2019年6月28日金曜日

リンゴのせいか、インディアンのせいか

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 11

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習をページを追ってしています。この記事では「第8章 リンゴのせいか、インディアンのせいか」を学習します。この章は作物を育てるのに適した場所であるにもかかわらず、農業がまったく自発的に起こらなかった地域が地球上に存在するという事実について考察しています。列島-縄文人もその範疇にはいるわけですから、この考察は縄文学習に重要です。

1 人間の問題なのか、植物の問題なのか
地球的規模でみるとカリフォルニア、ヨーロッパ、オーストラリア大陸の温帯地域、そしてアフリカ大陸の赤道付近には、農耕に適した肥沃な土地が昔から広がっている。それなのになぜ、これらの地域では農業が自然発生的にはじまらなかったのか、また、地域によって農業のはじまった時期に時間差があるのはなぜだろうかという問題を検討し、この章で結論を導いています。
詳し検討は本文を読んでいただくことにして、その結論を要約すると次のようになります。
・どの地域に住んでいた人類も自然を詳しく観察しいて有用植物を利用する能力にたけていた。地域別にみて人類の観察力や応用能力の差はない。
・有用植物や有用動物の資源偏在が地球上にある。
・肥沃三日月地帯における有用植物資源、有用動物資源の多様性は目を見張るものがある。

大きな種子を持つイネ科植物の分布
ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」から引用

肥沃三日月地帯
(トルコにまで領域が広がっていることには発掘面における特別の理由があるにちがいないので、興味が湧きます。)

・栽培化時期の地域差は生物相全体において栽培化や家畜化が可能な動植物の種類がどれだけ限られているかということに起因する。

2 感想
ジャレド・ダイアモンドの説明は説得的であり、縄文人も千年単位の猶予をもらえれば列島で自発的食料生産を始めていたかもしれない感じました。
縄文人は定住して土地の管理を相当綿密にしていたのですから、主食以外の植物で栽培といっていいものも存在していたでしょうから、自発的食料生産の直前まで到達していたと考えます。ドングリを主食にしたのがボタンのかけ間違いだったようです。



2019年6月23日日曜日

毒のないアーモンドのつくり方

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 10

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習をページを追ってしています。この記事では「第7章 毒のないアーモンドのつくり方」を学習します。この章は自然のアーモンドの実は猛毒があるのに、人はどのようにして無毒のアーモンドをつくったかということに象徴される、植物の栽培化のプロセスについて詳しく解説しています。

1 人類の植物栽培化のプロセス
人類の植物栽培化プロセスを要約すると、植物サイドの突然変異による有用特性を人類が無意識的・意識的に選別利用することによってその有用特性が助長され、同時に耕うんや施肥等の人工環境によりその有用特性がより一層促進されたということです。

古代の食料生産地の栽培作物

2 オーク(ドングリ)が栽培化されなかった理由
その実のドングリが食用となるオークがいまだ栽培化されていないことの説明が書かれています。ドングリが縄文人主食であり、縄文人が農耕を始めなかったことともかかわるかもしれないと考え興味がわきました。
ドングリはアメリカ先住民の主食として利用され、ヨーロッパ農民の飢饉に備える予備食料となっていました。
ドングリが栽培化されなかった理由は次のように記述されています。
「オークの場合を考えてみると、三球三振で栽培化に失敗してしまう理由がそろっている。まず第一に問題になるのが、オークの成長の遅さである。小麦はまいて数カ月で収穫できる。アーモンドは三、四年で実をつける成木となる。しかしオークは、われわれの忍耐が尽きてしまうほど成長が遅く、一〇年以上たたないと実がならない。また、オークはリスむきではあっても、われわれ人間むきではない。リスがドングリを埋めたり掘りだしたり、食べているのをよく目にするのは、オークがリスむきの植物だからである。そして、野生のオークが、リスが掘りだすのをたまたま忘れたドングリから発芽することを考えると、新芽の数は森のあちこちにリスが好き勝手にまき散らしてしまうおびただしい数のドングリに比例する。そんなにたくさんのオークを相手にわれわれ人間が、希望する特性を有する個体を選抜栽培できる確率はおそろしく低い。同じような理由で、ヨーロッパ人やアメリカ先住民が木の実を採集していたブナやヒッコリーなども栽培化されなかったと思われる。
さらなる理由は、栽培化されたアーモンドとちがって、ドングリの苦みは、ひとつの遺伝子ではなく、複数の遺伝子によってコントロールされていることである。アーモンドの場合は、苦みのない突然変異体の種子を植えれば、遺伝の法則によって、植えた種子の半分は親木と同様に苦みのない実をみのらせる。ところが、複数の遺伝子によって苦みがコントロールされているオークの場合、遺伝の法則によって、植えた種子のほぼ全部に苦みのある実がみのる。このちがいだけで初期の農民がくじけてしまい、リスとの競争に勝って希望する特性を有する個体を選抜し、忍耐強く実のなるのを待つ気にならなかったとしても、それは充分に想像できる。」

2019年6月19日水曜日

「日本の考古学Ⅱ 縄文時代」河出書房新社(昭和40年初版)

