2018年12月25日火曜日

縄文時代はじまり年代観変遷

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 13

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「おわりに-炭素14年代測定および古環境研究の進展と「縄文はいつから!?」-」を学習して、気が付いたことや感想をメモします。

1 縄文時代のはじまりの年代観と環境史的位置づけの変遷

縄文時代のはじまりの年代観と環境史的位置づけの変遷

2 メモ
・1960年代中頃に大学教育を受けた自分の年代観はつい最近までBでした。
・較正年代とかIntCal09の意味がわからないまま趣味活動を続けてきたのですが、最近ようやくその意味が判るようになりました。
・特に「目からウロコが落ちた」ように年代に関する状況が判ったのは最近のことで、それは中川毅著「人類と気候の10万年史」(ブルーバックス)を読んだ時です。
・素人とはいえ年代観に関して「時流に追いつけた」感が生れて、考古歴史学習活動に関する意欲が増します。
・「縄文はいつから!?」の記述が少しづつ理解できるようになりつつある自分の思考・感情を観察すると、はじめてC14年代測定法とか海面変動曲線を知った大学生の頃の自分を思い出すことが出来ます。

2018年12月24日月曜日

遺跡の立地

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 12

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「討論-縄文時代のはじまりをどうとらえるか-」の小項目「遺跡の立地」を学習して、気が付いたことや感想をメモします。

1 「遺跡の立地」の要旨
ア 会場質問「縄文草創期遺跡などは沖積地に埋没した場所もあるのではないか」…回答「旧石器時代遺跡や縄文草創期遺跡は沖積地の地中深いところなどに生活の痕跡があることは間違いないと考えるが、推測の手がかりはない。」

イ 縄文草創期隆線文土器の時期は平坦面の少ない丘陵地に遺跡が集中する。その場所は縄文早期罠猟(陥し穴、有舌尖頭器…仕掛弓)の場所と一致する。旧石器時代遺跡は平坦面を持つ相模野台地に多く、そこに縄文草創期隆線文土器の遺跡は少ない。
つまり縄文草創期隆線文土器遺跡と旧石器時代遺跡は異なる形で地形に対する選択性が強い。
縄文早期以降は多様な環境を幅広く利用するので地形選択性は弱くなる。
(関連遺跡分布地図を2018.10.31記事「関東南西部の縄文時代草創期の様相」に掲載)

2 考察
ア 沖積地埋没旧石器時代遺跡に関する考察はブログ花見川流域を歩く2017.01.17記事「興味を挑発する沖積地旧石器時代遺跡」などで繰り返し行ったことがあります。

イ 武蔵野台地・多摩丘陵・下末吉台地・相模野台地では旧石器時代遺跡、縄文草創期隆線文土器時代で地形に対して異なる選択性が強く働いています。
同様の遺跡分布地図を房総で作成すると旧石器時代遺跡と縄文草創期遺跡や早期罠猟(陥し穴、有舌尖頭器)の場所の地形選択性違いは武蔵野台地・多摩丘陵・下末吉台地・相模野台地と違った様相を呈しているように観察できます。

縄文時代草創期遺跡

縄文時代草創期遺跡と旧石器時代遺跡
草創期遺跡と旧石器時代遺跡の地形選択性が異なるとはこの地図からは観察できません。

縄文時代草創期遺跡と陥し穴
縄文時代草創期遺跡は陥し穴が密集する地形付近にあることは確認できます。

縄文時代草創期遺跡と有舌尖頭器出土遺跡
縄文時代草創期遺跡分布はなにか有舌尖頭器出土遺跡分布と似ているように観察できます。有舌尖頭器が仕掛弓罠猟を意味していて、それが谷密度の高い場所(地形が複雑に開析されている場所)に存在しているのだと気が付くと武蔵野台地・多摩丘陵・下末吉台地・相模野台地における研究結果と整合性が生れます。房総では一つの地形区(下総台地)に蔵野台地・多摩丘陵・下末吉台地・相模野台地にみられる多様な狩猟地形環境が全て備わっている可能性が考えられます。

