2018年5月30日水曜日

猪がやってきた

猪の文化史考古編 19

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第3章猪の飼育・飼養問題について 2猪がやってきた」の学習をします。

1 猪がやってきた
著者は縄文前期諸磯式の時代に猪が増加し、猪がムラにやってきて、その結果猪造形が生れたと考えています。
その状況の一つに森を開いて縄文ムラを作ることによってその周辺が猪が好む環境になり、必然的に猪と縄文人の接触が密になったとしています。
「先にみた縄文前期諸磯式の時代、そこでは土器に猪の顔が突出して作られた。中期の中頃には、蛇とともに土器を飾る主役の一つとして猪が幅をきかせた。さらに後期の初めには東北北部にて猪形土製品が作られるようになり、やがて東日本全体に広まっていく。これらの時期にみられる猪造形の緻密な表現や、その特徴が増幅されるような造形からは、縄文人の確かな観察力がうかがわれる。それは猪が身近な動物であったからに他ならない。やはり縄文集落にまで猪がやってきていたのである。縄文時代の中でも猪造形が発達した時期、それが現在と同じような猪増加の時期にあたっていたのではないだろうか。」
「ところで、猪の群れが縄文ムラにやってくる理由とはなんであろうか。その一つについて、猪装飾がはじめて作られた縄文前期後半を例にとり考えてみよう。この頃は関東地方や中部地方では大きな集落が形成されはじめた時期である。中央部に広場を持ち、それを取り囲むかのように家が巡る「環状集落」という形態のムラもみられる。同時に、住居数軒から成る小さなムラが山間部にも点在するようにもなる。これらのことは、森が切り開かれ人の居住する場所が広がり、猪が活動する範囲と重なってくることを意味する。住居を建てる材料の調達、日々の燃料、食料獲得のための森や平地の管理、このような暮らしの中でムラの周囲には生産地や空き地そして道なども含め、森との境をなす緩衝地帯が広がっていく。植物学の立場からすると、突然に高木が茂る森になるのではなくその周囲には灌木類やつる植物などが群生すると言われている。特に森林から続く低木群落の裾には「ソデ群落」あるいは「ふちどり群落」と呼ばれる各種の草本植物が生育するという(宮脇1971)。このような植物群の相互関係は、集落が形成された周辺環境にもあてはまるものと思われる。つまりムラと森との間には雑草やツル植物などが繁茂する明るい空間地が広がることになる。西田正規氏は定住集落の生態系として原生林と集落の問に「栽培空間」や「二次植生」地帯を想定した(西田1995)。実は、このような「ふちどり群落」や「二次植生」空間という緩衝地帯は猪にとって大変重要な場所となる。ここには猪の好物となるクズやワラビといった根に澱粉を蓄える植物や、野生の豆類などが繁茂するからである。歴史編の江戸時代の項で詳しくふれるが、東北八戸藩の『猪飢謹』をもたらした猪の異常なほどの繁殖も、大豆畑の休耕地に繁ったクズやワラビに原因があったという。縄文集落の周囲に広がる緩衝地帯、そこも猪が好む植物がはびこる雑草地帯ではなかったろうか。」
「縄文前期の例をあげてみたが、群れが集落にやってくるほどに猪が繁殖した時期、このような時にこそ、「半飼育」つまり「飼養」といった状況がもたらされたのではないだろうか。縄文時代における猪飼養の可能性。それは「猪増減サイクル」の中での条件が整った時にこそ実施されたのであり、縄文時代全体を通して常時行なわれていたというものではないだろう。飼養が行なわれていない時、それでも儀式に必要な猪は自然界から捕獲する必要がある。そのような飼養と狩猟とが同居するような生業形態、それが縄文時代における人と猪とのかかわりであったと考えている。」「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用

2 大膳野南貝塚で猪が好む環境について予察してみる
現在学習中の大膳野南貝塚の前期集落(諸磯b式土器の時代、諸磯式土器と浮島式土器が出土)と後期集落(堀之内1式期が最盛期)の集落周辺環境について予察してみました。
竪穴住居と土坑のそれぞれ5m圏は完全に人工区域であり、5m以上離れるとソデ群落やマント群落が出現する可能性があると想定してみました。

大膳野南貝塚 前期集落
集落の周辺に林が広がっていた可能性があります。
前期集落からは猪造形が沢山出土しています。
猪がこの集落にやってきた可能性を首肯できます。

