2020年6月29日月曜日

精神文化の高揚

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 32

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「6 精神文化の高揚」を学習します。

1 男と女からなる世界観の確立
・縄文時代遺物には男性性と女性性を象徴したものが多い。
・石棒を石棒を用いた祭祀の中には、性行為時の男性器のあり方、すなわち「勃起→性行為→射精→その後の萎縮」という一連の状態を擬似的に再現する、「摩擦→叩打→被熱→破壊」という動作が組み込まれていたと考えられる。
・土偶祭祀は前期からスタート。土偶出土総数は2万点で4万点存在するとしても全国平均で年間8点ほど製作された。
・土偶は妊娠した女性をかたどっている。

出産光景の土偶
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・土偶と石棒は対をなしてセットで出土した事例は乏しく、それぞれ独立した祭祀体系を有していた可能性が高い。
・大型石棒と石皿、埋甕と石棒の組み合わせで生殖行為を表現。
葬送や住居の廃絶儀礼で模擬的・象徴的な生殖行為が演じられていたとして、このような祭祀の象徴的存在である大形石棒は、祖霊観念と結びついていたとしている(谷口2006)。

動物の交尾をうつした土器
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・縄文時代の人々の残した遺物そのものやその出土状況には、男性性と女性性、そしてその交合が強く表現されている。これは、…縄文人にとっては、世の中のものが大きく男と女に区別することができ、この二つが交わることによって新たな生命が誕生し、あるいは再生されると信じていたことを表している。
・男女の交わりが病気や怪我の快癒などヒトに命だけでなくあらゆる生命の復活・再生に対しても影響を与え、効果を発揮した。
・石棒や土偶による男女交合をモチーフとした祭祀で豊穣と再生産を促すと信じられていた。

2 屈葬の意義
・屈葬は縄文時代の人々の再生観念を表している。
・日常的に目に入る場所に墓域を設けている。

埋葬姿勢
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 縄文の基本的死生観・「円環的死生観」
・土器棺墓や土器埋設遺構が縄文時代の円環的死生観を具現化している。
・土器を女性に身体(母胎)になぞらえている。
・「回帰・再生・循環」

4 生を産み出す女性の象徴としての土器

出産文土器
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

出産風景をうつした土器
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・出産とは「回帰・再生・循環」の世界観を具体的に体感できる象徴的な事象。

・土器埋設遺構に埋納されたものはヒトだけでなく動物や木の実、黒曜石、石斧などがあり、より多くあってほしい、豊かな恵みをたくさんとることができるようにという祈りであり、祭祀があった。
・出産時母親死亡は「回帰・再生・循環」の環が絶たれる精神的危機であり、妊産婦の埋葬は特殊で、呪術的対応で思想的危機を乗り越えた。

5 古くから存在した「円環的死生観」
・後期旧石器時代の沖縄県港川人は縦に割けた大きな割れ目から見つかり、そこに意図的に入れられた可能性もあり、母胎内から再生するという死生観をもっていた可能性がある。

6 メモ
・学習を進めていくうえで「回帰・再生・循環」という死生観を遺物・遺構・遺跡から汲み取ってみたり、逆に投影してみたりすることが大切だと感じました。
・男女交合が生命復活再生・恵みの豊穣再生産に不可欠な祭祀モチーフであり、その演出道具が石棒と土偶であることを知りました。


2020年6月27日土曜日

中期の社会構造

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 31

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「5 さまざまな墓制の展開」の小見出し「中期の社会構造をさぐる」「特別な人物の出現」「ヒスイとコハクの利用」「「縄文威信財」を佩用する人々」「「特別な人物」の姿」を学習します。

1 中期の社会構造をさぐる
・中期には分節構造を持つ大型の墓域が目立つ。
・中央部墓域、外側掘立柱建物、竪穴式住居が同心円状環状配置例…岩手県西田遺跡
・後期に青森県風張遺跡、秋田県高屋館遺跡など類例。

岩手県西田遺跡における企画性のある遺構配置
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・中期関東地方では廃屋墓がみられる。…加曽利EⅠ式期は関東地方の墓制の画期をなす。
・中期には「甕被り葬」が目立つ。頭部だけ持ち去る例も多い。