縄文草創期遺跡と早期遺跡
縄文早期になると多様な地形環境を利用している様子がわかります。







2018年12月19日水曜日

土器発明の理由を因果律ではなく作用律から考える

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 11

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「討論-縄文時代のはじまりをどうとらえるか-」の小項目「土器はどのように使われたか」を学習して、気が付いたことや感想をメモします。

1 土器発明動機に目的はなかった
・これまでの土器出現の説明「ドングリアク抜きとの関連」は最古土器発明段階(15000年前の氷期)でドングリがない環境であったことから否定される。
・ドングリアク抜きなどの特殊化された目的のために土器が出現したのではない。(ただし、後の温暖化した時代には土器利用はドングリアク抜きに大きく関連した。)
・土器が目的や用途として使われた事実と、それ以前に土器をつくろうと思った動機付けはイコールではない。1対1ではない。
・土器そのものが生み出される可能性として、粘土が可塑性に富んでいて、造形が容易だという、この性質に人間が気づいたことがひとつの大きな要素だと考える。
・土器そのものの必要性、用途や目的という因果律を検討することは重要だが、同時に作用律として、ヒトが粘土を自由に造形できる、そういうことが大きく関わっているのではないか。

粘土から土器へ
「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

土器制作と粘土細工
「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

2 感想
・最古の土器が15000年前でドングリが存在しない環境で生まれたことから、これまでの土器発明動機(ドングリアク抜き)は否定されます。
・因果律で説明するのではなく「作用律」で土器発明とその後の利用を考えるべきであるという考えがこの本で述べられています。随分と哲学的な思考をしていると感心します。しかし、苦肉の策であるような印象を受けます。
・15000年前になぜ「作用律」が発動して土器が発明されたのか、その時期がなぜ20000年前ではないのか、25000年前ではないのか説明が欲しくなります。
・土器発明動機としての「ドングリアク抜き」は否定されたのですが、15000年前頃の社会発展段階で液体保存機能や煮沸煮炊き機能に対するニーズが高まり、ついに土器が発明されたという因果律説明がどうしても欲しくなります。


2018年11月14日水曜日

最古の土器

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 10

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「討論-縄文時代のはじまりをどうとらえるか-」の小項目「最古の土器」を学習して、気が付いたことや要点の抜き書きなど、メモを作成します。

1 最古の土器
前記事(2018.11.08記事「縄文時代と旧石器時代の区分」)の感想で「・掲載図(土器のはじまり)では中国河南地域の年代は18000年となっています。一方文章中ではこの数値には着目がありません。何か理由があってそうなっていると思います。」と書きました。
この疑問に直接答える記述がこの項目に書いてありました。
要点は次の通りです。
ア 中国の玉蟾岩(ぎょくせんがん)洞窟遺跡で18000年前土器が見つかったという報道(2009年)について
・土器付着物ではなく、土器出土層準の動物骨や炭化物を測定している。古くて18000年前、新しくて15000年前の可能性がある。

玉蟾岩洞窟から出土した土器に関連する層序の年代

イ 日本で一番古い土器の年代測定は1998年でおおよそ16000年前から15000年前の間にこの土器が使われた。

参考 大平山元Ⅰ遺跡の土器付着物の年代測定結果

ウ 玉蟾岩洞窟遺跡の年代が一番古い場合は日本列島最古の土器よりも古い年代になり、土器出現の契機として重要になる。

エ 年代が新しいものが正しい場合、日本列島最古の土器と近い年代になり、東アジアの土器出現の契機を考える場合重要になる。今後いろいろ検討したい。

オ 玉蟾岩洞窟遺跡ではイネのプラントオパールが出ていて、土器発生の契機として、イネ科植物、野性イネの利用が注目される。

カ 土器が18000年前の寒冷気候のなかで発生したとなると、イネ科種子が多かったとは考えられないが、イネ科植物種子の利用が土器発生の一つの契機となると考える。

2 感想
中国の土器出現が18000年前にさかのぼるという情報は学術界で十分に咀嚼されていないようです。日本の学者は半信半疑で眺めているようです。
中国の土器出現が18000年前とすると文化の流れは中国→日本ということも考えられます。一方15000年前だと考えると、東アジアで同時発生したと考えることもできます。ナショナリズム的感情も絡む思考になります。
土器出現とは、植物を動物の肉・骨と一緒に煮て美味しく食べるの道具発明であり、その発明が氷河期に行われたと考えておくことにします。

