2020年5月26日火曜日

縄文早期の精神文化

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習24

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「4 墓制・祭祀・装身具等の発達に見る精神文化」を学習します。

「4 墓制・祭祀・装身具等の発達に見る精神文化」は次の小見出しで記述されています。
1 墓域・配石遺構の発達
2 動物祭祀の発達
3 赤色顔料の多用
4 仮面習俗の存在?
5 多様な装身具
6 土偶の増加
7 早期の社会構造
8 縄文文化の主要な要素の萌芽期としての早期
これら一つ一つについて興味があります。それぞれ徹底して学習したくなります。しかし、5月は第三章学習、6月は第四章学習、・・・と計画的学習進行を優先させ、まず縄文社会変動の大局観をこの学習で得ることを主目的とし、寄り道学習はあくまで許容できる範囲の寄り道にすることにします。
この記事では上記小見出し記述の概要を確認し、今後の学習の仕方をメモします。

1 墓域・配石遺構の発達
・大規模墓域確実視…鳥取県上福万遺跡(配石墓、土坑墓、墓域正立)
・熊本県瀬田裏遺跡…方形配石遺構(押型文土器の時期、胴部に孔のある壺形土器)

墓域・配石遺構については今後折に触れて徹底して学習することにします。
草創期と早期では墓についてどのように異なるのか?
上福万遺跡は「全国遺跡報告総覧」(奈良文化財研究所)から発掘調査報告書(2冊)をダウンロードしてざっと見ることができました。興味が湧きます。

2 動物祭祀の発達
・千葉県取掛西貝塚…動物供儀
2019.02.07記事「飛ノ台史跡公園博物館企画展「ここまでわかった!~1万年前の取掛西貝塚~」」などで企画展展示観覧をはじめ何度か興味をもち学習をしています。
過去の学習をさらに発展させたい思考がいろいろ浮かびます。
「動物供儀」という言葉ではなく、その活動のイメージをよりリアルに推測できるようにしたいと思います。

竪穴住居跡から動物供儀跡が出土していますが、動物供儀は上屋のある住居内で執行されたのか、それとも廃屋となり、上屋が取り払われた野外空間としての住居跡で執行されたのか?
上屋のある室内空間での動物供儀は、根拠はありませんが、考えられないと直感します。
室内空間では集落の全員がその式に参加できません。
またイノシシやシカの頭と体の分離は動物供儀の重要な項目として式途中に衆人環視の中で執行されたに違いありません。首を切った動物の中にはまだ生きているものが含まれていたに違いありません。
動物供儀が野外(竪穴住居跡)で執行されその後、ある程度急速に貝をかぶせたと想像します。

動物供儀に関する図書も数多くあるようですから学習テーマの一つにしたいと思います。

動物供儀跡の状況
船橋市飛ノ台史跡公園博物館企画展(2019年2月開催)パンフレットから引用

縄文早期遺跡に動物供儀跡が発見される意義も検討価値があります。草創期にも同じようなことがあり、ただ発見できないだけなのか、それとも草創期には少なく早期に盛行しだしたのか?

3 赤色顔料の多用
・旧石器時代の赤色顔料…北海度嶋木遺跡出土石皿(台石)付着ベンガラ、北海道柏台1遺跡…褐鉄鉱
・鹿児島県関山遺跡…入れ子状土器の小型土器内部にパイプ状ベンガラ(早期後葉)
・北海道東釧路貝塚…人骨の全身にベンガラ
・北海道垣ノ島B遺跡…土坑墓からベンガラ赤漆の漆工製品(9000年前)火災消失
・石川県三引遺跡…ベンガラ漆塗竪櫛(7200年前)

4 仮面習俗の存在?
・東名遺跡から木製仮面出土…仮面習俗…祖霊祭祀
・中期以降に土製仮面(土面)増加

東名遺跡出土 木製仮面
佐賀市教育委員会編「縄文の奇跡! 東名遺跡」(2018、雄山閣)から引用

仮面習俗も大変興味がありますから、重要な学習テーマとしたいと思います。
2020.03.20記事「国宝土偶「仮面の女神」注記付き3Dモデルと想像的解釈

5 多様な装身具
・東名遺跡…シカ角加工装身具(腰飾り)、ツキノワグマ犬歯製垂れ飾り、サメ歯製垂れ飾り、貝製装身具(クマサルボウ製、マツバガイ製、ベンケイガイ製、オオツタノハ製)
・滋賀県石山貝塚…子ども埋葬例に伴うツノガイ製玉
・千葉県取掛西貝塚…ツノガイ製玉
・愛媛県上黒岩岩陰遺跡…タカラガイ製装身具、マキガイ製ビーズ

