2018年7月30日月曜日

縄文社会の複雑化と民族誌

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 9

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めまています。この記事は「8 縄文社会の複雑化と民族誌 高橋龍三郎」の抜き書きと感想です。
この記事は2018.06.17記事「半獣半人」のつづきです。

1 縄文社会の相対的位置づけ

縄文社会の相対的位置づけ
先行する研究や台湾・ニューギニアなどの調査から著者は次のような社会複雑化を想定してます。
●縄文草創期…無頭部族社会
●縄文早期・前期・中期…部族社会
●縄文後期・挽回…氏族制部族社会(グレートマン社会)
●弥生前期?…氏族性部族社会(ビッグマン社会)
縄文社会はこのよううな複雑化の過程の中にあるので「階層化過程にある社会」と定義づけて説明しています。
トーテミズム(半獣半人)はこの過程のなかの氏族制部族社会で生まれると説明しています。

2 感想
ポトラッチが階層化、複雑化を進める原動力の一つであること、呪文をとなえられることが重要であり、リーダーの親から子に直伝していくものであること、氏族とトーテムが結びついていることなど興味深い内容ばかりです。詳しい内容を参考文献を取り寄せてぜひとも読みたいと思います。

2018年7月27日金曜日

環状集落にみる社会複雑化

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 8

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めまています。この記事は「7 環状集落にみる社会複雑化 谷口康浩」の抜き書きと感想です。

1 環状集落にみる社会複雑化
本書では次の項目で時期別に環状集落の姿を示して、社会複雑化について論じています。
(1)縄文社会の縮図
(2)前期の様相
(3)中期の様相
(4)後期の様相
(5)社会複雑化の要因

前期、中期、後期の事例図版を使って、その特徴を説明しています。

縄文前期の集団墓と墓域の周囲に残る儀礼の遺構・遺物 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
前期中葉から後葉の時期に集団墓の造営がはじまり、それを中央に取り込んだ環状集落が成立します。同族意識をもった部族集団が組織化され、大規模な集団墓の造営も見られることから広域的な地域社会が成立してきたことがうかがえます。

縄文中期の環状集落と墓群の分節構造 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
環状集落が数多くつくられ、「拠点集落」といえるような大規模なものがつくられるようなります。環状墓群がみられるようになり、環状集落に分節構造がみられるようになります。この様子から「分節的部族社会」と呼ばれる社会構造が想定されます。環状集落の中央墓地に入れなかった人々は谷底平野などに埋葬されていたと考えられます。
二つの分節構造は双分組織の存在を強く示唆しています。

縄文後期における環状集落の解体と特殊遺構の発達 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
後期前葉の堀之内式から加曽利B式土器の時期になると特殊家屋や特殊遺構と呼ばれる類の遺構が現れます。墓域を中心に配石遺構や配石墓が著しく発達し、葬制の複雑化を示す「再葬制」がはっきりみられるようになります。
不平等や格差が拡大し位階的な社会関係が出来上がってきているように思います。

社会複雑化の様子は次のようにまとめられます。

環状集落の変化からみた社会複雑化の過程 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
社会複雑化が起こった要因として、前期の海進期に本格化し中期にピークに達した人口密度の高揚が考えらえます。

2 感想
人口密度増が社会の複雑化を促したという説明は説得力があります。この図書では基本的考え方だけしか示されていませんので、著者の他の図書の学習を是非してみたいと思います。
中期には双分組織が存在していたという著者の考えは、自分の学習で、大膳野南貝塚後期集落の漆喰貝層有竪穴住居グループと漆喰貝層無竪穴住居グループとの関係を考える際重要な論点になると思います。この図書の分節構造、双分組織の説明から受ける私のイメージは、二つの集団が優劣はあるものの基本的に同じ次元で対応するものです。
一方、大膳野南貝塚後期集落の漆喰貝層有竪穴住居グループと漆喰貝層無竪穴住居グループは主従関係(支配-非支配)であるかもしれないとすらイメージしてしまうような関係です。
大膳野南貝塚学習の中間とりまとめ 参照


2018年7月20日金曜日

西日本の縄文文化

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 7

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めまています。この記事は「6 西日本の縄文文化の特色とその背景 瀬口眞司」の抜き書きと感想です。