2018年11月8日木曜日

縄文時代と旧石器時代の区分

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 9

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「討論-縄文時代のはじまりをどうとらえるか-」の小項目「縄文時代と旧石器時代の区分」を学習して、気が付いたことや要点の抜き書きなど、メモを作成します。

1 縄文時代のはじまりの時代区分について
・縄文時代のはじまりとは縄文文化のはじまりである。
・縄文文化をとらえる要素として土器、弓矢、定住的生活・住居跡、磨石・石皿、土偶、貝塚などがある。
・土器→弓矢→定住化→土偶という順番で変化がおこり、土器の出現によっていろいろな変化が起きた。
・もっとも大事なのは土器である。
・世界の土器のはじまりは日本、中国河南地域、アムール川流域で15000年前にさかのぼる

土器の始まり 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

・縄文時代区分には3つの考えがある。
1 縄文土器出現をもって縄文時代のはじまりとする考え。
2 縄文土器出現から縄文文化要素が出そろうまでの期間を移行期とする考え。
3 縄文土器が一般化する時期をもって縄文時代のはじまりとする考え。

縄文時代のはじまりをめぐる時代区分の比較 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用 

2 感想
・何故、土器→弓矢→定住化→土偶という順番で変化が起きたのか、その理由について直観的にわかりません。なぜ土器なのか、さらに学習(思考)したいと思います。
・何故、日本列島の土器が(あるいは東アジアの土器が)世界的にみて最古なのか、その理由が直観的に判りません。さらに学習(思考)したいと思います。
・掲載図(土器のはじまり)では中国河南地域の年代は18000年となっています。一方文章中ではこの数値には着目がありません。何か理由があってそうなっていると思います。
・縄文のはじまりの時代区分は、どの区分方法が一番研究促進に役立つか、あるいは一般社会に理解してもらえるかということで決まるのだと思います。いずれの区分を採用するにしてもさらに細区分をして研究成果を投影することになると考えますので、1の区分が単純で一般人にも理解できるという点で最も優れていると直観します。

2018年10月31日水曜日

関東南西部の縄文時代草創期の様相

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 8

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「関東南西部の縄文時代草創期の様相 安藤広道」を学習して、気が付いたことや要点の抜き書きなど、メモを作成します。

1 旧石器時代~縄文時代早期の遺跡分布
この論文に記述されている旧石器時代~縄文時代早期遺跡分布の記述・考察を以下に要約します。
1-1 旧石器時代~縄文時代草創期初頭
旧石器時代の遺跡分布 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
広い平坦面が残っている相模野台地の細い谷に面した台地に遺跡が集中し、地形が複雑な下末吉台地や平坦面のない多摩丘陵では遺跡は少なくなっている。

縄文時代草創期初頭の遺跡分布 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

土器が出現した頃(較正年代で16000年前~15000年前)の遺跡も旧石器時代と同じく相模野台地にまとまっている。石器の構成は槍が中心となっている(図96上段)。槍を使った狩猟が相模野台地の地形的特徴に適していた。生活は旧石器時代から大きく変化していなかった。

図96 縄文時代草創期~早期前葉の石器組成 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用


1-2 縄文時代草創期(隆線文期)

縄文時代草創期(隆線文期)の遺跡分布 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

急激な気候変動が生じた隆線文期(較正年代15000年前~13000年前)になると多摩丘陵に遺跡が集中する。石器は狩猟具が中心である点は前の時期と同じであるが、槍の数は減少し有舌尖頭器、石鏃が出現し定着する。有舌尖頭器は多摩丘陵に集中し、それを使った狩猟活動が丘陵地形に適したものであった。