甕被り葬
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

・姥山貝塚接続溝一号(B9号)住居跡出土5体の分析結果解釈から、男性が他の血縁集団から参入し婚入した可能性があり、妻方居住婚が推定される。

千葉県姥山貝塚B9号住居跡における人骨出土状況
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・関東地方では中期における妻方居住婚から、後期初頭の選択的居住婚を経て、後期中葉までには夫方居住婚へ変遷したと想定されている。
・母系的な社会から双系・選系的な社会を経て父系的社会へ変化したと思われる。

・長野県棚畑遺跡(中期中葉~後葉)環状集落の土坑墓群中央部付近土壙から「縄文のビーナス」が出土している。


縄文のビーナス

・縄文のビーナス出土土壙は子ども専用墓で縄文のビーナスは子どもへの副葬品であり「子どもへの投資」として理解できる。
・近隣子ども墓からはヒスイやコハクが出土している。
・世襲的地位の継承が存在した可能性があり、縄文中期に社会的成層化が存在した可能性を無下には否定できない。

2 特別な人物の出現
・岩手県西田遺跡の環状墓域中心部土坑墓に埋葬された人々は特別な人々であった可能性がある。
・早期末から前期前葉の福井県桑野遺跡土坑墓から玦状耳飾りが出土し、それを着装できた人も特別な人であった可能性が高い。

3 ヒスイとコハク
・ヒスイ原石は新潟県糸魚川流域にしか産出しない。
・ヒスイ大珠は中期以降北陸・中部・関東地方から多く出土している。
・ヒスイ製品製作遺跡…新潟県長者ケ原遺跡(中期)、大塚遺跡(晩期)、寺地遺跡(晩期)、細池遺跡(晩期)、富山県境A遺跡(中~晩期)
・青森県三内丸山遺跡からは原石や未製品なども出土していて、特別な遺跡であった傍証となっている。
・コハク産地…千葉県銚子、岩手県久慈に限定
・長野県棚畑遺跡や梨久保遺跡などからコハク製の小玉類出土し、銚子産といわれる。

4 「縄文威信財」を佩用する人々
・ヒスイ製大珠を身に帯びたのは環状集落集団内の特定人物、おそらく最高位の人物と結びついていたと考えられている。
・千葉県有吉南貝塚甕被り葬男性人骨はイルカの下顎を利用した特殊な腰飾りを佩用していた。

イルカ下顎性腰飾り
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

・中期には地域によってはすでに「特別な人物」が存在していたようだ。

5 「特別な人物」の姿

三内丸山遺跡出土土器に描かれた人物画(右)と岩手県御所野遺跡出土土器に描かれた人物画(左)
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・右は儀式をしているシャーマン、左は昆虫の触覚状のものが伸びている。
・東日本では中期までに特別な人々が出現していたと考えられるが、どのような力を持ち、それが無条件に世襲されていたのかは今後の検討である。

6 感想
ア 甕被り葬
甕被り葬はそのまま埋葬すると故人の悪霊があの世とこの世に悪影響を及ぼすことを防ぐ霊的な葬送であると想定します。
普通ではない病死(顔や肉体が著しく変形する病気など悪霊による病気の死)とか、不慮の事故死(悪霊に殺されたと感じられるような死)などを想定します。

イ 母系社会から父系社会への変化
母系社会から父系社会への変化は次のようなイメージでとらえることができます。

母系社会から父系社会への変化イメージ
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」収録図に書き加え

加曽利EⅡ式期の人口急増とその劇的な破綻(社会崩壊)が母系社会から父系社会への転換の背景にあることは確実です。加曽利EⅡ式期をピークとする人口急増→社会崩壊が社会の在り方を根本的に変化させたと考えます。

2020年6月21日日曜日

墓制の展開

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 30

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「5 さまざまな墓制の展開」の小見出し「墓域、埋葬群、埋葬小群」「埋葬小群は何を表すか?」「小竹貝塚の墓域構造から前期の社会を考える」「抱石葬の理由」を学習します。

