2019年1月24日木曜日

スペイン人とインカ帝国の激突

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 4

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習記事第4回目です。この記事では「第3章 スペイン人とインカ帝国の激突」を学習します。

1 ピサロと皇帝アタワルパ
・ピサロが168人の部隊を率いてインカ帝国に入り、8万の兵を引き連れて行軍していたインカ皇帝アタワルパをカハマルカで捕まえる歴史の瞬間を記録により詳しく記述しています。きわめて興味深い記述ですが、この記事では略します。
・ピサロが勝利できた理由を次の疑問に答えるかたちで詳しく分析しています。
「ピサロがアタワルパを捕らえることができたのはなぜか」
「将軍ピサロとの出会いに先立ち、アタワルパはなぜカハマルカにやってきたか」
「なぜアタワルパは、見えすいた罠だとわかるような場所に入ってきたか」
この解答にあたる詳しい記述も、極めて興味深いのですがこの記事では略します。
・最後に結論を次のように述べています。
「結論をまとめると、ピサロが皇帝アタワルパを捕虜にできた要因こそ、まさにヨーロッパ人が新世界を植民地化できた直接の要因である。アメリカ先住民がヨーロッパを植民地化したのではなく、ヨーロッパ人が新世界を植民地化したことの直接の要因がまさにそこにあったのである。ピサロを成功に導いた直接の要因は、銃器・鉄製の武器、そして騎馬などにもとづく軍事技術、ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫、ヨーロッパの航海技術、ヨーロッパ国家の集権的な政治機構、そして文字を持っていたことである。」
・この結論につづけて次のように述べて、いよいよ本書の核心部分に入ることを宣言しています。
「ヨーロッパ人が他の大陸の人びとを征服できた直接の要因を考察したが、それらの要因が新世界ではなく、なぜヨーロッパで生まれたのかという根本的な疑問は依然として謎のままである。」

カハマルカにおけるインカ皇帝アタワルパの捕獲
英語版ウィキペディア「カハマルカの戦い」から引用

カハマルカにおけるインカ皇帝アタワルパの捕獲
英語版ウィキペディア「カハマルカの戦い」から引用

2 メモ
・銃器・鉄製の武器、そして騎馬などにもとづく軍事技術、ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫、ヨーロッパの航海技術、ヨーロッパ国家の集権的な政治機構、そして文字を持っていたことが総勢168人のピサロ軍が総勢8万人のインカ軍に勝った理由であり、その後も戦いでもピサロ軍が勝利しつづけた理由です。
・この理由の内、文字を持っていたことが極めて大きな、そして表面的には見えないピサロ軍勝利の理由であり、自分にとって感動的な学習となりました。
・文字を持っていたスペイン人征服者はその時代までの世界の歴史や人行動のパターンなど幅広い知識として知っていたのですが、文字を持たないインカ帝国は歴史の教訓とか人行動のパターンなどの知識が貧弱で、それに起因してアタワルパがやすやすとピサロに騙されたとの指摘はとても重要な指摘であると考えます。
・蝦夷あるいはアイヌが和人に歴史上繰り返し繰り返し騙し討ちにあい敗北していますが、その理由の一つとして文字を持っているか、いないかをあげることができると考えます。文字を持たない集団は歴史の教訓とか人の行動類型とかの知識が薄弱であり、文字を持つ集団にコロリとだまされて滅ぼされてしまいます。

2019年1月22日火曜日

平和の民と戦う民の分かれ道

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 3

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習記事第3回目です。この記事では「第2章 平和の民と戦う民の分かれ道」を学習します。

1 マオリ族とモリオリ族の衝突から浮かび上がる環境が人類社会に及ぼす影響
1835年、ニュージーランドの東800㎞にあるチャタム諸島に武装したマオリ族900人が舟で現れ、モリオリ族を殆ど全て殺して島を征服した。モリオリ族は襲来マオリ族の2倍の人口があった。
「モリオリ族とマオリ族の衝突がこのような残忍な結果になることは容易に予想できたことである。モリオリ族は小さな孤立した狩猟採集民のグループであり、たいした技術も持っていなかった。武器も、もっとも簡単なものしか持っておらず、戦いにも不慣れであった。強力な指導力を持つ者もいなかったし、組織的にも統率されていなかった。一方、ニュージーランド北島から侵入してきたマオリ族は、人口の稠密なところに住んでいた農耕民で、残虐な戦闘に加わることも珍しくなかった。モリオリ族より技術面において進んでおり、武器も優れたものを持っていた。グループの統率力も強かった。二つの部族の衝突において、虐殺されたのがモリオリ族であって、その逆でなかったことは当然ともいえる。」
「しかしマオリ族とモリオリ族の衝突を不気味なものにしているのは、彼らがいずれも1000年ほど前に同じ祖先から枝分かれしたポリネシア人である、という点である。」
「この衝突の結果は、モリオリ族とマオリ族の対照的な進化の経路の当然の帰結といえる。つまり、この二島において異質な人間社会が形成されていった理由が理解できれば、人類の歴史が大陸ごとに異なる発展をしていったという、より大きな疑問を理解するためのモデルを持つことができるかもしれない。」
モリオリ族とマオリ族の身に起きた出来事は、小規模で短期間ではあったが、環境が人類社会におよぼす影響についての自然の実験だったといえる。