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 9

2019.06.15記事「自己触媒的食料獲得量増加」の後日譚を書きます。
Twitterでpolieco archeさんから頂いたコメントに出ていた次の図書を入手しました。

「日本の考古学Ⅱ 縄文時代」河出書房新社(昭和40年初版) 箱カバー
関東(岡本勇・戸沢充則著)の早期に「縄文時代における上昇期の問題」という項目があり、次のような趣旨のことがらが述べられています。
「野島式、鵜ヵ島台式、茅山下層式の土器の時代は過去の時代と比べて遺跡の増大が見られる。集落の立地も新たな地形条件を利用している。遺跡分布も広大に広がる。全身磨製石斧による森林伐開技術の高揚、釣針大型化による漁獲魚種増大、多量石鏃生産による狩猟発展が見られる。
これら労働用具の分化・改良・量産は生産諸力の発展をもたらし、人口を増加させ、労働手段や協業を発達させ、縄文時代の社会と文化を大きく上昇させたとかんがえられる。」

縄文時代の「ゆるやかな発展」のなかで特定時期に「上昇期」があったという趣旨の概念を提示しています。

この「上昇期」は2019.06.15記事「自己触媒的食料獲得量増加」で書いた「縄文時代における自己触媒的食料獲得量増加の可能性」の考え方とほとんど同じ考え方です。自分が持った感想と同じ概念を54年前に専門家が述べていることを知ることができました。polieco archeさんに感謝します。
この情報により次の感想を持つことができました。
1 縄文時代専門家による「上昇期」のその後の研究の深まりを是非とも知りたい。
2 「自己触媒的食料獲得量増加」の自分なりの考察を深め、海外事例等も収集して、社会発展のパターン検討の材料を増やしたい。

「日本の考古学Ⅱ 縄文時代」河出書房新社は読みやすい感じの図書なので、まさに芋づる式になりますが、割込みで必要ケ所を読んでみたいと思います。現在最新知識の意義を確認できる図書になるかもしれません。

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余談 1
この図書は定価1円(発送料257円)でAmazonから購入しました。使用感はゼロで箱カバー、付録も付いています。紙質もほとんど劣化していません。誰かが50年前に購入して風通しのよい書斎書棚に置き、1度も読まれることがなかったと想像します。そしてその持ち主が亡くなり、書斎のモノが一切合切ゴミとして廃品回収業者に多額の現金と一緒に渡されたと空想します。廃品回収業者はこの図書を1円で出品すればすぐ売れるので、発送料込258円で売ったのです。発送料の中に儲けが入っているとともに、その前にゴミとして受け取る時に既に儲けが出ています。
定価1円で買った私は内容面で知的満足感がとても大きいとともに、その満足感のコストパーフォーマンスは絶大です。

余談 2
この図書の箱カバーにこの図書のシリーズが列挙されています。Ⅲ弥生時代の編者は和島誠一となっています。
大学生だったころ自分の専門とは無関係学部で、かつ遠いキャンパスにでかけ、和島誠一先生の考古学を1年間受講したことを思い出します。頭が光る好々爺という感じの先生でした。戦前満蒙考古調査の話などを聞いた憶えがあります。石棒の趣旨もこのときはじめて知りました。自分の専門単位と無関係なのによく受講したものです。半世紀前の出来事です。

2019年6月15日土曜日

自己触媒的食料獲得量増加

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 8

2019.06.13記事「農耕を始めた人と始めなかった人」で学習した「狩猟採集生活から食料生産生活へと移行させた要因」のうち「要因4 人口増加による自己触媒的な食料生産活動の活発化」は縄文時代人口急増と急減現象の解釈に利用できると考えます。そこで「銃・病原菌・鉄」と離れて縄文時代加曽利EⅡ式期をピークとする人口急増とその後の人口急減について考察します。

1 人口増加による自己触媒的な食料生産活動の活発化 「銃・病原菌・鉄」抜粋
人口密度の増加と食料生産の増加との関係である。考古学の調査においては、食料生産がおこなわれていた証拠が見つかると、その場所の人口が稠密化した証拠もかならず見つかる。
 人びとが食料生産の生活様式へと移行していく過程で見られるのは、自己触媒と呼ばれる作用になぞらえることができる。自己触媒的過程においては、結果そのものがその過程の促進をさらに早める正のフィードバックとして作用する。人口密度の増加は、知らず知らずのうちに野生植物を栽培化する方向に歩みはじめた地域において自己触媒的に作用し、ますます人びとを食料生産に駆りたて、その結果、地域の人口密度はさらに増加したのである。
やがて人びとが定住して食料を作りだすようになると、出産間隔が短くなり、その結果、より多くの子供が生まれ、より多くの食料が必要になった。食料生産と人口密度の増加の因果関係が双方向的に作用していることが、一エーカーあたりの産出カロリーの増加にもかかわらず、栄養状態においては農耕民のほうが狩猟採集民よりも劣っているという矛盾を解き明かしてくれる。この矛盾は、入手可能な食料の増加率より、人口増加率のほうがわずかばかり高かったことによって生じているのだ。