1 墓域、埋葬群、埋葬小群
・埋葬小群…墓群集して塊状
・埋葬群…埋葬小群の集まり
・墓域…埋葬群の分布域

2 埋葬小群は何を表すか?
・晩期愛知県保美貝塚の事例から埋葬小群には遺伝的な関係を有する小家族集団(3世代くらい)が埋葬されていて、一つの世帯を構成していると考える。
・前頭縫合(小変異)が通常ではありえない確率で出現していることから、埋葬小群が家族集団埋葬と考える。

埋葬小群の例
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・埋葬小群の中には、土坑墓が斬り合っているものがあり、わざと重複させることにより場所を共有し血縁関係者および祖霊との共存をはかり、埋葬を行った人々のつながりを再確認・強化する意図があった。

斬り合いのある土坑
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 小竹貝塚の墓域構造から前期の社会を考える
・縄文前期富山県小竹貝塚出土人骨の食性分析で外部からの男婚入者…堅果類に偏り特殊な小臼歯咬耗男人骨(山間部からの婚入者)

小竹貝塚人骨の食性分析結果
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・仙台湾抜歯(上顎側切歯抜歯)の可能性のある男人骨
・埋葬姿勢が袋に入れられた可能性のある男人骨
・潜水漁労(外耳道骨腫)(三陸仙台湾)の可能性のある男人骨
・以上から小竹貝塚人集団は男性が婚入してくるような社会構造。
・妻方居住婚制で母系的社会。

小竹貝塚に仙台湾からの婚入者がいた可能性

4 抱石葬の理由
・外来者や他集団からの婚入者が抱石葬の主たる対象と思われる。
・「何らかの理由」のある外来者に対する呪術葬法。

5 感想
小竹貝塚の男性婚入者2人の出身地想定に仙台湾及び三陸が含まれていることに驚きます。太平洋岸貝塚から直線距離370㎞離れた日本海側貝塚に婿入りがなされているのです。
この図書を読んでいて、当初は、男性「婚入者」出身地イメージは対面交易関係範囲内でせいぜい数10km程度と考えていました。ところが370㎞離れているので、いくら想定とはいえ、驚きます。
この男性「婚入者」想定が一般的な事象であるならば、つぎの地域間でも婚姻関係が生まれていた可能性があります。
仙台湾貝塚と東京湾貝塚の間
東京湾貝塚と小竹貝塚の間
東京湾貝塚と伊勢湾貝塚の間
伊勢湾貝塚と小竹貝塚の間

加曽利貝塚では遠隔地との交流を示す資料として東北地方の土器(大洞式)が出土展示されています。この交流には実は男性婚入者の存在が含まれていると考えることが大切であるのかもしれません。
単なる情報交換、物資交易としての交流ではなく、東北から男性が婚入していると考えると、自分の房総遺跡出土物に対する見方がまるで違ってきます。鋭く出土遺物を観察して、婚入外来者をあぶりだしたくなります。縄文学習がますます面白くなってきました。

2020年6月16日火曜日

広域交換・交易

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 29

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「4 広域交換・交易の発達」を学習します。

1 大型のハマ貝塚の出現
・集落貝塚、ムラ貝塚とは別に中期になるとハマ貝塚が出現。
・ハマ貝塚…東京都中里貝塚(中期主体)、伊皿子貝塚(後期)、愛知県水神貝塚(晩期)
・中里貝塚…1000m×40m、マガキ・ハマグリのみ、年間2シーズンの採貝活動の繰り返し。加工して交易につかった。

中里貝塚の貝層
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

中里貝塚の位置 地理院地図3Dモデル
土地条件図+一般地図、垂直倍率×9.9

2 海を越える黒曜石・南海産貝の交易
・神津島黒曜石…伊豆半島東海岸見高段間遺跡が陸揚げ場で各地への搬出場

神津島と見高段間遺跡の位置 地理院地図3Dモデル
写真、垂直倍率×9.9

・八丈島倉輪遺跡…オオツタノハ

3 さまざまなネットワークの発達
・複数の集落がお互いに補完しあいながら一定地域内の集落群全体として生業や生産活動をまとめていく経済のあり方、社会の紐帯を生み出していた。

4 感想
・中里貝塚、見高段間遺跡、オオツタノハに関して資料を入手してその概要を学習することにします。
・房総には中里貝塚のような交易に徹したハマ貝塚がなぜないのかその理由が知りたくなります。海岸背後に多くの集落を抱える武蔵野台地・丘陵山地と、限定された集落を抱える下総台地という地勢が大きく影響しているのでしょうか?