大膳野南貝塚 後期集落
集落の規模が大きくなり台地をほぼ覆い尽くしてしまっています。
集落が拡大して台地面が人工面として広域に連坦してしまい、猪が集落までやってくる確率は前期よりも少なくなっていると考えられます。

「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の論に従えば、上記2枚の図面は前期集落からのみ猪造形が出土していることの説明に使うことができます。

参考
大膳野南貝塚前期集落出土イノシシ形獣面把手
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

2018年5月28日月曜日

猪の飼養

猪の文化史考古編 18

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第3章猪の飼育・飼養問題について 1飼養への道筋」の学習をします。

1 飼養への道筋
縄文時代における猪飼養について著者の結論は次の通りです。
ところで、やはり飼育や飼養を行なうのには動物を育てるための飼料、いいかえれば人の食料以外の余剰生産、すなわち生産力が条件となっている。この点からすると、道志村の「はな子」は野山と村とを自由に行き来するまさに半飼育の生活であり、生産力を補うのにはまことにふさわしいシステム内にいたことになる。
かつて私は「縄文時代後晩期における焼けた獣骨について」という論文の中で「(十月初旬のころ巣から出た)子連れのイノシシは、やはり縄文人にとっても目につき易いものであり、捕獲される率は当然高かったものと思われる」という表現を行なった(新津一九八五)。ここでは捕獲してから祭祀に用いられる間の飼養は当然考えたものの、出産以降の幼獣飼養という必要性は特に考えてはいなかった。しかし道志村での事例に接することにより、半飼育的な状況の可能性が考えられること、さきにふれた縄文時代における猪幼獣の犠牲獣としての可能性や人の幼児埋葬とのかかわりなどの事例検証を含め、猪幼獣の果たした役割を考えると、縄文時代における猪飼養はやはり有り得べきことかとも今は考えている。」「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
猪幼獣を捕獲あるいはムラでの出産の後、祭祀に使うまでの間飼養したことはあり得るという結論です。その前提に人が食べる食糧以上の余剰生産あり、それを猪幼獣にふりむけることができることをあげています。

2 大膳野南貝塚堀之内1式期の猪幼獣の飼育可能性について
上記の学習をしている中で、大膳野南貝塚発掘調査報告書のなかに猪飼養に関連する情報を発見したので興味を持ちました。
以下引用します。
イノシシの内容を見ると、後期になると生後6カ月未満の幼小獣とした段階の子供のイノシシが見られるようになる。また、後期(堀之内1式期)の資料の中に上顎第2後臼歯が丸くなり、そのエナメル質に縦の「しわ」が多い資料が1点見られた。筆者はこのような例をオホーツク文化のブタや弥生ブタで見たことがある。
これは栄養不良等の成育環境が悪いことを示しており、このイノシシが飼育されていた可能性を示すものである。発育異常は野性のイノシシでも起こることや、今回は1例しか認められていないことから、この例だけでイノシシの家畜化を主張できない。ここではその可能性を指摘するに止め、さらに多くの分析を行ったのちに家畜化について改めて論じたいと思う。
イノシシでは後期堀之内1式期のイノシシ上顎骨で発育不全の例が見られたことから、飼育されていた可能性を指摘した。この点については今後検討すべき課題である。」大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

大膳野南貝塚堀之内1式期における猪幼獣飼育可能性が専門家から指摘され、その理由がイノシシ幼獣の飼料不足からくる栄養不良であることに興味をおぼえます。そもそも縄文社会食糧生産力が虚弱であり、家畜の飼育・飼養には最初から限界があることを如実に示しています。

大膳野南貝塚から出土したイノシシ上顎骨、下顎骨
1~3は幼獣


2018年5月17日木曜日

猪への祈りのまとめ

猪の文化史考古編 17

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第2章猪の埋葬、そして祈り 5猪への祈りのまとめ」の学習をします。

1 猪への祈りのまとめ
著者は次のチャートをもってこれまでの諸検討を総とりまとめしています。

猪への祈りのまとめ 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
大変参考になるチャートです。自分のブログで既に何回も紹介させていただいた記憶があります。
このチャートを参考に西根遺跡の出土物から想像できる出来事をまとめてみました。