1-3 縄文時代早期前葉の遺跡分布

縄文時代早期前葉の遺跡分布 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

縄文時代草創期後半、いわゆる爪型文土器や押圧縄文土器の時期になると遺跡の数はすくなくなる。その後縄文時代早期前葉(較正年代約10000年前)になると遺跡が急増し竪穴住居祉が増え土器出土量も増加する。定住傾向がさらに強くなったことを示している。
この時期は下末吉台地から多摩丘陵に遺跡がまとまり、特に下末吉台地に遺跡が集中し、石器構成に打製石斧、敲石、磨石、石皿などの植物質食料と関係する器種が増加する(図96下段)。この時期に三浦半島で貝塚が形成されていることから、海、川、陸に生息する多様な植物、動物を食料源とする、以後の縄文文化の特徴的な、多角的な生業へと変化していることがわかる。多様な自然資源の利用には地形の複雑な下末吉台地が適していたと考えられる。

1-4 有舌尖頭器の用途
縄文時代草創期(隆線文期)遺跡と有舌尖頭器出土が多摩丘陵に集中しているが、その分布と縄文時代早期後葉(較正年代で約8000年前)の陥し穴の分布が一致する。

縄文時代早期後葉の遺跡分布 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

陥し穴の分布と一致する有舌尖頭器による狩猟は消極的な自動罠猟である可能性が高く、仕掛弓である仮説を持つことができる。有舌尖頭器が複数近くから出土したり、有舌尖頭器の大きさが石鏃より大きいことがこの想定に合う。

2 感想
地形の特徴と遺跡分布の特徴を対応させた考察は大変参考になります。早速この論文を使って千葉県遺跡を同様に説明できるかどうか学習してみたいと思います。この論文は自分の学習を促進させるものになると思います。また、GIS連動千葉県遺跡DBが学習に使えるようになりつつあるので、この論文学習はDB利用促進とも重なり時機を得たものになったと思います。



2018年10月27日土曜日

東北地方の縄文時代草創期の様相

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 7

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「東北地方の縄文時代草創期の様相 酒井宗孝」を学習して、気が付いたことや要点の抜き書きなど、メモを作成します。

1 草創期前半の東北地方

大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡と出土した土器や石器 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
土器片付着炭化物から得られた年代は16000~15000年前で日本列島における土器出現期の遺跡と言える。旧石器そのものの石器にともなって無文土器が出土している。

表館(おもだて)(1)遺跡出土隆線文土器 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
ほぼ完全な形で出土した隆線文土器。土器全体の器形がわかるとてもいい資料。

日向(ひなた)洞窟遺跡と出土した隆線文土器 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
縄文時代に「草創期」が加わる契機となった遺跡。

2 草創期後半の東北地方

櫛引(くしびき)遺跡の竪穴住居と出土した多縄文土器 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
竪穴住居は深いところで1mあり、ある程度しっかり定住していた証拠になる。多縄文土器におしゃれな飾り口縁がついている。

上台(うわだい)Ⅰ遺跡の1号住居跡と出土土器 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
炉の跡は確認できない。柱穴も確認できないので垂木で屋根を支えていたようだ。礫が床面にたくさんあり、石皿や磨石に使われた可能性があり、植物食の利用を考えることができる。住居建て替えがおこなわれているので、ムラをつくって定住がおこなわれていたと確認できる。
土器に付着するおこげから11000年前の年代が得られた。

上台Ⅰ遺跡出土の石器 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
スクレイパーはいわゆる石刃をつかっていて、この時代になってもまだ旧石器時代の名残がみられる。

東北地方の主な縄文草創期の遺跡 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

2018年9月25日火曜日

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習スタート

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 1

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習を始めます。目次の順に章ごとに学習します。この記事では「プロローグ ニューギニア人ヤリの問いかけるもの」を学習します。