2020年6月13日土曜日

環状集落と大型貝塚

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 28

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「3 環状集落の成立と大型貝塚の発達」を学習します。

1 環状集落の成立
・縄文前期に空間利用(居住域、墓域、廃棄帯等)を明確化した定型的集落として環状集落が成立した。
・環状集落は同心円状構造を持ち、竪穴式住居、貯蔵穴、掘立柱建物、墓域を配置する。

市原市草刈遺跡
「千葉県の歴史」から引用

2 環状集落間に見られる格差
・最大級居住域最大外径は150m、小さいものは外径70m
・「これらの集落の大きさは、大きな円を描くのか、それとも小さな円を描くのかを予め想定していた、つまりその大きさは、予定された住居数や人口によって決められており、当初から、集落間における機能的な差異が存在していたと考えることができるだろう。」→重要
・環状集落には地域中心の拠点集落とそれに付随する集落がある。拠点集落を中心にして規模の小さな環状集落が位置している。規模の小さな環状集落は分村、資源開発中継点、あるいは分業的役割分担や社会的差異など。
・中期には集落間の格差・役割・性格を集積・配分センター・中継点・末端消費地という機能差として理解できる。

3 大型貝塚の発達
・馬蹄形ないし環状の大規模貝塚の発達。
・千葉県曽谷貝塚は東西210m、南北240mで日本最大規模
・加曽利貝塚は全体で8字形をしていて南北貝塚をあわせると日本最大。

加曽利貝塚
「千葉県の歴史」から引用

・この時期の貝塚が単なるゴミ捨て場としての機能だけではなく、アイヌの人々の「送り場」のような精神文化的な意味合いを併せ持っていたと考える研究者は多い。

4 感想
「これらの集落の大きさは、大きな円を描くのか、それとも小さな円を描くのかを予め想定していた、つまりその大きさは、予定された住居数や人口によって決められており、当初から、集落間における機能的な差異が存在していたと考えることができるだろう。」との記述から次のような思考が発生しました。
ア その地域の社会が始まった時、人々の間に社会的分業や役割分担が明確に存在しており、その目に見えない社会関係が集落ネットワークの形状や集落大きさにおのずと投影されたと考えます。
イ 有力複数家族が拠点大集落に居住し、外様大名的家族が主要出先中集落に居住し、有力家族とは縁の遠い家族が末端小集落に居住していたというイメージを空想します。
ウ 貝塚集落の場合空間的漁業権(漁場の優先利用権利)と集落ネットワークが密接にかかわっていたと想定します。拠点大集落が広域海岸の漁業権(と自分の食い扶持となる地先海岸漁業権)を保持し、出先中集落が拠点大集落管理下で日常的作業単位としての海岸漁業権を保持していたと考えます。
エ 集落ネットワークは人々が取り組んでいる生業活動を最適化するように組み立てられていると考えられます。自然環境が変化するなどして生業活動そのものが変化すれば、当然ながら集落ネットワークも変化すると考えられます。後期から晩期になると貝塚集落が減りますが、利用できる海岸が少なくなったので集落ネットワーク改変が生じたことは当然です。貝塚集落が減ったからと言って単純に人口減少したとはいいきれません。拠点集落(母村)に人々が集まって新たな生業体制を築いたという可能性も検討する必要があります。(大膳野南貝塚等と六通貝塚(母村)との関係からのイメージです。)

2020年6月12日金曜日

クリとウルシ

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 27

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「2 低地遺跡にみる卓越した植物利用技術」の小見出し「縄文人にとって重要な資源だったクリの管理」「ウルシの利用」「縄文人はタネをまいたか?」を学習します。

