となっていた。基部加工尖頭形石器(大型狩猟具)と台形様石器(小型狩猟具)が使い分けられていたと考えられる。
後半期になるとナウマンゾウ-オオツノシカ動物群の大型動物が絶滅し、狩猟対象が中・小型動物に移行した。
そのため人類集団の狩猟範囲や資源利用領域も縮小し、石器群の地域的分立が顕著となり地域差が一気に拡大した。
列島に東北、中部、関東、近畿、九州といった地域社会が成立したことを意味する。各地の地域集団が独自に細区画化し領域での資源開発を行っていたと考えられる。

オ 古本州島における地域社会分立の崩壊
後半期後葉になると北海道の細石刃石器群とは技術的に異なる稜柱形細石刃石器群が古本州島西半部に広がりそれまでの石器群の地域差を解消する。
この古本州島独自の細石刃石器群は古北海道の細石刃石器群の影響下で成立すると考えられるが、人間集団の移動を意味するものではなかった。
後半期後半になると古北海道の細石刃技術そのものが古本州島東半部に伝播した(北方系細石刃石器群)。
この伝播は人間集団自体の南下に伴ったものと考えられ、サケマスなどの河川漁労という新たな生業戦略の開始をもたらしたと考えられる。
河川漁労の開始は定着性の発達を促した可能性が高い。
北方系細石刃石器群の存続は短期間にとどまり、後葉期末になると在地系の各種の両面体尖頭器石器群の発達によって更新された、縄文時代草創期へと移行していく。

カ 世界最古級土器の出現
古本州島では青森県大平山元Ⅰ遺跡の無文土器を最古例として世界最古級土器(16000~15000年前)が出現し、以降連綿と土器文化が継続する。
この時期に中国南部や東シベリア・極東等の一部で相互に独立して土器が出現するが、それらの地で継続した痕跡は確認できない。
南アジア・中国では定住集落による農耕が開始され、おくれて牧畜も発生するがすべて完新世になってからの出来事であり、更新世に土器文化の起源を有する縄文文化は世界的にも稀有な考古的現象と考えられる。
古本州島の最古の土器出現プロセスは依然として明らかでない。

2 感想
2-1 読後の総合印象
この図書の発行年が2013年と新しいため、旧石器時代から縄文時代にかけての社会変動の最新知識の結論を体系的に入手できたと考えます。
記述内容も平易であり、論旨が難解と感じるところは皆無でした。
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習のとてもよい参考となりました。

2-1 学習に役立った情報
・古北海道半島と古本州島では後期旧石器時代における人類文化の変遷が大きく異なることを詳しく知ることができました。
・後半期つまり最終氷期最寒冷期になると、古北海道半島ではマンモス動物群とともに大陸から人の移動を伴って、当時のハイテク技術である細石刃石器群文化が突然訪れたことを知りました。
・同じ時期、古本州島ではナウマンゾウ-オオツノシカ動物群の大型動物が絶滅し、狩猟対象が中・小型動物に移行したため、石器群文化が地域的に分立し、列島に東北、中部、関東、近畿、九州といった地域社会が成立したことを知りました。縄文文化の基礎となる地域性が誕生したのがこの最終氷期最寒冷期であることになります。
・その後細石刃石器群文化が西日本と東日本に伝播し、古本州島の地域性が一端一様社会になり、その反発(在地系の各種の両面体尖頭器石器群の発達…神子柴・長者久保文化)の中で土器が誕生したというストーリーになります。
・北方系細石刃石器群文化により河川漁労がもたらされたということや、それまでに地域性が確立していたという要因が土器誕生に絡んでいると推察したくなります。
・地域性の確立つまり海岸から流域界山地までの環境資源開発が進み、定住促進的要件が備わりつつあるところに外部からハイテク技術(細石刃技術)や新生業(河川漁労(場合によっては海岸漁労))技術を有する文化伝播(具体的には異人族の侵入)があり、それに反応した在来集団が土器発明に至ったというストーリーを想像します。
・土器は河川漁労(魚油づくり)だけでなく、貝を煮て食べるための道具として発明された可能性を感じます。
・最寒冷期を生き延びる生活技術として海岸の貝を広い、土器で煮て食べるという発明があったかもしれないと空想します。
・ただ、当時の海岸は現在の海抜マイナス100mですから、遺跡という証拠を得ることはできません。
・「大陸棚海底考古学」みたいなものが発達すれば、更新世の貝塚と土器が発見され、土器発生の説明ができるようになるかもしれません。

・次の趣旨の記述の意味を詳しく知りたくなります。
「後半期後葉になると北海道の細石刃石器群とは技術的に異なる稜柱形細石刃石器群が古本州島西半部に広がりそれまでの石器群の地域差を解消する。この古本州島独自の細石刃石器群は古北海道の細石刃石器群の影響下で成立すると考えられる。」
日本西部に広がる稜柱形細石刃石器群がどうして空間的に離れる古北海道の細石刃石器群の影響下で成立するのか、その空間的な意味でのメカニズムが判りません。