1 プロローグ ニューギニア人ヤリの問いかけるもの
ニューギニア人ヤリの次の問いかけに答えるための考察がこの図書の内容であると最初に書かれています。

「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」。

つまり、この図書の主題を一言でまとめると「現代世界の不均衡を生み出しているもの」ということになります。

次いで、次のような論旨でこの主題を詳しく説明しています。
……………………………………………………………………
・現代世界の不均衡を生みだした直接の要因は、西暦1500年時点における技術や政治構造の各大陸間の格差である。鋼鉄製の武器を持った帝国は、石器や木器で戦う部族を侵略し、征服して、滅ぼすことができたからである。では、なぜ世界は、西暦1500年の時点でそのようになっていたのだろうか。

・紀元前11000年、最終氷河期が終わった時点では、世界の各大陸に分散していた人類はみな狩猟採集生活を送っていた。
・技術や政治構造は、紀元前11000年から西暦1500年のあいだに、それぞれの大陸ごとに異なる経路をたどって発展した。まさにその結果が、西暦1500年の時点における技術や政治構造の不均衡をもたらしたのである。

・紀元前11000年から西暦1500年のあいだに、ユーラシア大陸、南北アメリカ大陸の大部分の地域、アフリカ大陸のサハラ以南の地域では、農業が起こり、徐々に発達していった。家畜が飼育され、冶金技術が開発され、複雑な政治構造が発達した。しかしその間、オーストラリア大陸のアボリジニやアメリカ先住民の多くは狩猟採集民のままでありつづけた。ユーラシア大陸では複数の地域で文字が誕生している。アメリカ大陸でも文字が誕生した地域が一つだけあったが、技術が新たに誕生し発達したのは、つねにユーラシア大陸がもっとも早かった。
・たとえば、南米アンデスで西暦1500年の数世紀前にはじまった青銅器の大量生産は、それより4000年も前にユーラシア大陸の一部ですでにおこなわれていた。1642年にヨーロッパ人が初めてタスマニア島を探検したとき、島民たちは、数万年も前の旧石器時代後期のヨーロッパで使われていた石器よりはるかに単純な石器を使っていた。

・したがって、現代世界における社会間の不均衡についての疑問は、最終的につぎのように問い直すことができる──なぜ、人類社会の歴史は、それぞれの大陸によってかくも異なる経路をたどって発展したのだろうか? 人類社会の歴史の各大陸ごとの異なる展開こそ、人類史を大きく特徴づけるものであり、本書のテーマはそれを解することにある。
……………………………………………………………………

目次の説明もプロローグに詳しく書かれています。その要点は次の通りです。
……………………………………………………………………
第1部
第1章は、約700万年前に猿から分岐してから、約13000年前の氷河期の終わりに至るまでの人類の進化の歴史を駆け足で紹介する。
第2章は、過去13000年のあいだに、それぞれの大陸の環境の差異が、人類社会の歴史にどのような影響をおよぼしたかを考察する。
第3章は、フランシスコ・ピサロ率いる少数のスペイン軍が、インカ皇帝アタワルパの大軍にペルーのカハマルカ盆地で遭遇した瞬間を、その目撃者の証言を通じて紹介しながら、異なる大陸の民族の衝突について考察する。

第2部
第4章では、食料の狩猟採集をやめて、農耕や家畜の飼育を通じて食料を生産するようになったことが、いかにしてピサロの勝利につながったかについて簡単に述べる。
第5章では地域によっては、食料生産を独自に発達させているし、先史時代に食料生産の中心地から農耕や家畜の技術を取り入れた地域もあるし、食料生産を独自に発達させることもなく、他の地域から技術を取り入れることもせず、近代になるまで狩猟採集民として暮らしていた人びともいたことを考察する。
第6章では、人びとが狩猟採集民の生活様式をやめて食料生産へ移行した要因について、地域ごとに考察する。
第7章、第8章、第9章では、人びとが先史時代に、野生の動植物をどのように栽培化し、家畜化したかについて考察する。
第10章では、ユーラシア大陸が東西方向に伸びた陸塊であるのに対し、南北アメリカ大陸とアフリカ大陸は南北方向に伸びた陸塊であったことによる栽培化・家畜化の伝播の速度について考察する。

