2020年7月31日金曜日

墓制と祖霊祭祀の発達

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 38


「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「5 墓制と祖霊祭祀の発達」を学習します。

1 配石墓・石棺墓の増加
・後晩期には、日本列島域全体で墓の上部構造に石を用いる配石墓が増える。中には上部構造だけではなく、埋葬施設である下部構造にも平石を立てて石を棺桶状に並べた石棺墓と呼ばれるものもある。配石墓・石棺墓の分布域は、先に述べた敷石住居の分布と重なるところがあるが、基本的には東日本を中心としている。
・上部配石は「死者の記憶」を思い起こすことが可能となる。
・上部配石は従来の円環的な死生観とは異なる。

2 多数合葬・複葬例の意義
・いったんは個々の墓に埋葬した遺体をふたたび掘り起こして、何十体もの遺体を一ヵ所の墓に埋葬し直したもの

茨城県中妻貝塚の多数合葬・複葬例
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・中妻の例では血縁関係を示唆する個体が多くあるが、その配置等は血縁関係に留意されていない。
・関東地方で多数合葬・複葬例が行われたのは、縄文時代後期前葉の時期にほぼ限定されることもわかっている。ちょうどこの頃は、それまでの大型集落が気候変動などにより一度分解し、少人数ごとに散らばって小規模な集落を営んだ後、再度、人々が新規に結合し大型の集落が形成されるようになった時期にあたっている。
・これらの点から、私は多数合葬・複葬例を、集落が新規に開設される際に、伝統的な血縁関係者同士の墓をいったん棄却し、異なる血縁の人々と同じ墓に再埋葬することによって、生前の関係を撤廃し、新規に関係を再構築するものと考える。
・記念墓と呼ぶことにしている。

3 「記念墓」に埋葬される人々
・死者の「個人的記憶」や「社会的記憶」を消失させる、祖霊化のための埋葬・祭祀行為と位置づける

4 「記念墓」構築の契機
・「記念墓」に複葬された人々は、先にも述べたように厳選された人々であったことにも注意しておきたい。これは、当時の生きとし生ける人々がすべて等質的な存在だったわけではなかった可能性を示唆するからだ。
・また、先のような祖霊観・祖霊祭祀が成立するためには、自分たちが一族や家系などの系譜において、どのような歴史的・時間的位置にいるのかを知る必要がある。したがって、縄文時代の後半期には、このような形で系譜的な結びつきを重要視する、祖霊崇拝という新たな思想が成立していたと見られる。

5 北陸地方の環状木柱列
・「記念墓」とおそらく同様に、モニュメントとして建設された環状木柱列がある。

石川県金沢市チカモリ遺跡の環状木柱列(復元)
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

6 大型配石遺構の形成
・系譜的観点を重視する祖霊祭祀を行うためには、それに見合った規模の施設(ステージ)が必要であっただろうし、先のような墓と関連する環状列石や大型配石遺構がそのような場となったことは容易に想像できる。先の「記念墓」は、まさにその機能に特化させたモニュメントであったし、先に述べてきた大型配石遺構、環状列石にみられるような墓と連動した大型配石遺構もその類例であろう。

7 縄文ランドスケープ
大型配石遺構を中心とした祭祀空間(ステージ)をつくり出すにあたって縄文時代の人々は周辺の山などの景観や、その地点における夏至や冬至、春分・秋分といった二至二分の日の出・日の入り場所を取り入れて設計していたとする説がある。小林達雄はこのような事例を「縄文ランドスケープ」と呼んでいる(小林編2005)。

8 墓からみた後晩期の社会構造
・関東地方の中期から後期にかけての婚姻後の居住方式は、中期の妻方居住婚から後期初頭の選択的居住婚を経て、後期中葉までには夫方居住婚へと変遷したと想定されている。

日本列島域における社会構造の変遷
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

9 感想
ア 配石墓・石棺墓について
・千葉県に配石墓・石棺墓があるか確認したいと思います。それに代替する素材や構造の墓があるのかも学習したいと思います。廃屋墓では木柱(イナウ類似施設)が墓標となっていたことも考えられると大膳野南貝塚学習で感じています。

・「上部配石は従来の円環的な死生観とは異なる。」記述は疑問が生まれます。レベルの全く違う「死生観」を無理やり対立的に思考処理しているように感じます。「死者の記憶」と「円環的死生観」は全く問題なく両立すると思います。