ポリネシアの島々
ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」から引用

2 ポリネシアでの自然の実験について
同じ出自のグループがポリネシアの島々に展開し、隔絶して交流が少ない状況で、環境が社会に及ぼした影響を次の項目で詳しく論じています。
・ポリネシアの島々の環境
・ポリネシアの島々の暮らし
・人口密度のちがいがもたらしたもの
・環境のちがいと社会の分化
「ポリネシアは経済や社会、そして政治において非常に多様である。この多様性は、それらの島々の総人口や人口密度が島によって異なっていることに関係している。それらの島々の人口面での差異は、広さや地形、そして他の島々からの隔絶度が島によって異なるためである。そしてこれらの差異は、島民の生活形態のちがいや食料の集約生産の方法のちがいに関係している。これらの社会に見られるさまざまな相違点はすべて、地球規模で見ればポリネシアという比較的狭い地域で、比較的短い時間のうちに、同じ社会が環境のちがいによって異なる社会に分化した結果、発生したものである。」
われわれは、大陸においても同じような変化が起こったかを問わなければならない。そして、もし大陸で同じようなことが起こったのだとしたら、それを引き起こした環境的要因が何であったかを問わなければならない。また、その結果として、大陸社会がどのように多様化したかを問わなければならない。

3 メモ
・著者は最初に、マオリ族のモリオリ族征服というエピソードから、同じグループでも異なる環境に置かれれば一方は好戦的になり、一方は非好戦的になるという社会変化実例を示しています。次に、より広域的にポリネシアが恰好の歴史実験場であったことを詳細な記述で述べています。
・著者はこれらの環境的要因による社会変化が大陸規模でどうであったのかをこの本で述べると宣言しています。
・ポリネシアの島々の環境の相違とそれによる社会変化については「文明崩壊」でも詳しく学習したので、この記事では割愛します。
花見川流域を歩く番外編2017.12.21記事「ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」の学習」から学習開始
・ポリネシアのような海による隔絶性が確保されていない、交流が盛んな縄文時代列島社会においても、環境の違いは縄文社会に異なる変化をもたらしていたと考えることができます。それが土器形式の違いなどに表現されていると考えます。
・ジャレド・ダイアモンドの思考は縄文時代列島社会の考察にも有用であると考えます。

参考 ポリネシアについて

ポリネシアの範囲
ウィキペディアから引用

ポリネシアにおける人類拡大の様子
ウィキペディアから引用

2019年1月17日木曜日

13000年前のスタートライン

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」 2

ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習記事第2回目です。最初が2018.09.25記事「ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の学習スタート」ですからなんと4ヵ月ぶりになりお詫びします。
この図書以前にジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」を2017年12月から2018年9月にかけてブログ花見川流域を歩く番外編で24記事にわたり学習しています。「文明崩壊」から多くの学習ヒントを取得することができ、特に鳴神山遺跡(奈良時代開発集落)の衰滅原因考察に大いに役立ちました。しかし「文明崩壊」の事例はほとんど全て農業社会でした。
その点、「銃・病原菌・鉄」は狩猟採取社会が農業社会に発展する際の地理的不均衡がその後の現代にまでつづく世界社会不均衡の原因であることを暴き出していて、日本縄文社会の消長を考える上で参考になる情報を得られそうです。縄文学習との関連を気にしながら「銃・病原菌・鉄」の学習を進めることにします。
この記事では「第1章 13000年前のスタートライン」を学習します。