東名遺跡出土装身具
佐賀市教育委員会編「縄文の奇跡! 東名遺跡」(2018、雄山閣)から引用

千葉県取掛西貝塚出土 ツノガイ製玉
船橋市教育委員会発行「ふなばしの遺跡」(2017)から引用

6 土偶の増加
・千葉県木の根遺跡…三角形に大きな乳房
・茨城県花輪台貝塚…大きな乳房
・大阪府神並遺跡…四角い粘土版に乳房貼り付け
・鹿児島県上野原遺跡…顔の表現はない
・千葉県中鹿子第2遺跡…腰部だけで乳房はない
・千葉県打越岱遺跡…頭部から腰で乳房はない
・土偶の多元的発生説

茨城県花輪台貝塚出土土偶
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

土偶についてはすでに重要学習テーマとして興味を持っています。土偶は時期によりその意義が微妙に(あるいはかなり)異なるようだとの作業仮説の下に学習を進めたいと思います。

7 早期の社会構造
・母系的な社会の可能性

8 縄文文化の主要な要素の萌芽期としての早期
・早期は縄文文化の萌芽期で、要素はすべて前期にまで持ち込まれる。

9 感想
縄文早期になぜ縄文文化の諸要素の萌芽が生まれたのか、なぜそれが前期に持ち込まれたのか、その理由(背景)をより深く理解できるように今後学習することにします。
縄文早期初頭は海面が現在より40m低く、縄文早期末までに海面が40m上昇しました。この地形の大変化(現代風に言えば国土の大縮小)と縄文早期文化とはどのように絡むのか、学習を深めたいと思います。

2020年5月20日水曜日

イヌの利用

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習23

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「3 多様な動植物の利用」の小見出し「イヌの利用にみる動物管理の開始」を学習します。

1 イヌの利用にみる動物管理の開始
「年代的にも確実な日本最古のイヌの事例として認められているのが、神奈川県夏島貝塚と上黒岩岩陰遺跡、佐賀県東名遺跡の各遺跡から出土した縄文時代早期の事例である。特にイヌの埋葬例もこの時期までさかのぼることから、すでにイヌがヒトと社会的な関係を取り結んでいたことがわかる。おそらくは、主に猟犬として利用されていたのだろう。」
「イヌが誕生したのはユーラシア大陸のどこかと考えられているが、最古の事例の年代から見て、日本にはすでに馴化が進んだイヌが持ち込まれたと考えられている。縄文においてはその当初から、イヌはヒトのよきコンパニオンアニマルであったのだろう。」
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

2 感想
縄文人の犬に対する親愛の感情は強いものがあったと常日頃から感じています。以前千葉市大膳野南貝塚の学習を体系的に行ったときに、竪穴住居跡による廃屋墓が多数存在していることを知りました。しかし、ある堀之内1式期の竪穴住居跡は犬用廃屋墓として利用されていることを知り、犬が人と同格に扱われている状況を感じました。

2号犬骨(幼犬)
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

J9竪穴住居 人骨と犬骨の土層断面模式位置
2号犬骨は竪穴住居床面で貝層直下から出土しています。貝層からはなんと周産期人骨が出土していて、犬用廃屋墓に人の赤ん坊も後に一緒に埋葬されたことになります。
ブログ「花見川流域を歩く」2017.12.18記事「犬用廃屋墓」参照

3 参考

縄文犬 飛丸くん 3Dモデル動画
船橋市飛ノ台史跡公園博物館常設展展示模型 縄文犬「僕の名前 飛丸」
船橋市藤原観音堂貝塚出土犬骨に基づく復元模型
3Dモデルはhttps://skfb.ly/6JQZw

多様な動植物の利用

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習22

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「3 多様な動植物の利用」の小見出し「食料としての動植物」「東名遺跡にみる水辺利用と貝塚」「植物の素材利用の開始」を学習します。