1 西日本の縄文文化の特色とその背景
次の項目により西日本の縄文文化について論じています。
(1)関西縄文社会の特色はどのように見えるか
・集落・遺跡からみたその特色
・資源利用からみたその特色
・関西縄文社会とはどんな社会か
(2)関西地方の縄文社会はどのように考えられるか
・観察と考察に隠された宿命
・どのように考えられてきたのか
・収穫期の長さの違い
・社会変化を阻止する仕組み
・欲張らない社会と欲張る社会
・社会の姿を変える鍵
(3)関西縄文社会の特色と背景

2 超要約
2-1 東日本は資源利用積極社会、西日本は資源利用消極社会
土堀り用具と考えられる打製石斧の住居1棟当たり数を関西地方と北陸・東海地方西部を比べると、関西地方では後期中葉に増えるが北陸東海地方西部と比べると伸び率は小さい。

打製石斧数 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

伐採や木工に用いる磨製石斧の住居1棟当たり数も打製石斧数と同じ傾向になる。

磨製石斧数 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

北陸東海地方西部では打製石斧と磨製石斧の数を激増させて土地や資源の改変を伴う方向で資源利用を強化していったが、それと比べて関西地方では土地・森林の改変を伴う資源利用には消極的な社会だった。

2-2 東日本は集約労働必要社会、西日本は集約労働が生れにくい社会
北陸・東海地方西部では主要落葉樹(クリ、オニグルミ、トチノキ)の結実期は9月~10月の2ヵ月間であり、集約的な労働が必要で集団規模を拡大させたり求心的な構造を生み出す必要がある。
その結果、余暇よりも労働・生産を優先・強化し、世帯の必要量を遥かに超えた物質的豊かさを目指す社会となった。生産強化様式、欲張る社会。

一方、西日本では落葉樹三種に加え照葉樹(イチイガシ、アラカシ、シラカシ、アカガシなど)の堅果類が11月~12月に結実期を迎える。つまり西日本の収穫期は合計4ヵ月に及び東日本の2倍に及ぶ。従って集約的労働を編成する必要性が生まれにくい。
その結果、労働や生産よりもおしゃべりなどの余暇を優先し、最低限の豊かさで十分満足する。過小生産様式、欲張らない社会。

主要な堅果類の分布 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

3 感想
西日本では堅果類収穫期が長いので労働集約の必要性があまりなく、従って人々はのんびり暮らしていた。その結果が西日本縄文遺跡の数の少なさや出土物の少なさとなっているという仮説です。
西日本の方が豊かだったので人々はのんびりくらしていて人口は増えず、東日本は条件が厳しいので人々はあくせくと働き、結果として人口が増えたと言い換えることができる仮説です。

この仮説に対して次のような原理的疑問を感じました。
西日本で堅果類収穫期が長く、労働集約の必要性があまりないとすれば、それだけ生活しやすい環境があったということになります。生活しやすい環境があり、外敵もいなければ動物は一般に増殖して数を増やします。縄文人も同じく生活しやすい環境があり、他に問題が無ければ増殖して人口が増えると考えます。しかし西日本では人口が増えないのですから、その理由は「生活のしやすさ」にあるのではなく、別の「生活のしにくさ」にあると考えます。
この仮説は西日本縄文人をとりまく生活環境のしやすさ、しにくさの多方面にわたる十分な検討をベースに考察されるべきものと考えます。

また次のような疑問も浮かびます。
東日本が生産強化様式、欲張る社会で西日本が過小生産社会、欲張らない社会に分化していったということならば、縄文社会の根本原理が分化していったということにほかなりません。そうなれば文化や技術も必ず分化すると思います。住居1棟当たり石斧数という量だけでなく、「過小生産」や「欲張らない」精神に対応した土器様式・集落構造・竪穴住居形式・石器形式などもろもろの分化が生れるはずです。働くことよりおしゃべりなどの余暇を優先した社会特有の事象が沢山生れるはずです。そうした現象が観察できるのかどうか知りたくなります。

2018年7月19日木曜日

中部日本の縄文文化

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 6

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めまています。この記事は「5 中部日本の縄文文化 長田知也」の抜き書きです。

1 中部日本の縄文文化
次の項目により中部日本の縄文文化について論じています。
(1)中部日本の縄文時代
・縄文時代の地域区分
・中部日本の範囲と隆盛
・縄文時代晩期の中部日本
(2)東海地方の様相-小地域圏の発達-
・東海地方の小地域区分
・晩期東海地方の社会
・遺跡間関係からみた社会復元
・東海地方の特産品
(3)中部日本における様相-特産品の展開から-
・中部日本の特産品
・特産品としての石製儀器
・特産品としての玉
・特産品としての黒曜石
(4)特産品の重要性と流通システム
・特産品の掌握
・特産品利用の説明原理・世界観