イ 記念墓について
・千葉では中期末から後期前半にかけて集団の入れ替えがあったと学習仮説しています。その「集団入れ替え」に対応する事象が記念墓による2集団の合同であったと学習仮説します。
もともと同郷の人々が訳があってバラバラに居住し、その人々が再び結集したからといって、「記念墓」をつくるようなことは無いと考えます。

・2集団がそれぞれ一度埋葬した人骨を墓から掘り出し、同じ場所に埋葬し直すという活動は尋常な心情ではないと思います。強い対立・葛藤があり、争いがある現実を終息させる究極の知恵が「記念墓」活動であったと想像します。
つまり「記念墓」があるということは、その背景にそれほどのことをしなければ現実の争いは収まらないということを表明しているのだと思います。

・2集団の争いが支配-服属、征服-奴隷化という形で解決した地域もあったかもしれないと想像します。「記念墓」の分布がどうなっているのか、詳しく知りたいです。

・「記念墓」が作られても、その実態は外来進駐集団とそれに同調する在来集団一部の活動であり、在来集団の一部は排除されていたかもしれません。

2020年7月28日火曜日

多様な祭祀の展開

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 37

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「4 多様な祭祀の展開と精巧な祭祀・呪術具の発達」を学習します。

1 土器の精製化・粗製化
・後期に精製土器と粗製土器の分化
・精製土器に深鉢形、浅鉢形に加え、壺形土器、注口土器、香炉形土器、皿形土器、台付鉢形土器などが生まれる。
・祭祀には精製土器が使われる傾向が強い。

2 活発化した動物儀礼
・動植物を主体的に用いて行われたと思われる儀礼を動植物儀礼と言う。…生命の再生・狩猟の成功祈願。
・東京都西ヶ原貝塚…貝層下からイノシシ下顎、イノシシやシカの骨が面状出土、鹿角製品の意図的配置。
・千葉県西広貝塚…イノシシ頭蓋・磨石類・ハマグリ・オオノガイ・アワビ類(赤色顔料)
・東京都下宅部遺跡…弓の破損部位の上にイノシシの下顎

東京都下宅部遺跡の狩猟儀礼
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・静岡県井戸川遺跡…イノシシ・シカ・イルカ頭骨の環状配置。
・山梨県金生遺跡…ウリボウの焼けた下顎骨100個体分以上。
・動物儀礼の間接的証拠としての動物形土製品。イノシシ、トリ、サル、イヌ、マキガイ、イカ、

イノシシ形土製品
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・海獣とトリのキメラ、二本足で立つカメ。
・動物の木製品。
・埼玉県デーノタメ遺跡…クルミ形土製品
・秋田県池内遺跡…クルミ殻に線刻…植物を対象とした祭祀・呪術の想像。

参考 大膳野南貝塚のシカ頭骨列

参考 大膳野南貝塚のシカ頭骨列の復元空想図
ブログ花見川流域を歩く2018.06.27記事「貝殻・獣骨・土器片出土の意義」

3 多彩な装身具とその着装理由
・漆塗りの櫛、骨角製の笄、石製の玦状耳飾り、土製耳飾り、多種多様な素材による首飾り、鹿角製の腰飾り、トリの長管骨やイノシシの犬歯による足飾りなど。
・ボディペインティング、抜歯、入れ墨、傷身。
・強制力をもった慣習、他者との差異、他者との同一性。

4 年齢と性差による装身具の着装原理
・晩期に装身具の数は多くなる。
・壮年期と熟年期に多い。
・年齢によって着装できる装身具が決まっていた。
・土製耳飾りは大人のみ。通過儀礼毎に大きさを取り換える。
・装身具着装意義として年齢等に基づく社会的地位や立場の表示。
・老年での着装率低下から、退役や隠居の慣習存在の推定。
・男性…頭飾りと腰飾り、女性…腕飾り

5 呪術的な医療行為としての装身具着装
・岩手県宮野貝塚…頸椎病変女性人骨の首付近にイノシシの切歯犬歯の牙玉10点等の首飾り。
・関節障害部位に装身具が着装された例。
・装身具による呪術的医療行為、「お守り」。
・骨折等の整形・修復は確認できていない。

小児麻痺?罹患人骨
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

6 素材別にみた装身具
・男性ではイノシシ(犬歯)とシカ(鹿角)が多い。女性は貝が多い。
・男性では力強さ等を連想させるイノシシ、サメ、ワシ、オオカミが注目される。