第3部
第11章では、人口の稠密な集団に特有な感染症の病原菌がどのように進化したかを考察する。
第12章では、文字は、過去数千年に登場した人類の発明のなかで、おそらくもっとも重要な発明であることを考察する。
第13章では、技術の伝播について考察する。
第14章では、余剰食料の蓄積は、書記や発明家を養うゆとりを社会に生みだしただけでなく、政治家を養うゆとりも生みだしたことを考察する。
第15章では、オーストラリア大陸および、かつてはこの大陸と地続きであったニューギニアについて述べる。
第16章と第17章では、オーストラリア大陸とニューギニアから視野を広げ、アジア本土と太平洋域で起こった歴史の展開について見ていく。
第18章では、第3章で述べたヨーロッパ人とアメリカ先住民との衝突について再度検討する。
第19章では、サハラ砂漠以南のアフリカ大陸の歴史について考察する。

エピローグでは、まだ解き明かされていない謎のいくつかをとりあげている。
……………………………………………………………………

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」(草思社、上下)

2 感想
ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」の学習を先行して行っていますが、「文明崩壊」の全ての事例が農業社会でした。「銃・病原菌・鉄」では狩猟採集民の社会も数多く扱われるので縄文時代学習に役立ちそうです。


2018年9月21日金曜日

地形の変遷からみた遺跡立地

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 6

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「地形の変遷からみた遺跡立地 橋本真紀夫」を学習して、気が付いたことや要点の抜き書きなど、メモを作成します。

1 縄文時代草創期ころの東京湾の地形


東京湾の地質断面図 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
7号地層は最寒冷期から縄文のはじまりころの間の堆積物で、段丘礫層やローム層の堆積地形は旧石器時代の陸域であると考えられる。

縄文時代草創期ころの地形 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)
縄文時代草創期はじめころ(15000年くらい前)の海水準は約-80mで、東京湾には狭い「古東京湾」とそれに流入する川があり、縄文人がすめる環境があった。縄文時代草創期終わりころのなると亜氷期とよばれる寒冷な時期があり低海水準はまだ維持され-80m~-50mであり、上流からの堆積物で陸域が広がったと考えられる。

2 縄文時代草創期頃の谷津地形

縄文時代の地形
15000年前くらいの降灰年代をもつUG火山灰を指標にする方法により、杉並区方南付近の遺跡調査で縄文時代草創期頃の地表面を復元すると現在地形に埋没した当時の地表面と急斜面が観察できる。

3 感想
発掘現場における火山灰を指標とする精細な露頭観察と周辺ボーリングデータから縄文時代地形面の復元方法が述べられていてとても参考になります。
旧石器時代あるいは縄文時代草創期頃の埋没地形面復元には強い興味を持っていますのでいつか詳しく検討してみたいと考えています。
参考 旧石器時代地形面のイメージ的復元に関する記事
ブログ花見川流域を歩く2014.08.23記事「旧石器時代の谷津形状の検討
ブログ花見川流域を歩く2014.09.04記事「旧石器遺跡分布から推定する狩方法

2018年9月18日火曜日

植物相からみた縄文時代のはじまり

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 5

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「植物相からみた縄文時代のはじまり 鈴木三男」を学習して、気が付いたことや要点の抜き書きなど、メモを作成します。

1 針葉樹林から広葉樹林へ

1万6000~1万年前の間の水月湖の花粉分析結果 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
15000年前の温暖化する時期、再び寒冷化する12300年前、本格的温暖化が始まる11300年前の線が書き入れてある。
15000年前と後でカバノキ属、ツガ属、マツ属が減り、トウヒ属、モミ属等はほとんどなくなる。一方ネズミサシ属、ヒノキ科-スギ科、トチノキ属、コナラ属、クルミ属、クマシデ属、ブナなどは顕著に増える。この線を境に亜寒帯性の針葉樹やカバノキ属に入れ替わって温帯性のナラ、ブナ、クルミなどの落葉広葉樹が優先する林になった。森林の入れ替わりがみられた。