2 東海地方晩期の地域間関係
磨製石斧が豊川流域で作られ、それが矢作川流域で使われるなどの小地域間関係が詳しく説明されています。

後期後半から晩期における東海地方の地域間関係と小地域内の遺跡間関係モデル 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

3 中部地方の特産品
中部地方特産品としての石製儀器、玉、黒曜石を例に、製品の動き、消費地、流通システム等について詳しく説明しています。

晩期前半の中部地方における主要な小型石棒類の展開 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

晩期北陸地方から東北地方にかけての硬玉製玉の展開 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

前期と後・晩期の黒曜石流通システム 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

4 感想
小地域間で産物がやり取りされている様子が詳しく調べられている様子を知ることができ、興味を深めることが出来ました。玉と黒曜石については詳しい調査の情報源を知ることができたので、いつかそれにアクセスしたいと思います。

2018年7月15日日曜日

東日本の縄文文化

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 5

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めまています。この記事は「4 東日本の縄文文化 菅野智則」の抜き書きです。

1 東日本の縄文文化
次の項目に基づいて縄文集落の消長を阿武隈以北東北地方を視野に入れて、時期を追って詳しく記述しています。
1 東北地方の地域性
2 縄文集落の出現と展開
3 前期集落における地域性
4 中期の集落遺跡の展開
5 晩期に向けての変化

本報告で触れている遺跡 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

2 竪穴住居平面形状の変遷
図書中に東北地方の竪穴住居平面形状の変遷がわかる図があり、大膳野南貝塚などの例と異なる点に興味を持ちました。

各時期の竪穴住居祉1 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

各時期の竪穴住居祉2 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

3 感想
東北地方の縄文文化と学習対象の千葉県縄文文化との関連が、自分の頭の中では「なにもついていない」ので、関連付けができるような知識をはやく得たいと思います。
大膳野南貝塚後期集落から出土した鯨骨製骨刀は宮城方面からの渡来品であるような印象を発掘調査報告書記述から受けていて、宮城貝塚形成集団と千葉貝塚形成集団の交流などもあったかもしれません。

2018年7月13日金曜日

縄文文化における南の範囲

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 4

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めます。この記事は「3 縄文文化における南の範囲 伊藤慎二」の抜き書きです。

1 縄文文化の南限
著者は世界の土器の中で縄文土器を際立たせる特徴として縄文施文と口縁部突起の2つの特徴があるとして、その分布を九州から沖縄にかけて詳しく調べています。
その結果琉球の貝塚文化では縄文施文が全く見られないことと、口縁部突起が不安定にしか受容されていないことから、貝塚文化は縄文文化とは一線を画するものとして捉えられています。縄文文化つまり縄文施文と口縁部突起が受け入れられた南の範囲は屋久島までであることがわかりました。

縄文施文と口縁部突起 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
北琉球では縄文施文(網目の濃淡で表示)が全くあらわれず、口縁部突起(▲の大小で表示)も時期によって多い少ないがあり安定していません。

貝塚文化と縄文文化の境界 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

2 感想
いままで琉球の原始文化は縄文文化そのものであると考えていましたが、それは間違いであり、縄文文化と交流はあるものの琉球の原始文化は独自のものであることを学習しました。

2018年7月12日木曜日

縄文文化における北の範囲

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 3

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めます。この記事は「2 縄文文化における北の範囲 福田正宏」の抜き書きです。

1 縄文的生活構造の北限
縄文文化における北の範囲についてロシア側遺跡調査と日本側調査を合わせて考察し次のような結論を得ています。
はじめに結論を申しあげておきます。縄文文化、あるいは縄文的生活構造の北限というものは、サハリン島や中千島以北の地域に認められません。北限は北海道の北東部、道東・道北と呼ばれる地域にあると私は考えています。(福田2013)
 千島列島ですが、南千島とくに国後は、基本的に道東の延長線上にあります。縄文系の遺物がそこそこ出ています。それに対して、択捉海峡の先の中千島・北千島-ロシアでクリルと呼ばれる地域-では、旧石器時代または縄文時代の確実な遺跡が発見されていません。そもそもここは環境が過酷すぎて、この時代に人類が住めるような杁況ではなかったという指摘さえあります。(Fitzhugh.etal.2002、手塚2010)