7 装身具の着装原理と社会
・自己能力の拡張
・性的魅力の向上
・身体的・心理的保護(魔除け)
・地位・立場・経験の表示(集団統率者や、呪術者、勇者、特殊能力者、特殊事象経験者などを表示)

8 抜歯の意義
・見せることに本質的な意味がある。

抜歯の進行図
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

9 感想
ア 精製土器と粗製土器分化について
・中期以降特に後晩期に祭祀が独立した時間・空間として特化していったと仮想します。
それ以前は生活全体が祭祀的に営まれていたと仮想します。
外来神話の地母神殺害再生神話伝来により一気に祭祀が独立した生活項目になり、祭祀と実生活の分離が生まれ、その一環として土器の精製・粗製分化が生まれたと仮想します。

イ 動物儀礼について
・動物儀礼の意味が中期以降特に後晩期にはそれ以前と大幅に様変わりしているのではないだろうかと想像します。
・狩猟で刈り取ってきた動物の頭骨等を利用した儀礼が最初から存在する動物儀礼であると想像します。
・外来神話である地母神殺害再生神話伝来以降に、人と一緒に暮らした動物(養育したイノシシ、クマ等)を天に送る儀礼が新たに発生したのではないかと空想します。

ウ 装身具と祭祀
・装身具の特定材質や種類と呪術者(祭祀執行者)が対応していたと考えます。たとえば加曽利貝塚特殊遺構例ではヒスイ製丸玉が石棒や異形台付土器とともに出土しています。ヒスイ丸玉を着装した祭祀執行者の存在を暗示しています。


加曽利貝塚特殊遺構(112号住居跡)
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用・塗色・追記

2020年7月27日月曜日

モノの流通とネットワーク

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 36

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「3 モノの流通とネットワーク」を学習します。

1 交易の発達と特産品の生成
・ネットワークが拡大すればするほど、さまざまな資源そして各種の製品の入手が可能となる。縄文時代の経済活動は、このような集落と集落の間に張り巡らされたネットワークによって維持されていたと言っても過言ではないだろう。
・このネットワークでは、多くの情報の交換や、婚姻といった人的資源の交換も行われていたに違いない。その意味では、集団構造という縄文社会の存立基盤であったとも言うことができる。

2 塩の生鮮と流通
・後晩期の霞ヶ浦沿岸部・仙台湾周辺・陸奥湾周辺では、土器製塩が行われていた。

製塩土器と焼塩大型炉
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・生産された塩は小型の製塩土器に入れられて内陸部にも運ばれたようだ。
・製塩は周辺複数の集落の参画があったと考えられている。

3 大型石棒の生産
・岐阜県塩屋金清神社遺跡は大形石棒の生産址と考えられている。

4 縄文鉱山の開発
・長野県鷹山遺跡群(星糞峠)からは、一部、早期にまでさかのぼる可能性があるものの、縄文時代後期を中心とする黒曜石の採掘坑が多数見つかっている(図52)。

黒曜石採掘坑址
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・このような採掘跡は、秋田県樋向Ⅰ・Ⅲ遺跡、大沢Ⅱ遺跡といった上岩川遺跡群でも発見されている。こちらは時期的には前期から中期を主体としたものであり、一部には後期のものも含まれるようだ。ここでは、東北地方の石器素材としてしばしば用いられる珪質頁岩の原石を採掘していたことがわかっている。

5 オオツタノハにみるネットワークの広がり
・オオツタノハは、その生息域が伊豆諸島南部以南と大隅諸島より南の島々に限定される珍しい貝で、縄文時代にはしばしば貝輪(貝製腕飾り)の素材として利用されていた。
・オオツタノハが出土するということは、その遺跡がオオツタノハを入手できるようなネットワークを有する集落だったことを意味し、おそらくは、地域の中心的役割を担うような集落であった可能性を想定することができるだろう。

オオツタノハ
加曽利貝塚博物館展示

6 日常生活道具・装身具のブランド化
・富山県境A遺跡からは、多量の蛇紋岩製磨製石斧が出土している。その量は完成品一〇〇〇点以上、未製品にいたっては三万五〇〇〇点以上あり、境A遺跡が蛇紋岩製磨製石斧の一大生産地となっていたことがわかる。

・境A遺跡で製作されたヒスイ製大珠は、他とは形状が異なって先端部が尖っており、一目で境A遺跡産とわかる。これは縄文時代の人々にとってもそうであったと思われ、このような特殊な製品が特産品化・ブランド化していた証拠である。