2 十和田火山の埋没林
十和田火山の噴出物の中にある直立樹幹や材片で放射性炭素年代測定を行うと12350±140yBP~13910±200yBPと幅のある値が得られ、これをIntCal09で較正年代に直すと、約17000~14000年前という値になる。これは大平山元Ⅰ遺跡での最初の土器が現れたころの年代にほぼ相当し、寒冷な時期から温暖な時期に変わるころに相当する。
埋没林の木材を顕微鏡で調べると、主にカラマツ属、トウヒ属、モミ属の3つの属で構成されていることがわかった。

埋没林の顕微鏡観察 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

埋没林の樹種組成 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

今から17000~14000年前ころの北東北にはカラマツ属、トウヒ属、モミ属からなる亜寒帯性の針葉樹林が大きく拡がっていて、それが十和田火山の噴火により一気に死滅したことがわかりました。それはちょうど青森県津軽半島の大平山元Ⅰ遺跡で初めて土器がつくられたころとそう違わない時期といえます。
つまり、土器を発明した人たちは寒冷な気候のもと、亜寒帯性の針葉樹林が拡がる地で生活していたことになります。

大平山元Ⅰ遺跡の復元図  「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用・着色

3 感想
火山噴出物で死滅した樹木を調べることによって約17000~14000年前の植生が亜寒帯性の針葉樹林であり、丁度その時期に土器がはじめて使われだしたことがよくわかりました。大平山元Ⅰ遺跡の復元図の意味もより一層よく理解できるようになりました。

2018年9月14日金曜日

縄文時代のはじまりのころの気候変化と文化変化

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 4

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「縄文時代のはじまりのころの気候変化と文化変化 工藤雄一郎」を学習して、気が付いたことや要点の抜き書きなど、メモを作成します。

1 10万年に一度の気候変化
15000年前におこった気候変化というものは、10万年に一度の大きな気候変化でした。おそらくこれが人類活動に与えた影響というものは非常に大きかっただろうと考えられます。
この論文では縄文時代のはじまりに対応する15000年前頃から始まった気候変化が10万年に1回の大きな気候変化であることが詳しく述べられています。

過去15万年間の氷河・氷床の消長と縄文時代のはじまりの位置 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

同時に過去の気候変動に対応した海水準について最新情報が掲載されているので、今後の学習に直接役立てることができます。50年前に大学で得た知識を真に更新できました。

約25000~5000年前までの氷床の量と海水準の変動 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

海水準が120m・80m低かったときの日本列島の様子 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

この地図では細かい部分のイメージが湧きませんから、最新海底地形情報を入手して千葉県付近の-120m、-80m等深線図を正確につくりたいと思います。NASAのデータ入手にもチャレンジすることにします。

また人類の地球拡散のデータも最新情報として自分の頭にインプットします。

ホモサピエンスの拡散 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

2 縄文文化の出現
この地球規模での気候変化・環境変化がおこっている時期に、土器や弓矢、竪穴住居、石皿・磨石といった、いわゆる縄文文化を特徴づける要素がつぎつぎと、少しずつ時期を違えながら出現していました。

過去5万年間の出来事の年表 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

当面は旧石器時代や縄文時代初めころの学習にこの年表を常時利用したいと考えています。この論文を読んでひとまず「どの情報(本)を信用してよいのかわからない」状況を終了させることができました。

3 土器の出現
土器の出現は、従来一般的に説明されていたような、最終氷期から後氷期への気候変化、たとえば温暖化ということと因果関係で直接的に説明することはできないということもわかりました。ただ、その後の隆起線文土器の段階になってきて、土器が広がっていく過程と温暖化ということとはなんらかの関係があるかもしれませんが、現在ではまだ正確なことはわかっていません。