1 多様な動植物の利用
青森県長七谷地貝塚出土物(食べられていたもの)
ハマグリ、オオノガイ、ヤマトシジミ
ニホンジカ、ツキノワグマ、キツネ、ニホンアシカ
スズキ、クロダイ、カツオ
貯蔵穴からオニグルミ

2 東名遺跡にみる水辺利用と貝塚
佐賀県東名遺跡出土物(食べられていたもの)
貯蔵穴(水漬け保存)からイチガシ(8割)、ナラガシワとクヌギ(1割弱)
オニグルミ
スダジイ、ツルマメ
イノシシ、シカ
タヌキ、ノウサギ、アナグマ、テン、カワウソ
スズキ、ボラ、クロダイ
アユ、コイ、フナ
次の図に示すように食料をバランスよく摂取していた。

佐賀県東名遺跡出土人骨における食性分析結果
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 植物の素材利用の開始
カゴなど編組製品とその素材(樹皮、ヘギ材、シダ植物、ツル植物などが束状になったもの(素材束))が出土。

低地型貯蔵穴と編みカゴ カゴ復元品
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

4 考察と感想
4-1 長七谷地貝塚と東名遺跡の情報源
長七谷地貝塚に関して次のwebサイトから解説書をpdfファイルで入手することができました。

サイト「北海道・北東北の縄文遺跡群
長七谷地貝塚に関する資料が掲載されているサイト

入手解説書掲載図
遺跡と縄文海進との関係が詳しく調べられているようです。

東名遺跡に関して次のサイトで解説書を閲覧することができました。

サイト「saga ebooks 東名遺跡解説パンフレット
東名遺跡に関する資料が掲載されているサイト

東名遺跡解説資料に掲載されている地下における遺跡の状況

4-2 参考 長七谷地貝塚と東名遺跡の現在の地形

長七谷地貝塚付近の現在の地形3Dモデル
貝塚が形成されたころ、海がどこら辺にあったのか、研究成果をみればわかると予想します。

東名遺跡付近の現在の地形3Dモデル
東名遺跡で人が生活していた時、海岸線はどうなっていて、その場所から背後の山までの平地はどのように利用されてて、山はどのように利用されていたのか興味がそそられます。時間とともに地形がどのように変化したのかと、その利用を人がどのように行ったのか興味が尽きません。

4-3 感想 その1
長七谷地貝塚と東名遺跡についてさらに専門的資料を入手して詳しく学習したいと思います。
双方の遺跡の発掘調査報告書は「全国遺跡報告総覧」からはダウンロードできません。

4-4 感想 その2
長七谷地貝塚と東名遺跡ともに縄文早期後半の縄文海進が進んで海域が広がったころの遺跡です。
その頃は縄文早期前半とか最初期と比べると平地面積が極めて狭小になっています。従って、早期前半と比べると早期後半は平地におけるシカやイノシシの狩猟が困難になっています。獣肉の入手が限られるので、動物タンパクの入手という点で、どうしても漁労に頼らざるをえません。
縄文海進の影響はプラス面(良好な漁場の現出)とともに、マイナス面(良好な猟場の消失)ということも考えなければならないと考えます。

山地での狩猟では多くの人口を養えません。しかし平地での狩猟ならばある程度の人口を養えると思います。
縄文早期前半では海面高度が低く平地面積が広く存在していました。したがって狩猟による動物タンパクの摂取をある程度獣から賄えていたと考えます。
しかし海面高度上昇で平地面積が急減すると狩猟による動物タンパク摂取は気休め程度になってしまいます。その窮状をしのぐために漁労に向かわざるを得なかったと考えます。

人骨食性分析結果から「バランスよく栄養を摂取している」旨佐賀縄文人が褒められていますが、当時の縄文人の心情は「できれば獣肉で腹を一杯にしたい」のだったのだと思います。(千葉では、縄文海進ピークから海退に転じた縄文晩期には平地(干潟や砂洲)が広がり獣が増えます。そうすると漁労は下火になり、獣骨出土が増えます。)

2020年5月18日月曜日

北の大規模集落

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習21

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「2 定型的な居住様式の確立と貝塚の形成」の小見出し「北の大規模集落」「本州における様相」「集落から居住集団を推測する」を学習します。