2 縄文時代における自己触媒的食料獲得量増加の可能性
「銃・病原菌・鉄」では農業がおこなわれるとそこに自己触媒的食料生産活動があらわれると論じています。
農業(栽培による主食生産)がおこなわれていなくても、採集活動でも活動の工夫があり食料獲得量増加が可能になった場合、人口が増え自己触媒的にさらに食料獲得量増加が起こるという現象がありうるのではないかと仮想しました。
例えば、ドングリを効率よく広域から収集して1カ所に集めることができる社会体制が発明され、さらに多量ドングリを効率よく短時間で保存食に加工する技術が発明(アク抜き技術、巨大土器とそれを運用できる炉の技術等の革新・発明)されれば、これまで以上に人口を養うことができます。
人口が増えればそれらの技術をさらに革新して食料獲得量増加に励むことができると考えます。そのような成長期にはドングリの味付けに工夫がなされるとか、様々なプラス要素が加わり社会は活性化してさらに人口急増する素地ができます。
縄文中期・後期頃は定住していて生業に関して土地を高度に管理していたと考えられますから、自己触媒的食料獲得量増加があってもおかしくないと考えます。

3 加曽利EⅡ式をピークとする人口急増とその後の人口急減
加曽利EⅡ式をピークに人口急増があり、その後人口急減(社会崩壊)があったことは次の資料に示すように知られています。

竪穴住居数グラフ
加納実先生講演「縄文時代中期終末から後期初頭の様相」映写 追記

武蔵野台地東部域の人口増減 小澤政彦先生講演「東関東(千葉県域)の加曽利E式」映写

関東地方西南部における竪穴住居跡数の推移 「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」から引用

4 「加曽利EⅡ式人口急増とその後の人口急減」現象の解釈
ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」における自己触媒的食料生産活動活発化説を援用すると、「加曽利EⅡ式人口急増とその後の人口急減」現象を次のように解釈できます。
ア これまで以上に効率よくドングリを収集し、多量の保存食加工が一気にできる体制・技術が発明された。
イ 保存食(主食)が豊富になったので人口が増加した。
ウ 人口増加に伴い保存食をさらに増大させる社会体制変革や技術開発が進んだ。
エ 人口増加率が保存食増加率を上回った。
オ 天候不順等を引き金にして飢饉が発生し、社会が崩壊した。

5 考察
4の解釈を採るとすればさらに次の説明をしなければなりません。
・最初になぜ保存食増大にかかわる社会体制や技術の発明があったのか、その理由。
・関山式と堀之内1式のピークも同様の説明が可能か。
・気候変動との関わりはどうか。

加曽利EⅡ式の巨大深鉢土器 加曽利貝塚博物館2019.02展示
多量ドングリのアク抜きに使われた「業務用土器」と推察します。


2019年6月13日木曜日

農耕を始めた人と始めなかった人

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 7

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習をページを追ってしています。この記事では「第6章 農耕を始めた人と始めなかった人」を学習します。

1 狩猟採集生活から食料生産生活へと移行させた要因
狩猟採集生活から食料生産生活へと移行させた要因を5つ列挙して詳しく説明しています。
5つの要因に小見出しをつけるとすれば次にようにつけることができます。

要因1 動物資源の減少
要因2 動物資源減少期における栽培可能野生種の増加
要因3 食料生産技術の発達
要因4 人口増加による自己触媒的な食料生産活動の活発化
要因5 食料生産者人口数の狩猟採集民に対する圧倒