2 西根遺跡の出土物に関わる想像

西根遺跡の出土物に関わる想像
アイヌの熊祭のような獣送り儀式が秋の堅果物収穫祭に行われたのではないだろうかと出土物から想像しています。

資料 戸神川谷津の秘密 参照
パワポ 戸神川谷津の秘密 参照 

2018年5月15日火曜日

猪に込められた祈りと願い

猪の文化史考古編 16

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第2章猪の埋葬、そして祈り 4猪に込められた祈りと願い」の学習をします。

1 猪に込められた祈りと願い
著者が2001年12月に宮崎県西都市銀鏡の里を訪れ、猪を捧げる祭を見学した様子がかかれています。
縄文の遺跡から発見される猪の頭蓋骨の意味を考える手立てを得られるかもしれないという期待を持って見学した様子が詳しく記述されています。
国の重要無形文化財である銀鏡神楽の開催にあたって直前に獲れた猪の頭部が奉納されていて「オニエ」と呼ばれ、「贄(にえ)」であり、神にささげる供物です。

銀鏡神楽のオニエの猪 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
神楽では「ししとぎり」(猪の狩にかかわる見定め)が構成要素になっています。
神楽の翌日には猪の頭を焼き、参加者に猪の肉と酒がふるまわれます。
頭骨の一部は山麓に埋められ、著者はアイヌの人たちが行う熊祭にも似た物送りの思想が息づいていると述べています。
この現代社会に伝わっている猪祭祀例を思考上のテコとして活用して著者は縄文時代猪埋葬や埋納事例を詳しく検討して、次のように結論を述べています。
以上、縄文時代における猪について、成獣と幼獣の祭祀での役割を考えてきた。成獣は豊猟を願う儀式ー鎮魂、感謝を含めた物送りのような儀式に用いられた可能性を考えた。遺跡全体から発見される焼けた獣骨片もこれに含まれるのではないだろうか。そして幼獣については、より広い視野での豊穰や命のよみがえりを願うための犠牲獣として、その役割を演じたものとみなしたのである。」「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用

2 感想
縄文時代の習俗を彷彿とさせるような祭祀が現代に伝わっていることを見つけ出しその現場に足を運び、縄文時代祭祀に関する思考を深める著者の活動が大変魅力的で刺激的です。
思考面における既成枠にとらわれない積極性があれば、現代民俗も縄文時代遺構・遺跡に関する情報と重ね合わせる思考が可能となり、縄文時代遺構・遺跡の解釈が豊かになると考えます。

2018年5月7日月曜日

埋納された猪

猪の文化史考古編 15

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第2章猪の埋葬、そして祈り 3埋納された猪」の学習をします。

1 埋納された猪
●千葉県市川市向台貝塚
直径60~80cm、深さ50~60cmの土坑から首のない猪の幼獣2体が出土した。貯蔵穴が祭祀の場として利用されたもので、貝層を取り去った後の底から出土している。
頭部は別に用いられたことを意味する。
山梨県金生遺跡では幼い猪の下顎だけが115個体も発見されているが、これらは切り離された頭部の一部である。やはり、猪幼獣の頭部は何かに使われているのである。それは単に食べるための行為ではなく、頭部を捧げるあるいは敬うといった祈りにかかわる祭祀につながったものと考えたい。

●千葉県千葉市加曽利貝塚
第Ⅱ住居祉群22グリッドから上下の顎の骨を欠く猪個体が出土し、幼獣である。

●岩手県宮野貝塚
猪ばかりでなく鹿の頭蓋骨や下顎も含め並べられていた。

●千葉県船橋市取掛西貝塚
住居跡のくぼみに猪頭蓋骨12個やしか頭部2個体などが集中していた。中央部では猪頭蓋骨4個が意図的に並べられたような状況で動物儀礼が行われたと考えている。

2 考察
猪及び鹿などの頭部が儀式に使われ、頭部を欠いた体部が埋納された例が各所に見られることを知りました。
学習している大膳野南貝塚の後期集落では鹿頭骨列が出土していて何らかの祭祀に使われたものと想像しています。

参考 大膳野南貝塚後期集落 鹿頭骨列
大膳野南貝塚発掘調査報告書から作成

参考 鹿頭骨列復元空想図
ブログ花見川流域を歩く2018.01.22記事「鹿頭骨列の解釈」参照