1 北の大規模集落
「北海道八千代A遺跡からは早期前半の時期の竪穴式住居が103棟以上確認されたほか、9万点弱もの遺物が出土しており、全国的に見ても稀有な大規模な集落遺跡であることが判明している。また、北海道函館市の函館空港中野B遺跡は、津軽海峡を望む海岸の台地の上に広がる大規模な集落跡だが、そこから早期後半の事例を中心とする竪穴式住居跡が700棟以上、検出されている。住居跡の数だけをみれば、まさに縄文屈指の大集落である。」山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

2 本州の様相
「本州でも岩手県馬立Ⅰ遺跡から早期前半の住居跡が14棟、山形県二タ俣A遺跡では早期前半を主とする住居跡が18棟、群馬県多田山遺跡群では早期前葉の稲荷台式期を中心に住居跡が23棟見つかっている。」
「近畿地方でも、三重県鴻ノ木遺跡から早期前葉の住居跡が18棟確認されている。」
「中国地方でも、島根県堀田上遺跡や鳥取県取木遺跡の事例など、そのほとんどの集落が数棟程度の規模しかない。
「九州においても、その南部を除いては、竪穴式住居の検出例は少ない。」
「現状では、早期の段階においては、すでに通年的定住生活を行っていた地域と、そうでない地域があったと理解しておいた方がよいだろう。」
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 集落から居住集団を推測する
1つの住居に何人が生活していたかは、
居住者数=(住居跡の床面積)÷3(人が手足を大きく伸ばしたときの広さ)-1
という式でおおよそわかる。

上野原遺跡では早期住居跡の平均床面積(約7.13平方メートル)から1棟に2~3人生活していたと推定できる。1時期に6~7棟住居があったとすれば、多くとも20人程度が集落人口である。
北海道中野B遺跡では平均床面積(約15.4平方メートル)から1棟に4~5人生活していて、1時期に6棟前後の住居が同人存在していたとされるので集落人口は30人前後と推定される。
集落は2~3家族程度の人々から構成されていたと推定できる。
以上山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

4 感想
これまでの学習結果と合わせると縄文早期定住に関して、山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から次のような情報を読み取ることができます。
●貝塚が形成され本格的な定住生活が営まれていた地域…東京湾沿岸部、青森県赤御堂貝塚や長七谷地貝塚、岡山県黄島貝塚、滋賀県粟津湖底遺跡など
●早期の段階において通年的定住生活を行っている地域…九州南部の上野原遺跡付近、北海道の北海道八千代A遺跡周辺、函館空港中野B遺跡周辺など
●通年的定住生活を行っているとは考えられない地域…上記を除いた本州東北・関東・近畿・中国・九州北部など

以上の結果を地図にプロットすると次のようになります。

縄文早期大型集落と縄文早期貝塚

関東平野の縄文早期貝塚

図書に記述されていることを機械的に理解すると、九州南部と北海道及び関東の3カ所が縄文早期に定住化が全国に先駆けて進んだと考えることができます。
九州南部は列島で南に位置していて気候の温暖化が早かったという条件から定住化が早かったと理屈をつけることができます。
関東は海進の影響が顕著で漁労という有望な新たな生業を獲得できたので定住化が早かったと理屈をつけることができます。
北海道はなぜ定住化が早いのか?草創期以来の大陸からの影響が「資産」として残っていたからなのか?今一つ自分には理屈をつけることができません。

函館空港中野B遺跡については今後さらに検討を深めたいと思います。

(縄文時代の全国貝塚データを当方活動のために奈良文化財研究所から提供していただきました。感謝申し上げます。そのデータから早期に関わる遺跡を抽出してQGISでプロット図を作成しました。)


5 参考
5-1 上野原遺跡の位置

上野原遺跡の位置
webにおいて、鹿児島県立埋蔵文化財センター→埋蔵文化財情報データベース→埋蔵文化財全情報検索→遺跡分布地図検索(詳細版)→霧島市→上野原遺跡の操作で正確な遺跡位置図を入手できました。

5-2 函館空港中野B遺跡、北海道八千代B遺跡の位置

函館空港中野B遺跡の位置

北海道八千代B遺跡の位置
webで北海道オープンデータポータル→データカタログ→データセット検索→地図・GIS→埋蔵文化財包蔵地(GISデータ)【北海道】でデータをダウンロードして、QGISプロットして位置を確認できました。
webで北の遺跡案内→北の遺跡案内へ進む→地図から探す→(自治体別操作)で遺跡地図にたどり着けることもできます。