・後晩期になると、たとえば長野県エリ穴遺跡や群馬県茅野遺跡などのように、大量の耳飾りを出土する遺跡が見られるようになる。また、愛知県保美貝塚などのように石鏃の大量保有という現象も、後晩期の遺跡にはしばしば見ることができる。このような、一つの集落で必要以上に単一種類の「モノ」を大量に保有している遺跡は、それを特産物・ブランド化して、交換材としていた可能性も考えることができるだろう。

7 規格品の製作
・「貝輪は大きければ大きいほどよい」わけではなく、交換材として一定の規格が存在していたことを示している。

8 集落間ネットワークの重要性
・周辺、あるいは遠隔地も含んだ大小複数の集落間でさまざまな分業や役割分担が行われ、さらには人材をも含めたモノの交換や互恵的扶助が行われていた。そしてこれらの集落を取り結んでいたネットワークが、一つの、いわば「共同体」を構成していたと考える必要があるだろう。

9 感想
・各集落ともに何らかの特産品を用意しなければ縄文社会を渡っていくことはできなかったと思います。
・特産品とはおそらく全てが贅沢品・奢侈品であり、祭祀で使われ消費されるような品が多かったと考えます。
・塩…お清めの塩、大型石棒…祭具、黒曜石…特別価値のある素材(黒曜石製品は特別扱いだったかもしれない)、オオツタノハ…(身分を示すような特別の)装身具、蛇紋岩性磨製石斧・翡翠大珠…ブランド品・高級品、耳飾り・石鏃…ブランド品
・特産品開発生産の本義はそれで食うためではなく、贅沢品・奢侈品・祭祀用品を揃えるためであったと考えます。何らかの贅沢品・奢侈品・祭祀用品を用意して、遠方でつくられる別の贅沢品・奢侈品・祭祀用品を入手するシステムが縄文交易の特徴であると仮説します。
・交易が盛んになれば社会全体の食糧が増大し、生活環境改善が図られるという側面は大変虚弱で、縄文交易は現代社会における流通や貿易とは全く異なるシステムであると理解します。
・日常必要とする食糧の生産(農業)はほとんどないので、つまり余剰生産物が交易で流通することはないので、交易が社会の着実な発展とか、(環境危機にたいする)社会体質強化には結びつかなかったと考えます。
・逆に、縄文社会全体が食糧確保ではなく、贅沢品・奢侈品・祭祀用品生産とそれを使った祭祀活動に莫大な時間とエネルギーを消費している様子は、分不相応であり、それが主因で縄文社会は凋落したと直感します。



2020年7月26日日曜日

後晩期の集落景観

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 35

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「2 後晩期の集落景観」を学習します。

1 敷石住居の出現
・柄鏡形住居の出現
・柄鏡形住居の中には大型扁平な石を配置するものがあり、敷石住居と呼んでいる。

敷石住居
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・敷石住居は、祭祀的な様相を極度に発達させた一般家屋と捉えておくのが現状ではよいと思われる(山本1976)。
・敷石住居の出現と展開は、時間的には前後しつつもこれら(小規模集落散在と分散居住)と軌を一にする現象と捉えることができるので、その出現意義を環境変化への呪術的対応策の一環として理解するのは間違いではないだろう。
・敷石住居には巨大な石材が遠方から運び込んでいるものがあり、石を敷く行為自体に象徴的な強い意味があったと考えざるを得ない。
・遠方から石材を搬入するためには膨大な労力が必要で周辺複数の集落の人的援助が必要だったと考えられ、多くの人々を参集させる機会になり、多くに人々が参加する祭祀・儀礼が行われたはずである。
・この在り方は中期までの血縁的な関係から地縁的関係を結ぶ契機となったと考える。

2 多くなる掘立柱建物跡
・後期にはいると平地式建物と考えられる掘立柱建物が増える。
・環状盛土遺構で竪穴住居は少なく、掘立柱建物が多いという状況がある。
・大型墓域に付随する掘立柱建物は殯施設、葬祭にともなう宿泊施設なども考えられる。

3 水場遺構の発達
・後期以降水場(水さらし場)遺構検出が多くなる。

水場遺構
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・東日本の水場遺構では主にトチやクルミ出土が多い。ドングリ類の出土はあまりない。一方、西日本ではドングリ類を貯蔵した低地型所蔵穴が発達する。
・西日本と東日本では、メジャー・フードとなった堅果類に差があったことを意味している。