1 13000年前のスタートライン
著者は最初に次のような結論を述べています。
人類の歴史を、それぞれの大陸ごとのちがいに目を向けて考察するには、紀元前1万1000年頃、すなわち現在よりおよそ1万3000年前を出発点とするのが適切だろう。1万3000年前とは、地質学的には更新世の最終氷河期が終わり、現在に至る完新世がはじまった時期にあたる。これは、世界のいくつかの地域で村落生活がはじまり、アメリカ大陸に人が住みはじめた時期にも相当する。少なくとも一部の地域では、それから数千年以内には植物の栽培化や動物の家畜化がはじまっている。
つまり13000年前が現代社会の不均衡を考える上でのスタートラインとして設定できるとしています。
13000年前以前の状況で既に大陸間不均衡の差が存在していなかったという著者の考えをこの章では以下のように詳しく説明しています。
・10万年前から5万年前までの間に人類に「大躍進」があった。形状の揃った石器、装身具、釣針、銛、投げ槍、弓矢、壁画、彫像類、楽器類などが出土。人類の咽頭が発話可能となり言語能力が使えるようになったから。
・「大躍進」はアフリカ起源か世界同時発生かはまだわからない。
・「大躍進」時代はアフリカとユーラシアにしか住んでいなかった人類がオーストラリア大陸とニューギニアに広がった時期である。
・約20000年前に人類はシベリヤにまで拡大した。
・14000年前からアメリカ大陸に人類が拡大し、13000年前頃北アメリカ大陸で人口が増加した。クローヴィス式遺跡がこの時期に集中する。1000年間の間に南アメリカ大陸に広まった。
・13000年前以前に現代社会の不均衡(それは西暦1500年頃の不均衡に起因するから、本質的には西暦1500年頃までに生じた世界の不均衡)に結びつく要因を大陸間比較で見つけることはできない。

人類の拡散
ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」から引用

2 考察
人類がスタートラインに立った13000年前頃の様子について、アメリカ大陸人類拡大図と日本縄文草創期変遷図を結びつけてみました。

人類の南北アメリカ大陸進出と縄文草創期変遷の時間軸対応
アメリカ大陸に人類が進出した時期と縄文草創期がほぼ一致します。
氷河時代が終焉を迎えたという環境変化によりアメリカでは氷河後退によるアラスカからの通路成立、日本では植生変化による食料確保方法の変化などが生れたものと推測します。
隆線文土器について思考を巡らす時、その時代がアメリカ大陸人類進出時期と重なると考えると、そのような結びつきをこれまで考えたことがなかったので刺激を受けます。その刺激により、隆線文土器の意義についてより深く考えてみたい、考える価値があるに違いないと考えます。隆線文土器に対する興味が増します。
クローヴィス式遺跡と縄文草創期遺跡の出土物等比較資料があれば入手して較べてみたくなります。
なお、アメリカ大陸における土器発生は南アメリカで7500年前、北アメリカで5500年前と言われています。(「縄文はいつから」による)




2019年1月14日月曜日

中川毅著「人類と気候の10万年史」

中川毅著「人類と気候の10万年史」(ブルーバックス)を読み「驚きの地球気候史」に本当に驚きました。数十年前に自分にインプットされた同種知識をこの本で感動を伴って2019年版に書き換えることができました。眼からウロコが落ちた思いです。

中川毅著「人類と気候の10万年史」(ブルーバックス)表紙

1 参考になった点
●水月湖年縞堆積物
水月湖年縞堆積物が毎年の気候指標となることに着目し、ボーリング技術により切れ目のない15万年の年縞を採取した活動が詳しく述べられています。得られたデータは世界的意義がある過去気候資料であり、地質学の標準時計になりました。

年縞の例
中川毅著「人類と気候の10万年史」(ブルーバックス)から引用

●過去の気候変動
水月湖年縞堆積物データをもとに過去の気候変動について詳しく解説しています。

水月湖15万年の気候の歴史
中川毅著「人類と気候の10万年史」(ブルーバックス)から引用

●気候変動に与える人の影響
気候変動に与える人の影響について詳しく論じています。現在は本来氷河期に入っているべき時期であるが(数千年前からの)人の活動によりそれが遅れている(さらに温暖化が進んでいる)という説も紹介されています。

氷床のボーリング試料に記録された、過去の温室効果ガス濃度
中川毅著「人類と気候の10万年史」(ブルーバックス)から引用

●今後の気候変動とそれに対する人類の対処
今後の気候変動とそれに対する人類の対処について、理学書の範囲を超えて、著者の考えを詳しく展開しています。

2 感想
・水月湖という埋まらない、奇跡的ともいえる堆積環境の存在に驚きました。
・年縞堆積物を正確に掘り出す作業が最初にあり、その作業期間は本来の研究業績が望めないのですから、その地味な活動を展開した研究グループの先見性は素晴らしいと思います。
・水月湖年縞堆積物の学術的世界的意義の大きさに驚きます。
・この図書でのべられているように、旧石器時代から縄文時代にかかるころの環境が詳しく判りつつあります。その時代に関する自分の考古学習的興味がますます深まります。
・理学書の範囲を超えて将来の気候変動とその人類対処について述べている様子は素晴らしいと思います。通常の学者は専門内部の事から話が飛び出すことは少ないですが、著者は自分の研究意義を人類社会レベルで思考しています。