2020年5月10日日曜日

鹿児島県霧島市上野原遺跡

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習20

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「2 定型的な居住様式の確立と貝塚の形成」の「早期における大型集落の登場」を学習します。

1 早期における大型集落の登場
「多数の早期の竪穴式住居が検出され、そのうちの約10軒には約9500年前に噴火した桜島の火山灰(P13と言う)が堆積していた。このことは、一時期、10軒程度の住居が同時に存在していたことを示している。また、石蒸し炉と思われる集積遺構が39基、燻製施設と考えられる連穴土坑が16基、用途は明確ではないが土坑が260基、集落内を通る道路跡が2筋確認されている。九州地方南部では、すでにかなりの程度、安定した定住生活が営まれていたと考えてよいだろう。
 また、上野原遺跡からは土器埋設遺構も検出されている。縄文時代の遺跡を調査していると、しばしばまったく壊れていない土器を、その土器のサイズに合った大きさの土坑に意図的に埋設している遺構が出てくることがある。このような遺構を土器埋設遺構と呼び、埋められていた土器そのものを埋設土器と呼ぶ。」
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

2 上野原遺跡の土器埋設遺構の様子

上野原遺跡の地形
「国分上野原テクノパーク第3工区造成工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(Ⅰ)上野原遺跡(第10地点)」から引用

土器埋設遺構の様子
「国分上野原テクノパーク第3工区造成工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(Ⅰ)上野原遺跡(第10地点)」から引用

石斧埋納遺構の様子
「国分上野原テクノパーク第3工区造成工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(Ⅰ)上野原遺跡(第10地点)」から引用

土器埋設遺構付近の様子
「国分上野原テクノパーク第3工区造成工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(Ⅰ)上野原遺跡(第10地点)」から引用・塗色加筆

集落と祭祀空間が分離するとともに、祭祀空間では最も標高の高い場所に土器埋埋設遺構と石斧埋納遺構が分布し、その周りに石核母岩集積遺構、磨石集積遺構、集石遺構が分布し、祭祀活動の違いによる空間ゾーニングの存在が推定されます。

3 感想
・webサイト「全国遺跡報告総覧」から「国分上野原テクノパーク第3工区造成工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」(祭祀空間)及び「同第4工区」(集落空間)の全てが自由にダウンロードでき、報告書閲覧ができることは一種の感動を覚えます。考古学専門家にとって素晴らしい情報インフラが構築されています。
・全部で44のファイルをダウンロードして上野原遺跡の発掘調査報告書の全貌を眺めることはできました。
・山田康弘著「縄文時代の歴史」で力を入れて記述しているように、この遺跡の情報は興味の深まるものばかりです。
・縄文早期の集落&祭祀空間事例としてこの発掘調査報告書を折に触れて活用していくことにします。

谷口康浩編「縄文人の石神 ~大型石棒にみる祭儀行為~」

ブログ「花見川流域を歩く」で縄文石器学習の手始めに石棒の観察記録3Dモデルを3点について記事にしました。
しかし、石棒に関する基礎知識がゼロであり、単に3Dモデルを掲載するだけでは価値の低い趣味活動になってしまいます。
そこで、泥縄式になりますが、石棒の基礎知識入手を目的に谷口康浩編「縄文人の石神 ~大型石棒にみる祭儀行為~」を入手してざっと目を通しました。
まだ精読していませんが、期待以上に歯ごたえのある「その分野専門知識へのアプローチ」ができましたのでメモしておきます。

1 谷口康浩編「縄文人の石神 ~大型石棒にみる祭儀行為~」の概要

谷口康浩編「縄文人の石神 ~大型石棒にみる祭儀行為~」(2012、六一書房)
目次
谷口 康浩 縄文人の石神 「行為」と「コンテクスト」による大形石棒の研究法
大工原 豊 大形石棒の製作遺跡と流通 北関東における火成岩製石棒の製作と流通を中心として
中島 啓治 コラム1:大形石棒の石材の観察・記載法
長田 友也 石棒観察から読み取れること
中島 将太 石棒にみられる痕跡について
鈴木 素行 大形石棒が埋まるまで 事例研究による「石棒」(鈴木2007)の改訂
山本 暉久 住居跡出土の大形石棒について とくに廃屋儀礼とのかかわりにおいて
川口 正幸 コラム2:東京都町田市忠生遺跡A地区出土の大形石棒
中村 耕作 大形石棒と縄文土器 異質な二者の対置と象徴操作
阿部 昭典 東北北部の大形石棒にみる地域間交流
中村  豊 中四国地域における大形石棒
加藤 元康 コラム3:縄文時代の男根形土製品
あとがき