4 環状盛土遺構の出現
・後晩期の遺跡では、遺跡内の窪地をとりまくような形で大規模な環状のマウンドが築かれることがある。これを環状盛り土遺構と呼ぶ(図50)。

環状盛土遺構
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・環状盛土遺構を祭祀遺構とする見解は見られなくなり、集落における普通の風景として評価されることが多い。
・埋葬の場となっていたことは確実。
・沿岸部の貝塚の在り方と類似し、「貝のない貝塚」と評される(小林1999)。

5 感想
ア 漆喰が敷かれた絵鏡形住居
房総では石が入手できないため柄鏡形住居に漆喰が敷かれている住居があります。漆喰が敷石に1:1で対応するものであるのか、今後学習を深めることにします。

大膳野南貝塚の漆喰貼床の柄鏡形住居
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

大膳野南貝塚の柄鏡形住居で漆喰が敷かれるものは入植初期(称名寺式期頃)に限られます。
関東西部にみられる巨大な石を運ぶ莫大なエネルギー消費祭祀活動に対応するような活動が果たして下総台地にあるのかどうか、あるとすればそれはどのような活動であるのか、興味のある学習テーマとなります。
その活動候補例として、土器塚や低地土器塚(西根遺跡、有吉北貝塚北斜面)、白色に飾った貝塚の丘そのもの、立派なイナウ列や獣骨展示列(遺構として残りにくく、穴列遺構として検出される可能性はほとんど皆無と考えます。)(サイト「地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説」)などが考えられます。

イ 「貝の無い貝塚」の意義
詳しい検討はこれからですが、貝塚の意義が「白色に飾った貝塚の丘を来訪者に見せる」という意義があるかもしれないと想像しています。貝塚は絶えず貝が薄くまかれた白色の丘で、そこに沢山のイナウが林立しているという空想です。イナウの穴はその直径が数センチ程度ですからいくら列状になっていても、モノがなければ発掘時に着目されることはあり得ません。
同じように環状盛土遺構も盛大なイナウ列で飾っていたとしても、モノが残りませんからそれが遺構として検出されることはありません。
環状盛土遺構が来訪者にみせるための(あるいは自己満足するための)イナウ列展示装置であった可能性を念頭に(房総縄文の)学習を進めることにします。

2020年7月23日木曜日

集落立地の多様化と生存戦略

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 34

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「1 縄文社会の変質」の小見出し「集落立地の多様化と生存戦略」「広範囲における人の移動?」を学習します。

1 集落立地の多様化と生存戦略
ア 低地へ降りる
・後期になると関東地方では集落そのものが低地に降りていき、水辺を彼らの集落景観、生活領域に積極的に取り入れていく傾向がある。
・埼玉県樋ノ下遺跡、清左衛門遺跡など(後期前葉から晩期)

イ 小規模集落による分散居住
・この中期末から後期初頭にかけての気候変動に対して、当時の人々が採った生存戦略は、大型集落で多くの人口を維持するような生活様式を止め、一集落あたりの人口を減じて小規模な集落へと分散居住するというものだった。それは、後期初頭の称名寺式土器の時期(約4400年前)の集落から発見される住居跡の数が、一棟ないしは数棟にとどまるということからも推定することができる。

ウ 必ずしも気候変動によってさまざまな活動が停滞したわけではなさそうだ
・東北地方北部ではこの時期から後期前葉にかけて墓制が多様化(石棺墓、土器棺墓出現)
・青森県小牧野遺跡(環状列石)

青森県小牧野遺跡(環状列石)
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・福島県での環状集落(上納豆内遺跡)、弧状展開(田地ヶ岡遺跡)。
・群馬県での加曽利EⅢ式土器のころの大型環状列石(田篠中原遺跡、野村遺跡、久森遺跡)

2 広範囲における人の移動?
・気候変動による分散居住と連動して注意しておきたいのが、西日本における集落・住居跡数の増加である。
・京都府桑飼下遺跡などで打製石斧が多く出土するようになる現象、石囲炉を持つ隅丸方形住居出現など。
・東日本から西日本へ人の移住をうかがわせる。

3 感想
1-ア低地へ降りる について
→下総台地では集落そのものが低地に降りることは無かったようですから、埼玉県方面の特性であると理解します。

1-イ小規模集落による分散居住 について
→分散居住という生活様式が生まれた理由を次のように想像しています。(下総台地の場合)
ア 外部からの流入急増による社会統治体制崩壊であったため、集団居住(組織の維持)が困難となった。
イ 環境破壊(森林資源破壊)を伴う社会崩壊であったため、堅果類確保が困難となり、各家族が自らの堅果類採集縄張りを個別に確保する必要が生まれた。

