山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 28
「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「3 環状集落の成立と大型貝塚の発達」を学習します。
1 環状集落の成立
・縄文前期に空間利用(居住域、墓域、廃棄帯等)を明確化した定型的集落として環状集落が成立した。
・環状集落は同心円状構造を持ち、竪穴式住居、貯蔵穴、掘立柱建物、墓域を配置する。
市原市草刈遺跡
「千葉県の歴史」から引用
2 環状集落間に見られる格差
・最大級居住域最大外径は150m、小さいものは外径70m
・「これらの集落の大きさは、大きな円を描くのか、それとも小さな円を描くのかを予め想定していた、つまりその大きさは、予定された住居数や人口によって決められており、当初から、集落間における機能的な差異が存在していたと考えることができるだろう。」→重要
・環状集落には地域中心の拠点集落とそれに付随する集落がある。拠点集落を中心にして規模の小さな環状集落が位置している。規模の小さな環状集落は分村、資源開発中継点、あるいは分業的役割分担や社会的差異など。
・中期には集落間の格差・役割・性格を集積・配分センター・中継点・末端消費地という機能差として理解できる。
3 大型貝塚の発達
・馬蹄形ないし環状の大規模貝塚の発達。
・千葉県曽谷貝塚は東西210m、南北240mで日本最大規模
・加曽利貝塚は全体で8字形をしていて南北貝塚をあわせると日本最大。
加曽利貝塚
「千葉県の歴史」から引用
・この時期の貝塚が単なるゴミ捨て場としての機能だけではなく、アイヌの人々の「送り場」のような精神文化的な意味合いを併せ持っていたと考える研究者は多い。
4 感想
「これらの集落の大きさは、大きな円を描くのか、それとも小さな円を描くのかを予め想定していた、つまりその大きさは、予定された住居数や人口によって決められており、当初から、集落間における機能的な差異が存在していたと考えることができるだろう。」との記述から次のような思考が発生しました。
ア その地域の社会が始まった時、人々の間に社会的分業や役割分担が明確に存在しており、その目に見えない社会関係が集落ネットワークの形状や集落大きさにおのずと投影されたと考えます。
イ 有力複数家族が拠点大集落に居住し、外様大名的家族が主要出先中集落に居住し、有力家族とは縁の遠い家族が末端小集落に居住していたというイメージを空想します。
ウ 貝塚集落の場合空間的漁業権(漁場の優先利用権利)と集落ネットワークが密接にかかわっていたと想定します。拠点大集落が広域海岸の漁業権(と自分の食い扶持となる地先海岸漁業権)を保持し、出先中集落が拠点大集落管理下で日常的作業単位としての海岸漁業権を保持していたと考えます。
エ 集落ネットワークは人々が取り組んでいる生業活動を最適化するように組み立てられていると考えられます。自然環境が変化するなどして生業活動そのものが変化すれば、当然ながら集落ネットワークも変化すると考えられます。後期から晩期になると貝塚集落が減りますが、利用できる海岸が少なくなったので集落ネットワーク改変が生じたことは当然です。貝塚集落が減ったからと言って単純に人口減少したとはいいきれません。拠点集落(母村)に人々が集まって新たな生業体制を築いたという可能性も検討する必要があります。(大膳野南貝塚等と六通貝塚(母村)との関係からのイメージです。)
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