春成秀爾国立歴史民俗博物館名誉教授の推薦文が期待感を高めたので、また谷口康浩編者が石棒研究でも有名らしいので、この図書を入手しました。直接どのサイトなり図書引用で見つけたのかは、石棒関連情報に接しすぎましたのでもう思い出せません。

2 谷口康浩「縄文人の石神 「行為」と「コンテクスト」による大形石棒の研究法」
最初の論文谷口康浩「縄文人の石神 「行為」と「コンテクスト」による大形石棒の研究法」はまことに格調高い論文です。考古学における石棒研究が狭い技術的観察に終始してしまっているのではないかという自分の疑問(無意識的反応・反発)を大きく押し返して圧倒していただきました。
この巻頭論文以外の全ての論文もとても読み応えありますので、順次精読して自分の血肉にしたいと思います。

3 中村耕作「大形石棒と縄文土器 異質な二者の対置と象徴操作」
多数論文の中で中村耕作「大形石棒と縄文土器 異質な二者の対置と象徴操作」に特に興味が引かれました。
石棒3Dモデルを作成した聖石遺跡が例の一つとして提示され、異形台付土器3Dモデルを作成した加曽利貝塚大型住居も検討のなかで登場しますので興味が深まります。
参考
ブログ花見川流域を歩く2020.05.04記事「石棒(茅野市聖石遺跡第4号住居址(SB04))外 観察記録3Dモデル
ブログ花見川流域を歩く2020.03.27記事「加曽利貝塚出土異形台付土器の観察と検討」他多数記事
しかしそれ以上に異質な二者の対置、異質な二者の中性化志向・象徴操作という観察方法(観察概念)に大いなる魅力を感じます。
土器学習で「夫婦土器」と自分が勝手に名付けた2つの土器がペアで出土する状況もこの論文で論じられています。
異質な二者の対置、異質な二者の中性化志向・象徴操作はつぎのチャートにまとめられています。

象徴操作の3表現
中村耕作「大形石棒と縄文土器 異質な二者の対置と象徴操作」から引用

この論文の概念の素となるターナー「儀礼の過程」(1975、思索社)などの象徴人類学にも触手を伸ばしてみたいと思います。

土器型式AとB
土器形式AとB
石棒と土器
石棒と石皿・磨石
石棒AとB

これら異質な二者が出土した情報に接した時、意味があるかもしれという視点をもてて、この論文に感謝します。
早速別記事で加曽利貝塚大型住居の再検討を新しい視点から行い、楽しみたいと思います。


2020年5月7日木曜日

貝塚の存在=定住生活の証拠

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習19

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「2 定型的な居住様式の確立と貝塚の形成」の「定住生活の開始」を学習します。

1 貝塚の存在=定住生活の証拠
「定住生活が進展すると、海岸部や汽水域など、貝類を捕食する地域では貝塚が形成されるようになっていた。貝塚とは、機能的には「ゴミ捨て場」だが、観念的な意味ではまた違ったようで、祭祀的な場所でもあったようだ。 貝塚が形成されるということは、生ゴミとしての貝殻が堆積するほどの期間はその場所に定住していたということに他ならない。無論、季節によって移動することもあっただろうが、その場合であっても離れては戻るといった回帰的な動きをしていないと貝層ができるほどには貝殻は堆積しない。したがって、貝塚の存在は定住生活を行っていた証拠となる。」
「このような貝塚は、すでに早期前葉の時期(遅くとも約1万1000年前)には出現しており(たとえば神奈川県夏島貝塚など)、この時期にはすでに本格的な定住生活が営まれていたとみてよいだろう。」
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