2019年1月11日金曜日

土器はいつから? 2

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 15 (シリーズ最終回)

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「追補 土器はいつから? 列島最古段階の土器の年代は決まったのか? 工藤雄一郎」を学習して、気が付いたことや感想をメモします。

1 土器はいつから? 列島最古段階の土器の年代は決まったのか? 工藤雄一郎 概要
・炭素14年代測定法の考古学における適用の歴史を詳しく解説しています。
・大平山元Ⅰ遺跡出土土器(同一個体と考えられる)に付着する炭化物5点の測定結果をIntCal04とIntCal09の較正曲線を使って年代を検討し、IntCal04よりIntCal09の方が年代が古く出るが、同時に確立分布の幅が広くなってしまい、正確な年代を絞り込むことがきわめて難しくなったことが述べられています。

大平山元Ⅰ遺跡の炭素14年代と較正年代の比較

2 メモ
・WEBを閲覧するとすでにIntCal13が発表されていますので、C14年代測定で13000年前頃のIntCal09とIntCal13の較正曲線を拾って比較できるようにしてみました。

IntCal09の較正曲線

IntCal13の較正曲線

・IntCal13の較正曲線はIntCal09に存在していたC14測定13000年前頃の中だるみが少なくなり、大平山元Ⅰ遺跡のデータを当てはめると確率分布は再び狭くなり、より正確な較正年代が得られるようになったようです。

2019年1月9日水曜日

土器はいつから?

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社) 14

「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)に収録されている「追補 土器はいつから? 土器出現とその年代 日本列島における出現期の土器の様相 小林謙一」を学習して、気が付いたことや感想をメモします。

1 土器はいつから? 土器出現とその年代 日本列島における出現期の土器の様相 小林謙一 要旨
・共伴する石器の様相から大平山本Ⅰ遺跡や後野遺跡などの無文土器が最古の土器と位置付けられる。15000年前よりは古く、17000年前までの1時点と考えられる。
・ロシアアムール川流域の発生期土器(15000年前くらい)、中国南部の古い土器(18000年前、20000年前説あるが不確定、15000年前は確実)と日本本州島東部の古い土器は位置が隔絶しているので多元的に始まった可能性がある。東アジアが世界最古であることは間違いない。
・東アジアの最古土器は農耕の起源とは無関係に生み出された。
・日本海側の海流変化にともなう植生変化(落葉樹林の混合)のなかで土器が育まれた。植物質食料のアク抜きなどで土器が必要であった可能性がある。樹皮やコケなどを含めて、さまざまな食糧資源を効率的に摂取するために用いたのだろう。
・旧石器時代に炉があるので、土器の必要性が高まれば土器が作り出されたという状況があった。
・草創期、早期の土器底は丸く、これは不整地でつかうためであると考える。
・隆線文土器の文様は時間および空間の違いによって少しづつ変化していて、全体として隆線の条数が増す多条化の方向を示すなど地域間での情報交換が認められる。

東日本・関東地方の隆線文土器の変遷 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用

・縄文時代草創期すなわち縄文文化のはじまりの画期として、日常的に装備される通常の道具としての土器が列島全体に広まった隆線文土器(15500年前~14000年前)の成立をもって考える。
・隆線文土器と次に示す他の文化要素の組み合わせから、隆線文段階にその後12000年以上つづく縄文文化の基盤が成立していると考える。
1 広域的な土器形式ネットワークの形成
2 住居状遺構の構築と岩陰・洞穴居住にみられる定住化の促進
3 有茎尖頭器・石鏃・矢柄研磨器にみる弓矢の完成
4 線刻礫(石偶)・土偶などの精神遺物の一般化
・出現期の無文土器は石器群や土器出土遺跡の少なさから、あくまで旧石器時代において先駆け的に土器が用いられたと捉える。


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参考 時代区分の比較 「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用
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2 メモ
・本書で各著者が述べたことはそれぞれ微妙にニュアンスが異なるものが含まれていますが、この追補は明瞭な論旨が一貫していてとても判りやすい土器出現とその年代説明になっています。各論あるなかで最も共鳴できるものです。
・隆線文段階にその後12000年以上つづく縄文文化の基盤が成立したという考えはとても説得力のあるものです。