2 狩猟採集生活から食料生産生活へと移行させた要因に関する抜粋
狩猟採集生活から食料生産生活へと移行させた要因は何であったか
要因1 動物資源の減少
この一万三〇〇〇年のあいだに、入手可能な自然資源(とくに動物資源)が徐々に減少し、狩猟採集生活に必要な動植物の確保がしだいにむずかしくなったということである。
要因2 動物資源減少期における栽培可能野生種の増加
獲物となる野生動物がいなくなり、狩猟採集がむずかしくなったまさにその時期に、栽培化可能な野生種が増えたことで作物の栽培がより見返りのあるものになったことである。
更新世の終わりに気候が変化したため、肥沃三日月地帯では、短時間で大きな収穫が得られる野生の穀類の自生範囲が大幅に拡大した。肥沃三日月地帯では、まずこれらの野生種が収穫され、その収穫物にまじっていた種子が徐々に栽培化される過程を経て、大麦や小麦が農作物として栽培されるようになったのである。
要因3 食料生産技術の発達
食料生産に必要な技術、つまり自然の実りを刈り入れ、加工し、貯蔵する技術がしだいに発達し、食料生産のノウハウとして蓄積されていったことである。
要因4 人口増加による自己触媒的な食料生産活動の活発化
人口密度の増加と食料生産の増加との関係である。考古学の調査においては、食料生産がおこなわれていた証拠が見つかると、その場所の人口が稠密化した証拠もかならず見つかる。
 人びとが食料生産の生活様式へと移行していく過程で見られるのは、自己触媒と呼ばれる作用になぞらえることができる。自己触媒的過程においては、結果そのものがその過程の促進をさらに早める正のフィードバックとして作用する。人口密度の増加は、知らず知らずのうちに野生植物を栽培化する方向に歩みはじめた地域において自己触媒的に作用し、ますます人びとを食料生産に駆りたて、その結果、地域の人口密度はさらに増加したのである。
要因5 食料生産者人口数の狩猟採集民に対する圧倒
狩猟採集民と食料生産者が接触する地域で、もっとも決定的な役割を果たしたものである。食料生産者は狩猟採集民より数のうえで圧倒的に多かったため、それを武器に狩猟採集民を追い払ったり殺すことができた(技術的により発達し、各種疫病への免疫を持ち、職業軍人を有していたことが、彼らに有利にはたらいたことはいうまでもない)。ちなみに、土着の狩猟採集民が食料生産の方法をよそから習得して農耕民になった地域では、農耕民にならずにいた人たちが、出生数で農耕民に圧倒されている。 この結果、食料生産に適した地域ではほとんどの場合、土着の狩猟採集民は、近隣地域の食料生産者によって追いだされてしまうか、食料を生産する生活に移行することによって生き延びるかのいずれかの運命をたどっている。
農耕民として生き延びることができた狩猟採集民は、すでに充分な人口を擁していた集団か、地理的な理由で近隣の食料生産者が簡単に移住してこれず、時間的猶予をあたえられた地域の集団である。この時間的猶予によって彼らは、先史時代に農耕を身につけ、農耕民として生き延びることができた。これが起こったであろう地域としては、アメリカ合衆国南西部、地中海地方西部、ヨーロッパの大西洋沿岸、日本列島の一部などが考えられる。しかし、インドネシア、アジア南東部の熱帯地域、アフリカ赤道地帯の大部分、そしておそらくヨーロッパの一部では、先史時代の狩猟採集民は食料生産者にとってかわられてしまった。同じことは、オーストラリアやアメリカ合衆国西部で近代に起こっている。
ジャレドダイアモンド.銃・病原菌・鉄 上巻から抜粋引用
要因小見出しは引用者追記

3 メモ
日本の縄文時代から弥生時代への移行についても触れられていて強く興味が湧きます。
列島がユーラシア大陸から海で離れていたことが縄文時代が長期にわたって継続したことの主要因であることが判ります。縄文人は温室育ちであり、その終焉も人類史的にみると遺伝子をかなり残すことができ「恵まれた部類?」であったのかもしれません。

4 参考 食料生産が始まった地域と年代(及び縄文土器形式対応)

参考 食料生産が始まった地域と年代(及び縄文土器形式対応)
2019.04.10記事「持てるものと持たざるものの歴史」の情報をわかりやすくした地図です。

2019年4月10日水曜日

持てるものと持たざるものの歴史

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 6

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習をページを追ってしています。この記事では「第5章 持てるものともたざるものの歴史」を学習します。この章は持てる者の発生を較正年代で提示しています。

1 食料生産の地域差
著者は次のように述べています。
「人類史の大部分を占めるのは、「持てるもの(Haves)」と「持たざるもの(Have-nots)」とのあいだで繰り広げられた衝突の数々である。」ジャレドダイアモンド.銃・病原菌・鉄 上巻から引用
持てるものとはつまり食糧生産を早期にはじめた集団です。
著者は考古学のC14較正年代により食料の生産が独自に始まった地域とよそから持ち込まれた家畜や農作物がその土地の野生種の飼育栽培化の「基盤」となった地域を整理しています。

食料の生産が独自にはじまった地域

飼育栽培化された動植物の例

食糧生産が最初にはじまった地域は限られていて、その地域からの影響の過程を経て「食料生産を他の地域に先んじてはじめた人びとは、他の地域の人たちより一歩先に銃器や鉄鋼製造の技術を発達させ、各種疫病に対する免疫を発達させる過程へと歩みだしたのであり、この一歩の差が、持てるものと持たざるものを誕生させ、その後の歴史における両者間の絶えざる衝突につながっているのである。」とこの書の結論になる記述をしています。

2 食料生産が独自にはじまった地域と縄文土器の較正年代対比
食料生産が独自にはじまった地域と縄文土器とは直接の関係はありません。しかし双方の情報を同じ次元で見るために較正年代で対比してみました。

食料生産が独自にはじまった地域と縄文土器の較正年代対比

よそからの影響で野生種飼育栽培がはじまった地域と縄文土器の較正年代対比

3 感想
・人類が農耕牧畜をはじめた時期が縄文時代早期(撚糸文土器頃)であることを知りました。
・土器が食糧確保の道具であると考えると、人類史とみれば、土器の発明による食料確保の段階があり、その次の段階として農耕牧畜の発生があるという順番になります。
・中国に農耕牧畜が発生してから5000年間の間(縄文早期中頃~晩期)、列島縄文人が農耕牧畜を取り入れなかった(拒否した)理由に興味が深まります。
・「食料生産が独自にはじまった地域と縄文土器の較正年代対比」図を作成することによりジャレド・ダイアモンドが示す人類史の興味と、縄文土器学習(=縄文社会学習)の興味の双方が加速的に深まります。