→貝塚の存在自体が年間のある一定期間は定住生活していた証拠であると述べています。
年間を通じて完全に遊動生活をしているのではなく、海岸付近に定住している期間があることを貝塚は示していると述べているのだと思います。
早期にあっては、海岸付近に定着して貝塚をつくる期間と別の場所に移動して別の生業(おそらく獣の狩猟)に励んでいたことがあると考えます。

→草創期に既に貝塚が作られていた可能性が濃厚であると考えます。しかし、草創期の海水面は-40mより低く、かつ当時の海岸線はその後の海面上昇期に侵食消失している場合がほとんどであるため、草創期貝塚を発見する可能性確率は大変小さいものであると考えます。

2 参考 縄文草創期貝塚が発見されない理由(想像)
千葉付近及び古鬼怒湾方面で縄文草創期貝塚が発見されない理由を次のように想像します。

千葉付近で縄文草創期、早期の貝塚が存在していたかもしれない台地が削平された様子

古鬼怒湾方面で縄文草創期、早期の貝塚が存在していたかもしれない台地が削平された様子

このように地史を紐解くと縄文早期前葉の貝塚(例 千葉県西の城貝塚や神奈川県夏島貝塚)の発見は極めて稀有な地形残存事象に伴う出来事として特筆すべき事柄として捉えられると考えます。
ブログ花見川流域を歩く2017.02.13記事「千葉県の貝塚学習 縄文時代早期前葉・中葉の貝塚が少ない理由」参照

2020年5月4日月曜日

早期の環境

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習18

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「2 定型的な居住様式の確立と貝塚の形成」の「早期の環境」を学習します。

1 早期の環境 概要
・すでに温暖化が進行しつつあった。
・約11600年前に気温が突然7度ほど上昇し、完新世に突入した。
・早期当初海水面は現在より約40m低かった。
・7000年前にかけて海水面が急上昇し、現在に近い高さとなった。…沈線文系土器、条痕文系土器群(約7500年前)
・前期前葉には現在より約2.5m~3m高い位置に海水面が上昇した。

・温暖化は多様な陸上動植物相の変化をひきおこした。
・沿岸部は海進による海水域の拡大によって、入り組んだ岩礁帯や小規模な砂泥性の入り江など多様な海岸線を出現させた。
・これらの新しく出現した森林産資源と海産資源の開発によって、縄文文化は大きく発展していくことになった。

・完新世にはいってからも寒冷化があり気候的に不安定な時期があった。

・早期の古い遺跡ほど海水面下あるいは地下に没している可能性がある。…愛知県先苅貝塚、佐賀県東名遺跡。
・瀬戸内では海進が50㎝ほど。

2 感想
2-1 海水面高度の把握
この図書には次のような海水面高度が記述されています。
最終氷期…100mほど低い…7万年前から1万年前
草創期当初…50m以上低い…16500年前
早期当初…約40m低い…11500年前
前期前葉…約2.5m~3m高い…7000年前

文言だけから判断すると、海面高度はつぎのように模式的にとらえることができます。
最終氷期の最寒冷期に-100m
最寒冷期から草創期当初(16500年前)まで約50m上昇して-50m
草創期当初(16500年前)から早期当初(11500年前)まで約10m上昇して-40m
早期当初(11500年前)から前期前葉(7000年前)までに約40m上昇して+2.5m~3m
(従って、前期前葉→中期→後期→晩期は+2.5m~3mの高さから0mに至る海面低下期と捉えることができます。)

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)記述海面高度の模式表現

この情報の裏付けとなるような原典資料を探してより正確に把握したいと思います。
草創期当初が現在より「50m以上低い」となっていて-50mと言っているわけではありません。そこいらの事情をくわしく知りたいと思います。

2-2 海水面高度に対応した陸域・海域分布様子の把握
海水高度が判明すれば、その時代の陸域・海域分布の大要を把握することができます。海域水深情報から単純に縄文各期の陸域・海域分布図を作成してみることにします。グローバルな地形情報を入手して列島規模でQGISを活用して取り組みます。

2-3 土地が狭くなることの環境影響
海進によりリアス式海岸が形成され多様な海岸環境が生まれ、縄文人による海産資源開発が進んだ様子を、温暖化の影響のなかで詳しく知りたいと思います。
同時に海進により陸域の面積が急減しています。この陸域面積急減が環境にどのような影響を与えたのか、縄文社会にどのような影響を与えたのか考察したいと思います。