… … …

(3)北海道の縄文文化の独自性
最後に論点をまとめておきます。まず、北海道の縄文早期後葉から晩期は、基本的に本州側との関係性のなかに位置づけられます。そして、縄文的生活構造の適応限界は道東北にあります。亜寒帯性の環境に縄文集団は順応しにくいということが分かってきました。
次に、縄文・続縄文の北海道には大陸集団由来の社会構造変動は認められません。いつでもサハリンの動態が中間に位置づいています。縄文早期の石刃鏃期と続縄文期の北海道-サハリン間には異なる背景の連絡関係がありました。そのとき、北海道-大陸間にゆるやかな関係性が生じたとは言えますが、先に述べましたように、中間にはサハリンの動態が存在しました。
そして最後に、北海道-サハリン間に関係がある時期におけるサハリンからの南下現象というものは、実際にはどれも一過性です。そして定着しにくい、あるいは必要とされなくなる、という構造が読み取れることが分かってきています。」山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

日本列島北辺域の地図とおおまかな地域区分 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

2 感想
縄文文化の北限はほぼ北海道であると捉えてよいということを学習することができました。

2018年7月9日月曜日

縄文時代はどのように語られてきたのか

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 2

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めます。この記事は最初の「1 縄文時代はどのように語られてきたのか 山田康弘」の感想です。

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)表紙

1 1970年代の縄文時代・文化観
1970年代の縄文時代・文化観の項目には次のような記述があり、自分がまさにこのような教育を受けてきたことを思いだします。
このような考え方は1970年代になっても変わらず、たとえば1973年には春成秀爾先生が「縄文社会は恒常的に生産物を生み出すことのできない生産力の質を自明のこととすれば、相互扶助性に支えられて個別集団問で貧しい平等を分かち合っていたといえるだろう」と述べられています(春成1973)。縄文時代の人々は狩猟採集民ゆえに貧しく、それゆえに平等な社会を築いていたという理解は、当時広く共有されていたものでした。
これら研究者の言を受けて、1970年代の日本史の教科書には「縄文時代の社会は貧富や階級の差というものがない。そしてそれは住居の規模や構造、それから死者が共同墓地に埋葬され副葬品がほとんどないことからも伺われる」と記述されます(井上他1979)。そして重要なのは、次の記述です。「食料獲得方法の進歩や人口の増加はやがて自然食料資源の不足をもたらし、採集経済から新たな生産経済へと発展すべき必要に迫られることとなった」。これが、縄文時代がなぜ弥生時代へと移行したのかという問いに対する答えとなるわけですが、ここで、先にも見てきたように、食料採集社会の貧しい縄文時代は行き詰まり、そして食糧生産社会の豊かな弥生時代へ必然的に移行していくという歴史観は、実は戦前よりずっと述べられてきたものであったことを思い出していただければと思います。」山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
自分自身が所持していたこのような縄文時代観はこの数年の学習のなかで「自分の縄文時代感覚は少し違うかもしれない」と自覚するようになり、少しずつ修正してきていますが、自分の感覚のズレがどの程度のものであるのか、どこを修正すればよいのか不明でした。
しかし、この本を読んで自分の縄文時代感覚のズレの修正ポイントがある程度見えてきたのでうれしいことです。
1960年代中頃、自分の学部とは違う学部の専門科目としての和島誠一先生の考古学講義を聞いたことがあります。その時は考古学が自然科学などと緊密に連携していく様子が感じられてとてもフレッシュで魅力的な学問であると感じて、それが現在の私の考古好きに結びついていると思います。しかし、1960年代頃の時代が形成する縄文時代観・文化観はもうお払い箱に入れなければならないということです。

2 現在の縄文時代・文化研究の状況
縄文時代を旧来の縄文時代観に囲い込めむことは無理であるとして、幾つかの事例が提示されています。

現在における縄文時代の枠組みとさまざまな研究成果 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
大変参考になるチャートです。イノシシ、ウルシ、階層化社会などは既に自分の問題意識を研いでいます。柔軟姿勢で自分の縄文時代感覚を研ぎ澄ませていきたいと思います。参考資料にある「つくられた縄文時代」(山田康弘、新潮社、2016)もkindle版を購入して読み始めました。

kindle版「つくられた縄文時代」(山田康弘、新潮社、2016)