2019年2月7日木曜日

食料生産と征服戦争

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 5

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習をページを追ってしています。この記事では「第4章 食料生産と征服戦争」を学習します。この章はこの著書結論を1枚のチャートで示している要約章ですから感想が尽きません。

1 食料生産と征服戦争
一言で要約すると次のようになります。
食料生産の技術を先に身につけた人間集団の方がそうでない集団より優位にたった。人口増→階層大規模社会→技術の発達→銃・病原菌・鉄→ヨーロッパ人による世界征服。
食料生産の技術を先に身につける条件は、その土地で栽培植物種の分散が容易であり、家畜化の適性のある動物種が存在していることである。そうした条件のある大陸が東西方向に伸びるユーラシア大陸であったのであり、南北アメリカ大陸やアフリカ大陸ではない。

広範なパターンを生じさせた諸要因の因果連鎖
ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」から引用

2 メモ
2-1 縄文学習に有益な直接・間接のヒントを期待する
食料生産を始めた地域が既に近くに存在していたのに、列島縄文社会は狩猟採集社会として存続しました。その状況の理解に、ひいては縄文社会存続と崩壊の理由理解のためにこの著書から直接・間接のヒントを得たいと期待してます。

2-2 縄文学習の意義を大きな問題意識のなかで位置づける
この著書を読むことによって足元の縄文学習(土器は煮沸用か否か、土器の3Dデータを作成する、千葉にイナウがあったか・・・)の意義を近視眼的な問題解決ではなく、縄文社会存続と崩壊の問題意識の中でしっかり位置づけられるようにしたいと期待します。
どんな些細な問題意識(例 その土器表面のその箇所の摩耗はなぜ生まれたか)でもその学習意義が縄文社会存続と崩壊理由理解という問題意識のなかでシッカリ位置づけられているようにしたいと希望しています。




2019年1月24日木曜日

スペイン人とインカ帝国の激突

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 4

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習記事第4回目です。この記事では「第3章 スペイン人とインカ帝国の激突」を学習します。

1 ピサロと皇帝アタワルパ
・ピサロが168人の部隊を率いてインカ帝国に入り、8万の兵を引き連れて行軍していたインカ皇帝アタワルパをカハマルカで捕まえる歴史の瞬間を記録により詳しく記述しています。きわめて興味深い記述ですが、この記事では略します。
・ピサロが勝利できた理由を次の疑問に答えるかたちで詳しく分析しています。
「ピサロがアタワルパを捕らえることができたのはなぜか」
「将軍ピサロとの出会いに先立ち、アタワルパはなぜカハマルカにやってきたか」
「なぜアタワルパは、見えすいた罠だとわかるような場所に入ってきたか」
この解答にあたる詳しい記述も、極めて興味深いのですがこの記事では略します。
・最後に結論を次のように述べています。
「結論をまとめると、ピサロが皇帝アタワルパを捕虜にできた要因こそ、まさにヨーロッパ人が新世界を植民地化できた直接の要因である。アメリカ先住民がヨーロッパを植民地化したのではなく、ヨーロッパ人が新世界を植民地化したことの直接の要因がまさにそこにあったのである。ピサロを成功に導いた直接の要因は、銃器・鉄製の武器、そして騎馬などにもとづく軍事技術、ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫、ヨーロッパの航海技術、ヨーロッパ国家の集権的な政治機構、そして文字を持っていたことである。」
・この結論につづけて次のように述べて、いよいよ本書の核心部分に入ることを宣言しています。
「ヨーロッパ人が他の大陸の人びとを征服できた直接の要因を考察したが、それらの要因が新世界ではなく、なぜヨーロッパで生まれたのかという根本的な疑問は依然として謎のままである。」

カハマルカにおけるインカ皇帝アタワルパの捕獲
英語版ウィキペディア「カハマルカの戦い」から引用

カハマルカにおけるインカ皇帝アタワルパの捕獲
英語版ウィキペディア「カハマルカの戦い」から引用

2 メモ
・銃器・鉄製の武器、そして騎馬などにもとづく軍事技術、ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫、ヨーロッパの航海技術、ヨーロッパ国家の集権的な政治機構、そして文字を持っていたことが総勢168人のピサロ軍が総勢8万人のインカ軍に勝った理由であり、その後も戦いでもピサロ軍が勝利しつづけた理由です。
・この理由の内、文字を持っていたことが極めて大きな、そして表面的には見えないピサロ軍勝利の理由であり、自分にとって感動的な学習となりました。
・文字を持っていたスペイン人征服者はその時代までの世界の歴史や人行動のパターンなど幅広い知識として知っていたのですが、文字を持たないインカ帝国は歴史の教訓とか人行動のパターンなどの知識が貧弱で、それに起因してアタワルパがやすやすとピサロに騙されたとの指摘はとても重要な指摘であると考えます。
・蝦夷あるいはアイヌが和人に歴史上繰り返し繰り返し騙し討ちにあい敗北していますが、その理由の一つとして文字を持っているか、いないかをあげることができると考えます。文字を持たない集団は歴史の教訓とか人の行動類型とかの知識が薄弱であり、文字を持つ集団にコロリとだまされて滅ぼされてしまいます。