1 縄文人にとって重要な資源だったクリの管理
・アク抜き不用の重要な食用植物。
・クリが加工食品(縄文クッキー)に使われた可能性。→前期山形県押出遺跡。
・青森県三内丸山遺跡では集落形成とともにクリが多くなり、クリの純林に覆われるようになり、中期末集落廃絶とともに再びナラ林が復活する。クリを管理していた。
・加工容易で腐食しにくい建築材。
・富山県桜町遺跡…貫穴のある建築材出土。
・石川県真脇遺跡…枘(ほぞ)のある柱材出土。→軸組工法の存在。→中期の三内丸山遺跡、富山県不動堂遺跡や長径が数十mに及ぶ大型住居で軸組工法が採用されていた可能性。
・後晩期遺跡(埼玉県寿能遺跡、赤山陣屋跡遺跡、栃木県寺野東遺跡)では土木材のクリ割合が50%超。
・三内丸山遺跡六本柱の大型掘立柱建物では直径1mのクリ材利用→成長に200年から250年かかる。→世代を超えたクリ林管理。
・奈良県観音寺本馬遺跡、石川県米泉遺跡では集落近接してクリ根株検出。

2 ウルシの利用
・最古のウルシ木材は12600年前の鳥浜貝塚出土。

鳥浜貝塚出土ウルシ
田中祐二著「縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚」から引用

・最古の漆工製品は北海度垣ノ島B遺跡の墓出土装身具で9000年前。
・中国最古漆工製品(弓)は7600年前、韓国(漆塗杯)は2400年前。
・漆技術は複雑で専従的にかかわる集団存在の想定。
・東京都下宅部遺跡から漆を掻きとった痕のあるウルシ杭出土。

漆を掻きとった痕のあるウルシ杭
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・ウルシの林を集落近くで作り出し管理していたと考えられる。
・赤漆をつくるための辰砂(水銀と硫黄からなる鉱物)が黒曜石などと広く流通していた可能性。
・木胎漆器、陶胎漆器、籃胎漆器などがあった。

木胎漆器
田中祐二著「縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚」から引用

陶胎漆器
田中祐二著「縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚」から引用

・エゴマの油が漆溶剤として利用されていた可能性
・食糧確保など生存に直接かかわらない漆工製品に「縄文人たちは、多大の時間と労力を漆製品の製作に注いでいた。これは縄文人の生活が、われわれが従来考えていたよりもずっと安定しており、漆製品の生産のような、生存に直接かかわらない作業に対して、十分な時間と労力を注ぐ余裕があったことを示している」(鈴木1988)。
・現在では、このような漆工製品が奢侈品として交換財となり、当時の社会においてさまざまな価値と意味をもっていた可能性も考えられている。

3 縄文人はタネをまいたか?
・圧痕法による種の同定。→時期決定が容易、コンタミが排除できる。
・マメ類(ダイズ、アズキ)の栽培。
・マメ類を主体とする「縄文農耕」が社会構造の変化を引き起こし、社会の複雑化、集団間の成層化を進展させたという証拠は見つかっていない。

4 感想
漆製品が奢侈品としての価値があったという指摘は遺跡出土物から情報を引き出す上で大変重要な指摘だと考えます。
漆製品率(例 陶胎漆器数/全土器数)が時期によってどのような変化がみられるのか調べることができれば社会の豊かさの一端を測ることができると考えます。
食うか食わずかのギリギリの生活であったのか、余裕のあるゆたかさのある生活であったのか、その程度の時期変化を測ることが社会変動の様子をダイナミックにとらえることになります。
例 縄文後晩期の社会衰退期に漆製品率(例 陶胎漆器数/全土器数)はどうなっただろうか?
低下したのか、上昇したのか、かわらずか?
その頃食うか食わずかのギリギリの生活であったのか、余裕のあるゆたかさのある生活であったのか?興味が湧くところです。

2020年6月7日日曜日

鳥浜貝塚など低地遺跡

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 26

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「2 低地遺跡にみる卓越した植物利用技術」の小見出し「縄文文化の研究の画期となった鳥浜貝塚の調査」「低地利用の一般化」「デーノタメ遺跡にみる土地利用」を学習します。