素人単純に考えて、陸域面積が減れば、それだけ獣の数も減るのではないでしょうか?陸域面積が減っても縄文社会人口が減らなければ(逆に温暖化で堅果類をメジャーフードにして人口が増えれば)、獣の1人当たり収穫は少なくなります。獣の収穫減少を補うためには海産物資源化を加速する必要があります。→このような陸域急減の影響が他にも多々あると考えます。
陸域面積急減の影響についての専門的考察はいままで出会ったことがありません。
なお房総では、陸域面積拡大という逆現象が縄文後晩期の海退期にありました。土地が増え(干潟の陸化)それに伴い獣が増え、それに伴い狩猟が盛んになった様子は獣骨出土量の急増として確認できます。

2-4 陸域急減の環境影響検討の独立学習プロジェクト化
次の項目学習はこの図書学習と離れて、独立した学習プロジェクトとして取り組むことにします。(ブログ「花見川流域を歩く」における「縄文社会消長分析学習」で取り組みます。)
・海水面高度に関する専門情報の入手考察
・海面高度別陸域・海域分布図作成
・土地急減の環境影響考察

2020年5月3日日曜日

定住とはなにか

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習17

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「1 定住とはなにか」を学習します。

1 縄文人の居住形態 概要と感想
狩猟採集民における移動生活から通年的定住生活までの居住形態(佐々木高明)
ア フォレジャー型
移動生活
食糧資源が季節や場所によって極端に偏在しない場合
旧石器時代、草創期フェイズ1
イ コレクター型
ベースキャンプ、兵站部隊各地派遣、専用貯蔵施設
縄文時代の大部分
ウ 定住村落型
通年そこで生活
縄文後期以降、東日本中期事例の一部

→フォレジャー型、コレクター型、定住村落型という区分に対応する遺跡分布様式、遺構の様子、出土物の様子を模式的に知りたいと思います。
逆に遺跡分布様式、遺構の様子、出土物の様子からフォレジャー型、コレクター型、定住村落型という区分を推察できるようになりたいと思います。

2 多角的な生業形態 概要と感想
多用された食料…メジャーフード
イノシシやシカ、トチやドングリ類が多い
クリ、クルミなどの管理
動物管理(犬、イノシシの飼育)
コラーゲン分析により摂取食料に地域差

各地に出土人骨の同位体比から想定される食性
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
集落周囲の細かな環境の違いによる生業形態の差異と連動
そして生業形態の差異は、労働分業体制のあり方の違いなど、集落内における集団のあり方を通して、最終的には社会構造のあり方や精神文化のレベルにまで影響を及ぼしたことが近年の研究成果によってわかっている。
集落周辺の自然環境-生業形態-社会構造-精神文化

→生業形態の違いが社会構造・精神文化の違いに対応するのですから、生業形態の違いが遺跡分布様式、遺構の様子、出土物の様子等の違いとして認識できるということです。生業形態の違いと遺跡分布様式、遺構の様子、出土物の様子等の違いを模式的に知りたいです。
例えば、同時代の山中にある集落と海辺にある集落ではその違いをどのように模式化できるのか?

3 定住生活はなぜ始まったのか? 概要
気候が温暖化し環境が変化していく中で、多くの食料が発見・開発されたことが定住開始の大きな理由の一つだろう。
一時的に入手できる食料の保存や加熱処理や燻蒸などの加工場所の必要性なども定住の理由。

4 定住の進展、人口の増加(人口密度の上昇)と社会の複雑化 概要と感想
定住生活継続のためには移動生活のメリットを集団・集落の移動・分離・分散以外の方法で解決する必要がある。
廃棄場所を決めるなど集落内部空間の計画的利用
集落から遠くない範囲における十分な食料の確保
「集落の掟」「法律」
葬送や魔除け、呪術
諸問題に対応できる社会システム…「社会複雑化」

→「社会複雑化」の様子を縄文時代を通して模式的に把握したいと思います。

5 土器に見る地域性の出現
本格的定住生活による土器の地域差出現

縄文早期における各地の道具立て
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

→土器に見る地域性の出現の主要な要因は何か?生業の違い(食い物の違い)に起因する社会構造や精神文化の違いとみてよいか?