→この記述の気候に関する矛盾。
前の小見出し「4.3kaイベント」で「気候の冷涼化は、およそ4300年前に起こり、その年代から4.3kaイベントといわれる。」と書いています。しかし、「この中期末から後期初頭にかけての気候変動に対して」の例である「称名寺式土器の時期(約4400年前)の集落」は4.3kaイベントの100年前の出来事です。
著者が「100年くらいは誤差のうち」とのんきに考えてこの図書を執筆しているとは考えたくありません。「4.3kaイベント」というありもしない気候冷涼化概念(おそらく考古関係研究費獲得のための苦肉の創作概念)を著者が真に受けたことは残念です。

2020年7月2日木曜日

4.3kaイベント

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 33

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「1 縄文社会の変質」の小見出し「遺跡数の減少」「4.3kaイベント」を学習します。

1 遺跡数の減少
・中期のおわり頃から後期の初頭になると、関東地方では環状集落のような大規模な集落はみられなくなる。また、それに応じて人口も減少し、人々は住居が一棟から数棟しかない小規模な集落に居住するようになったこともわかっている。

2 4.3kaイベント
・ちょうど中期と後期の間頃には、環境史による研究成果から気候の極端な冷涼化があったことがわかっている。この気候の冷涼化は、およそ4300年前に起こり、その年代から4.3kaイベントと言われている。
・海退による低地堆積地形の発達。
・当然ながら、食料となっていた動植物の分布の仕方も大きく変化しただろう。そして冷涼化に伴って、そのバイオマス自体も減少し、利用方法にも変化が生じたに違いない。

3 メモ
・4.3kaイベントにより海退による地形変化もあいまって関東縄文社会中期末人口減少が生起したという趣旨の記述になっています。
・4.3kaイベントという考古技術用語はこの図書で初めて知りました。
・4.3kaイベント(中期末の一時的冷涼化)を詳しく知り、それを中期末~後期初頃に当てはめて考えて、社会消長と気候変動がどのように対応するのか、しないのかぜひとも知りたくなります。
・房総では加曽利EⅡ式期に人口急増期があり、その後称名寺式期にかけて人口急減期があります。この人口急減期と4.3kaイベントが重なるということなのでしょうか?

縄文中期後半の衰退
2017.02.24記事「縄文社会崩壊プロセス学習 縄文時代中期後半の激減

・4.3kaイベントの年代詳細気温変化データが存在するのかどうか…気温変化データと土器編年データを照合できるのかどうか調べる必要があります。
・気温低下時期と人口急減期とがほぼ対応するものなのか、あるいは100年~200年くらいずれているかもしれない程度の話なのか、知りたくなります。

4 web検索
「4.3kaイベント」をwebでざっと検索したところでは考古分野でいくつかの記事がヒットします。その用語が日本考古界で使われていることを知りました。しかし、詳しくその用語を説明する(気候変動の様子を説明する)ような記事にはたどり着けませんでした。
一方、海外情報として4.3ka event あるいは4.2ka event が多数ヒットします。
次の画面はWikipedia 4.2 kiloyear eventのものです。

4.2 kiloyear event Wikipediaから引用

Global distribution of the 4.2 kiloyear event
Wikipediaから引用
The hatched areas were affected by wet conditions or flooding, and the dotted areas by drought or dust storms.

Central Greenland reconstructed temperature 
Wikipediaから引用
Unlike the 8.2-kiloyear event, the 4.2-kiloyear event has no prominent signal in the Gisp2 ice core that has an onset at 4.2 ka BP.
このWikipedia記事では上図を引用するように、4.2kaイベントに対して懐疑的な見解も紹介しています。

なお、海外webサイトをみると4.3kaイベントにたいして懐疑的な見解の説明が多く存在します。
以前学習した次図からも4.3kaイベントを見つけられません。

過去16000年間の気候変化
小林謙一 他「縄文はいつから」(新泉社)から引用

5 感想
4.3kaイベントといわれるものの実像がまだわかりませんが、そもそも実像がない虚像かもしれないという疑惑がありますが、学習上は縄文中期末人口急増、急減との関わりを検討する必要がある項目であると強く感じます。
同時に技術用語「4.3kaイベント」は自分の趣味活動視野を世界に広げる、都合の良いキーワードになりそうですから、私的学習戦略上の観点から大いに注視したいと思います。