土器の出現の一般的な理解と年代観の変化 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

土器の出現がこれまで言われてきたような環境変化と植生変化の結果ではなく、異なる要因であることがわかり、それがなんであるか現時点では不明であることが判りました。「堅果類のアク抜きのために、魚油をとるために、貝を美味しく食べるために土器が発明された」という説明は過去の学説になったということです。

4 感想
何が最新情報であるのか分かったという点でこの論文は自分にとってとても大切なものとなりました。



2018年9月11日火曜日

定住化のはじまり

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 3

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「定住化のはじまり 小林謙一」を学習して、気が付いたことや要点の抜き書きなど、メモを作成します。

1 台地の住居
旧石器時代のテント状の住居跡が少数ですが見つかっています。

旧石器時代のテント状住居跡の例 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
その後縄文時代草創期になるとだんだん竪穴がみえるようになり、あたらしくなるほど竪穴は深くはっきりした掘り込みをもつようになります。

縄文時代草創期住居跡の変遷 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
草創期の住居跡の復元例として、ピットがあって、真ん中に向けて斜めに掘り込まれるような形で円周状に回っているので、真ん中に向けて柱を埋め立て、上屋を立てていた考えられています。

復元模型 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

2 住居の年代
日本列島で一番古い土器は16000年前に届くか届かないという段階で、住居跡はそのあとの隆線文土器の時代になかり出てきます。同時に弓矢や土偶なども14000年前ごろの温暖期とした段階には出てくるのではないかと考えています。
14500年前ぐらいには、住居跡はかなり定式化します。14500年前というのは土器が日本列島各地に広がる段階です。

縄文時代草創期頃の較正曲線(IntCal04)と文化要素の出現時期 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

土器の広がり 14500年前~11500年前 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

3 感想
竪穴住居のはじまりについてこれほど詳しく調べられていることを始めて知り、驚きました。また30ページほどのペーパーの中に膨大な情報が含まれていることにも圧倒されます。多くの知識を吸収することができました。このペーパーだけでも時間をかけて学習しブログ記事10編くらいを書きたくなるほどの魅力があります。
参考までに「土器の広がり」図に掲載されている千葉県遺跡をみると次のようになります。

千葉県の遺跡
これらの遺跡は全て「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)に掲載されています。因みにそのすべてを読んでみました。残念ながら住居に関する記述はありませんでしたが隆線文土器や石器に関する記述は参考になりました。

微隆起線文土器と尖頭器(東金市 大谷台遺跡) 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

微隆起線文土器(東金市 大谷台遺跡) 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

2018年9月5日水曜日

土器のはじまり

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 2

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「土器のはじまり 宮尾亨」を学習して気が付いたことや要点の抜き書きなどのメモ作成をします。

1 土器は何に使われたか
この図書を読んで、土器付着おこげから何を煮たのかわかるこをとはじめて知りました。
食物種類別おこげを土器で作り出すと、その種類別おこげの窒素と炭素の安定同位体の違いを調べることが実験的に分ったそうです。その原理を発掘した土器おこげ分析に応用して、縄文土器で何が煮られていたかしらべたところ結果がでたとの記述に驚きました。

食料資源の炭素・窒素安定同位体比 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
この資料に基づいて、草創期縄文土器である隆起線文土器のおこげを調べると次のように堅果類を煮ていたことが判明しました。

草創期縄文土器の炭化付着物の炭素・窒素安定同位体比とC/N比 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
この結果から縄文土器がつくられた背景には堅果類の利用がきっかけになったのではないかと考えられると述べられています。縄文土器が世界的にみてもいち早く、まだ寒冷時期につくられた理由にせまる情報です。

2 土器出現のさまざまな理由

世界各地の土器出現年代 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
世界の土器は農業とともに生まれたものが多いのですが、アメリカ東海岸では5000年くらい前に突然つくられだし数百年間に限って使われたそうです。その用途は、水をいれて焼いた石をその水のなかに投下し、貝類を煮たのではないかと推定されているそうです。このように土器出現の理由は世界各地でそれぞれ異なるようです。

3 感想
縄文土器使い道の原点をこの図書で知ることができました。