2019年1月22日火曜日

平和の民と戦う民の分かれ道

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 3

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習記事第3回目です。この記事では「第2章 平和の民と戦う民の分かれ道」を学習します。

1 マオリ族とモリオリ族の衝突から浮かび上がる環境が人類社会に及ぼす影響
1835年、ニュージーランドの東800㎞にあるチャタム諸島に武装したマオリ族900人が舟で現れ、モリオリ族を殆ど全て殺して島を征服した。モリオリ族は襲来マオリ族の2倍の人口があった。
「モリオリ族とマオリ族の衝突がこのような残忍な結果になることは容易に予想できたことである。モリオリ族は小さな孤立した狩猟採集民のグループであり、たいした技術も持っていなかった。武器も、もっとも簡単なものしか持っておらず、戦いにも不慣れであった。強力な指導力を持つ者もいなかったし、組織的にも統率されていなかった。一方、ニュージーランド北島から侵入してきたマオリ族は、人口の稠密なところに住んでいた農耕民で、残虐な戦闘に加わることも珍しくなかった。モリオリ族より技術面において進んでおり、武器も優れたものを持っていた。グループの統率力も強かった。二つの部族の衝突において、虐殺されたのがモリオリ族であって、その逆でなかったことは当然ともいえる。」
「しかしマオリ族とモリオリ族の衝突を不気味なものにしているのは、彼らがいずれも1000年ほど前に同じ祖先から枝分かれしたポリネシア人である、という点である。」
「この衝突の結果は、モリオリ族とマオリ族の対照的な進化の経路の当然の帰結といえる。つまり、この二島において異質な人間社会が形成されていった理由が理解できれば、人類の歴史が大陸ごとに異なる発展をしていったという、より大きな疑問を理解するためのモデルを持つことができるかもしれない。」
モリオリ族とマオリ族の身に起きた出来事は、小規模で短期間ではあったが、環境が人類社会におよぼす影響についての自然の実験だったといえる。

ポリネシアの島々
ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」から引用

2 ポリネシアでの自然の実験について
同じ出自のグループがポリネシアの島々に展開し、隔絶して交流が少ない状況で、環境が社会に及ぼした影響を次の項目で詳しく論じています。
・ポリネシアの島々の環境
・ポリネシアの島々の暮らし
・人口密度のちがいがもたらしたもの
・環境のちがいと社会の分化
「ポリネシアは経済や社会、そして政治において非常に多様である。この多様性は、それらの島々の総人口や人口密度が島によって異なっていることに関係している。それらの島々の人口面での差異は、広さや地形、そして他の島々からの隔絶度が島によって異なるためである。そしてこれらの差異は、島民の生活形態のちがいや食料の集約生産の方法のちがいに関係している。これらの社会に見られるさまざまな相違点はすべて、地球規模で見ればポリネシアという比較的狭い地域で、比較的短い時間のうちに、同じ社会が環境のちがいによって異なる社会に分化した結果、発生したものである。」
われわれは、大陸においても同じような変化が起こったかを問わなければならない。そして、もし大陸で同じようなことが起こったのだとしたら、それを引き起こした環境的要因が何であったかを問わなければならない。また、その結果として、大陸社会がどのように多様化したかを問わなければならない。

3 メモ
・著者は最初に、マオリ族のモリオリ族征服というエピソードから、同じグループでも異なる環境に置かれれば一方は好戦的になり、一方は非好戦的になるという社会変化実例を示しています。次に、より広域的にポリネシアが恰好の歴史実験場であったことを詳細な記述で述べています。
・著者はこれらの環境的要因による社会変化が大陸規模でどうであったのかをこの本で述べると宣言しています。
・ポリネシアの島々の環境の相違とそれによる社会変化については「文明崩壊」でも詳しく学習したので、この記事では割愛します。
花見川流域を歩く番外編2017.12.21記事「ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」の学習」から学習開始
・ポリネシアのような海による隔絶性が確保されていない、交流が盛んな縄文時代列島社会においても、環境の違いは縄文社会に異なる変化をもたらしていたと考えることができます。それが土器形式の違いなどに表現されていると考えます。
・ジャレド・ダイアモンドの思考は縄文時代列島社会の考察にも有用であると考えます。

