2020年7月31日金曜日

墓制と祖霊祭祀の発達

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 38


「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「5 墓制と祖霊祭祀の発達」を学習します。

1 配石墓・石棺墓の増加
・後晩期には、日本列島域全体で墓の上部構造に石を用いる配石墓が増える。中には上部構造だけではなく、埋葬施設である下部構造にも平石を立てて石を棺桶状に並べた石棺墓と呼ばれるものもある。配石墓・石棺墓の分布域は、先に述べた敷石住居の分布と重なるところがあるが、基本的には東日本を中心としている。
・上部配石は「死者の記憶」を思い起こすことが可能となる。
・上部配石は従来の円環的な死生観とは異なる。

2 多数合葬・複葬例の意義
・いったんは個々の墓に埋葬した遺体をふたたび掘り起こして、何十体もの遺体を一ヵ所の墓に埋葬し直したもの

茨城県中妻貝塚の多数合葬・複葬例
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・中妻の例では血縁関係を示唆する個体が多くあるが、その配置等は血縁関係に留意されていない。
・関東地方で多数合葬・複葬例が行われたのは、縄文時代後期前葉の時期にほぼ限定されることもわかっている。ちょうどこの頃は、それまでの大型集落が気候変動などにより一度分解し、少人数ごとに散らばって小規模な集落を営んだ後、再度、人々が新規に結合し大型の集落が形成されるようになった時期にあたっている。
・これらの点から、私は多数合葬・複葬例を、集落が新規に開設される際に、伝統的な血縁関係者同士の墓をいったん棄却し、異なる血縁の人々と同じ墓に再埋葬することによって、生前の関係を撤廃し、新規に関係を再構築するものと考える。
・記念墓と呼ぶことにしている。

3 「記念墓」に埋葬される人々
・死者の「個人的記憶」や「社会的記憶」を消失させる、祖霊化のための埋葬・祭祀行為と位置づける

4 「記念墓」構築の契機
・「記念墓」に複葬された人々は、先にも述べたように厳選された人々であったことにも注意しておきたい。これは、当時の生きとし生ける人々がすべて等質的な存在だったわけではなかった可能性を示唆するからだ。
・また、先のような祖霊観・祖霊祭祀が成立するためには、自分たちが一族や家系などの系譜において、どのような歴史的・時間的位置にいるのかを知る必要がある。したがって、縄文時代の後半期には、このような形で系譜的な結びつきを重要視する、祖霊崇拝という新たな思想が成立していたと見られる。

5 北陸地方の環状木柱列
・「記念墓」とおそらく同様に、モニュメントとして建設された環状木柱列がある。

石川県金沢市チカモリ遺跡の環状木柱列(復元)
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

6 大型配石遺構の形成
・系譜的観点を重視する祖霊祭祀を行うためには、それに見合った規模の施設(ステージ)が必要であっただろうし、先のような墓と関連する環状列石や大型配石遺構がそのような場となったことは容易に想像できる。先の「記念墓」は、まさにその機能に特化させたモニュメントであったし、先に述べてきた大型配石遺構、環状列石にみられるような墓と連動した大型配石遺構もその類例であろう。

7 縄文ランドスケープ
大型配石遺構を中心とした祭祀空間(ステージ)をつくり出すにあたって縄文時代の人々は周辺の山などの景観や、その地点における夏至や冬至、春分・秋分といった二至二分の日の出・日の入り場所を取り入れて設計していたとする説がある。小林達雄はこのような事例を「縄文ランドスケープ」と呼んでいる(小林編2005)。

8 墓からみた後晩期の社会構造
・関東地方の中期から後期にかけての婚姻後の居住方式は、中期の妻方居住婚から後期初頭の選択的居住婚を経て、後期中葉までには夫方居住婚へと変遷したと想定されている。

日本列島域における社会構造の変遷
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

9 感想
ア 配石墓・石棺墓について
・千葉県に配石墓・石棺墓があるか確認したいと思います。それに代替する素材や構造の墓があるのかも学習したいと思います。廃屋墓では木柱(イナウ類似施設)が墓標となっていたことも考えられると大膳野南貝塚学習で感じています。

・「上部配石は従来の円環的な死生観とは異なる。」記述は疑問が生まれます。レベルの全く違う「死生観」を無理やり対立的に思考処理しているように感じます。「死者の記憶」と「円環的死生観」は全く問題なく両立すると思います。

イ 記念墓について
・千葉では中期末から後期前半にかけて集団の入れ替えがあったと学習仮説しています。その「集団入れ替え」に対応する事象が記念墓による2集団の合同であったと学習仮説します。
もともと同郷の人々が訳があってバラバラに居住し、その人々が再び結集したからといって、「記念墓」をつくるようなことは無いと考えます。

・2集団がそれぞれ一度埋葬した人骨を墓から掘り出し、同じ場所に埋葬し直すという活動は尋常な心情ではないと思います。強い対立・葛藤があり、争いがある現実を終息させる究極の知恵が「記念墓」活動であったと想像します。
つまり「記念墓」があるということは、その背景にそれほどのことをしなければ現実の争いは収まらないということを表明しているのだと思います。

・2集団の争いが支配-服属、征服-奴隷化という形で解決した地域もあったかもしれないと想像します。「記念墓」の分布がどうなっているのか、詳しく知りたいです。

・「記念墓」が作られても、その実態は外来進駐集団とそれに同調する在来集団一部の活動であり、在来集団の一部は排除されていたかもしれません。

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