1 縄文文化の研究の画期となった鳥浜貝塚の調査
・海抜0m以下に縄文時代包含層が厚さ2mにわたって存在。→低地遺跡の再認識
・弓・石斧柄などの木製品、飾り櫛などの漆工芸品、ヒシや堅果類などの植物遺存体が出土。→「貧しい縄文人」イメージを一変
・淡水産貝殻層、魚骨層、堅果類層など廃棄された食物残渣(生ゴミ)が明確な層をなす。→生業形態の季節性
・植物学、動物学、各種理化学的分野による学際的研究→縄文人の年間を通じた計画的暮らし・生活のありかた、道具の使用方法などの研究レベル引き上げ

2 低地利用の一般化
・前期の山形県押出(おんだし)遺跡では低地部に盛土。
・埼玉県寿能遺跡では泥炭層の中から中期後葉以降の杭列・木道施設
→低地にアクセスしやすくするためのインフラ整備

3 デーノタメ遺跡にみる土地利用
・台地上の居住域と低地部の両方がセットで理解できる数少ない調査例。
・台地部…大きな環状集落
・低地部…「クルミ塚」、道の跡、土器を敷きつめた作業場、近くにウルシ林

4 感想
・鳥浜貝塚は早速資料を入手して学習を深めることにします。
・押出遺跡は「全国遺跡報告総覧」(奈良文化財研究所)から発掘調査報告書を入手することができました。早速学習を開始します。
・寿能泥炭層遺跡は今後資料を入手して学習を進めることにします。
・デーノタメ遺跡発掘調査報告書は北本市ホームページで公開されています。早速ダウンロードしましたので学習を開始することにします。カラー写真が多用されている見やすい発掘調査報告書です。「デーノタメ遺跡総括報告書(第1分冊、第2分冊、概要版)」(2019、埼玉県北本市教育委員会)

4つの低地遺跡
基図は地理院地図

・以前から低地遺跡出土木製品について興味がありました。2019年7月~9月には市川考古博物館で企画展「大地からのメッセージ-外かん自動車道の発掘成果-」が開催され、縄文早期後葉貝塚の遺物が展示され、展示木製品について強い興味をもちました。そのような経緯から、鳥浜貝塚、押出遺跡、寿能泥炭層遺跡、デーノタメ遺跡について参考資料を入手してよく読み、その学習結果を追ってブログ「花見川流域を歩く」の縄文社会消長分析学習の一環として記事にしたいと思います。
・木製品として祭具としてつかわれた「イナウ」が低地から出土し、それが木製品「イナウ」としては認識されていないという問題意識を密かなる軸として学習を進めたいと思います。(結果としてこの問題意識がトンチンカンなものでも、低地学習促進剤の役割をすればよいと割り切ります。)
縄文後期イナウ似木製品の意匠と解釈-印西市西根遺跡出土品の実見・分析・考察」(2018、荒木稔)

2020年6月3日水曜日

縄文海進と人口急増

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習25

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「1 温暖化のピークから低温化安定へと向かった気候変化」を学習します。

1 縄文海進
・約7000~5900年前の高温ピーク時には現在より気温が2度ほど高い。
・海水面はげんざいより2.5mほど高い。
・栃木県栃木市藤岡町篠山貝塚は奥東京湾最奥部貝塚。
・黒浜式土器以降気温低下するも温暖、関東ではクリ林優勢。

縄文海進の詳しい資料
「デジタルブック最新第四紀学」(日本第四紀学会)から引用

2 急激に増加した人口
・早期全人口2万人程度、前期10万人超え、中期24万人
・中期東日本(東海地方まで)227200、西日本(近畿以西)9300人

縄文時代の時期別・地域別人口
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
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追記
この人口グラフは原典掲載の北陸・四国分が欠落していて不十分なものです。中期人口24万人と文中で記述していますが、正確には26万人になります。
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3 感想
縄文海進の詳しい資料が「デジタルブック最新第四紀学」(日本第四紀学会)に掲載されていますので、今後の学習で利用します。
人口データの元資料にあたってみて、推計の方法等の学習を追って行うことにします。
各時期の全人口を遺跡別に割り振ってみて、特定遺跡の人口イメージを確かめたいとおもいます。いままでなんとなく自分が抱いていた集落の人口イメージと、専門的推計によるものとの間で大きな齟齬がありそうです。