参考 ポリネシアについて

ポリネシアの範囲
ウィキペディアから引用

ポリネシアにおける人類拡大の様子
ウィキペディアから引用

2019年1月17日木曜日

13000年前のスタートライン

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 2

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習記事第2回目です。最初が2018.09.25記事「ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習スタート」ですからなんと4ヵ月ぶりになりお詫びします。
この図書以前にジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」を2017年12月から2018年9月にかけてブログ花見川流域を歩く番外編で24記事にわたり学習しています。「文明崩壊」から多くの学習ヒントを取得することができ、特に鳴神山遺跡(奈良時代開発集落)の衰滅原因考察に大いに役立ちました。しかし「文明崩壊」の事例はほとんど全て農業社会でした。
その点、「銃・病原菌・鉄」は狩猟採取社会が農業社会に発展する際の地理的不均衡がその後の現代にまでつづく世界社会不均衡の原因であることを暴き出していて、日本縄文社会の消長を考える上で参考になる情報を得られそうです。縄文学習との関連を気にしながら「銃・病原菌・鉄」の学習を進めることにします。
この記事では「第1章 13000年前のスタートライン」を学習します。

1 13000年前のスタートライン
著者は最初に次のような結論を述べています。
人類の歴史を、それぞれの大陸ごとのちがいに目を向けて考察するには、紀元前1万1000年頃、すなわち現在よりおよそ1万3000年前を出発点とするのが適切だろう。1万3000年前とは、地質学的には更新世の最終氷河期が終わり、現在に至る完新世がはじまった時期にあたる。これは、世界のいくつかの地域で村落生活がはじまり、アメリカ大陸に人が住みはじめた時期にも相当する。少なくとも一部の地域では、それから数千年以内には植物の栽培化や動物の家畜化がはじまっている。
つまり13000年前が現代社会の不均衡を考える上でのスタートラインとして設定できるとしています。
13000年前以前の状況で既に大陸間不均衡の差が存在していなかったという著者の考えをこの章では以下のように詳しく説明しています。
・10万年前から5万年前までの間に人類に「大躍進」があった。形状の揃った石器、装身具、釣針、銛、投げ槍、弓矢、壁画、彫像類、楽器類などが出土。人類の咽頭が発話可能となり言語能力が使えるようになったから。
・「大躍進」はアフリカ起源か世界同時発生かはまだわからない。
・「大躍進」時代はアフリカとユーラシアにしか住んでいなかった人類がオーストラリア大陸とニューギニアに広がった時期である。
・約20000年前に人類はシベリヤにまで拡大した。
・14000年前からアメリカ大陸に人類が拡大し、13000年前頃北アメリカ大陸で人口が増加した。クローヴィス式遺跡がこの時期に集中する。1000年間の間に南アメリカ大陸に広まった。
・13000年前以前に現代社会の不均衡(それは西暦1500年頃の不均衡に起因するから、本質的には西暦1500年頃までに生じた世界の不均衡)に結びつく要因を大陸間比較で見つけることはできない。

人類の拡散
ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」から引用

2 考察
人類がスタートラインに立った13000年前頃の様子について、アメリカ大陸人類拡大図と日本縄文草創期変遷図を結びつけてみました。

人類の南北アメリカ大陸進出と縄文草創期変遷の時間軸対応
アメリカ大陸に人類が進出した時期と縄文草創期がほぼ一致します。
氷河時代が終焉を迎えたという環境変化によりアメリカでは氷河後退によるアラスカからの通路成立、日本では植生変化による食料確保方法の変化などが生れたものと推測します。
隆線文土器について思考を巡らす時、その時代がアメリカ大陸人類進出時期と重なると考えると、そのような結びつきをこれまで考えたことがなかったので刺激を受けます。その刺激により、隆線文土器の意義についてより深く考えてみたい、考える価値があるに違いないと考えます。隆線文土器に対する興味が増します。
クローヴィス式遺跡と縄文草創期遺跡の出土物等比較資料があれば入手して較べてみたくなります。
なお、アメリカ大陸における土器発生は南アメリカで7500年前、北アメリカで5500年前と言われています。(「縄文はいつから」による)




2019年1月14日月曜日

中川毅著「人類と気候の10万年史」

中川毅著「人類と気候の10万年史」(ブルーバックス)を読み「驚きの地球気候史」に本当に驚きました。数十年前に自分にインプットされた同種知識をこの本で感動を伴って2019年版に書き換えることができました。眼からウロコが落ちた思いです。

中川毅著「人類と気候の10万年史」(ブルーバックス)表紙

1 参考になった点
●水月湖年縞堆積物
水月湖年縞堆積物が毎年の気候指標となることに着目し、ボーリング技術により切れ目のない15万年の年縞を採取した活動が詳しく述べられています。得られたデータは世界的意義がある過去気候資料であり、地質学の標準時計になりました。

年縞の例
中川毅著「人類と気候の10万年史」(ブルーバックス)から引用

●過去の気候変動
水月湖年縞堆積物データをもとに過去の気候変動について詳しく解説しています。

水月湖15万年の気候の歴史
中川毅著「人類と気候の10万年史」(ブルーバックス)から引用

●気候変動に与える人の影響
気候変動に与える人の影響について詳しく論じています。現在は本来氷河期に入っているべき時期であるが(数千年前からの)人の活動によりそれが遅れている(さらに温暖化が進んでいる)という説も紹介されています。

氷床のボーリング試料に記録された、過去の温室効果ガス濃度
中川毅著「人類と気候の10万年史」(ブルーバックス)から引用

●今後の気候変動とそれに対する人類の対処
今後の気候変動とそれに対する人類の対処について、理学書の範囲を超えて、著者の考えを詳しく展開しています。

2 感想
・水月湖という埋まらない、奇跡的ともいえる堆積環境の存在に驚きました。
・年縞堆積物を正確に掘り出す作業が最初にあり、その作業期間は本来の研究業績が望めないのですから、その地味な活動を展開した研究グループの先見性は素晴らしいと思います。
・水月湖年縞堆積物の学術的世界的意義の大きさに驚きます。
・この図書でのべられているように、旧石器時代から縄文時代にかかるころの環境が詳しく判りつつあります。その時代に関する自分の考古学習的興味がますます深まります。
・理学書の範囲を超えて将来の気候変動とその人類対処について述べている様子は素晴らしいと思います。通常の学者は専門内部の事から話が飛び出すことは少ないですが、著者は自分の研究意義を人類社会レベルで思考しています。

2019年1月11日金曜日

土器はいつから? 2

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 15 (シリーズ最終回)

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「追補 土器はいつから? 列島最古段階の土器の年代は決まったのか? 工藤雄一郎」を学習して、気が付いたことや感想をメモします。

1 土器はいつから? 列島最古段階の土器の年代は決まったのか? 工藤雄一郎 概要
・炭素14年代測定法の考古学における適用の歴史を詳しく解説しています。
・大平山元Ⅰ遺跡出土土器(同一個体と考えられる)に付着する炭化物5点の測定結果をIntCal04とIntCal09の較正曲線を使って年代を検討し、IntCal04よりIntCal09の方が年代が古く出るが、同時に確立分布の幅が広くなってしまい、正確な年代を絞り込むことがきわめて難しくなったことが述べられています。

大平山元Ⅰ遺跡の炭素14年代と較正年代の比較

2 メモ
・WEBを閲覧するとすでにIntCal13が発表されていますので、C14年代測定で13000年前頃のIntCal09とIntCal13の較正曲線を拾って比較できるようにしてみました。

IntCal09の較正曲線

IntCal13の較正曲線

・IntCal13の較正曲線はIntCal09に存在していたC14測定13000年前頃の中だるみが少なくなり、大平山元Ⅰ遺跡のデータを当てはめると確率分布は再び狭くなり、より正確な較正年代が得られるようになったようです。

2019年1月9日水曜日

土器はいつから?

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 14

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「追補 土器はいつから? 土器出現とその年代 日本列島における出現期の土器の様相 小林謙一」を学習して、気が付いたことや感想をメモします。

1 土器はいつから? 土器出現とその年代 日本列島における出現期の土器の様相 小林謙一 要旨
・共伴する石器の様相から大平山本Ⅰ遺跡や後野遺跡などの無文土器が最古の土器と位置付けられる。15000年前よりは古く、17000年前までの1時点と考えられる。
・ロシアアムール川流域の発生期土器(15000年前くらい)、中国南部の古い土器(18000年前、20000年前説あるが不確定、15000年前は確実)と日本本州島東部の古い土器は位置が隔絶しているので多元的に始まった可能性がある。東アジアが世界最古であることは間違いない。
・東アジアの最古土器は農耕の起源とは無関係に生み出された。
・日本海側の海流変化にともなう植生変化(落葉樹林の混合)のなかで土器が育まれた。植物質食料のアク抜きなどで土器が必要であった可能性がある。樹皮やコケなどを含めて、さまざまな食糧資源を効率的に摂取するために用いたのだろう。
・旧石器時代に炉があるので、土器の必要性が高まれば土器が作り出されたという状況があった。
・草創期、早期の土器底は丸く、これは不整地でつかうためであると考える。
・隆線文土器の文様は時間および空間の違いによって少しづつ変化していて、全体として隆線の条数が増す多条化の方向を示すなど地域間での情報交換が認められる。

東日本・関東地方の隆線文土器の変遷 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

・縄文時代草創期すなわち縄文文化のはじまりの画期として、日常的に装備される通常の道具としての土器が列島全体に広まった隆線文土器(15500年前~14000年前)の成立をもって考える。
・隆線文土器と次に示す他の文化要素の組み合わせから、隆線文段階にその後12000年以上つづく縄文文化の基盤が成立していると考える。
1 広域的な土器形式ネットワークの形成
2 住居状遺構の構築と岩陰・洞穴居住にみられる定住化の促進
3 有茎尖頭器・石鏃・矢柄研磨器にみる弓矢の完成
4 線刻礫(石偶)・土偶などの精神遺物の一般化
・出現期の無文土器は石器群や土器出土遺跡の少なさから、あくまで旧石器時代において先駆け的に土器が用いられたと捉える。


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参考 時代区分の比較 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
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2 メモ
・本書で各著者が述べたことはそれぞれ微妙にニュアンスが異なるものが含まれていますが、この追補は明瞭な論旨が一貫していてとても判りやすい土器出現とその年代説明になっています。各論あるなかで最も共鳴できるものです。
・隆線文段階にその後12000年以上つづく縄文文化の基盤が成立したという考えはとても説得力のあるものです。