2020年7月26日日曜日

後晩期の集落景観

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 35

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「2 後晩期の集落景観」を学習します。

1 敷石住居の出現
・柄鏡形住居の出現
・柄鏡形住居の中には大型扁平な石を配置するものがあり、敷石住居と呼んでいる。

敷石住居
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・敷石住居は、祭祀的な様相を極度に発達させた一般家屋と捉えておくのが現状ではよいと思われる(山本1976)。
・敷石住居の出現と展開は、時間的には前後しつつもこれら(小規模集落散在と分散居住)と軌を一にする現象と捉えることができるので、その出現意義を環境変化への呪術的対応策の一環として理解するのは間違いではないだろう。
・敷石住居には巨大な石材が遠方から運び込んでいるものがあり、石を敷く行為自体に象徴的な強い意味があったと考えざるを得ない。
・遠方から石材を搬入するためには膨大な労力が必要で周辺複数の集落の人的援助が必要だったと考えられ、多くの人々を参集させる機会になり、多くに人々が参加する祭祀・儀礼が行われたはずである。
・この在り方は中期までの血縁的な関係から地縁的関係を結ぶ契機となったと考える。

2 多くなる掘立柱建物跡
・後期にはいると平地式建物と考えられる掘立柱建物が増える。
・環状盛土遺構で竪穴住居は少なく、掘立柱建物が多いという状況がある。
・大型墓域に付随する掘立柱建物は殯施設、葬祭にともなう宿泊施設なども考えられる。

3 水場遺構の発達
・後期以降水場(水さらし場)遺構検出が多くなる。

水場遺構
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・東日本の水場遺構では主にトチやクルミ出土が多い。ドングリ類の出土はあまりない。一方、西日本ではドングリ類を貯蔵した低地型所蔵穴が発達する。
・西日本と東日本では、メジャー・フードとなった堅果類に差があったことを意味している。

4 環状盛土遺構の出現
・後晩期の遺跡では、遺跡内の窪地をとりまくような形で大規模な環状のマウンドが築かれることがある。これを環状盛り土遺構と呼ぶ(図50)。

環状盛土遺構
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・環状盛土遺構を祭祀遺構とする見解は見られなくなり、集落における普通の風景として評価されることが多い。
・埋葬の場となっていたことは確実。
・沿岸部の貝塚の在り方と類似し、「貝のない貝塚」と評される(小林1999)。

5 感想
ア 漆喰が敷かれた絵鏡形住居
房総では石が入手できないため柄鏡形住居に漆喰が敷かれている住居があります。漆喰が敷石に1:1で対応するものであるのか、今後学習を深めることにします。

大膳野南貝塚の漆喰貼床の柄鏡形住居
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

大膳野南貝塚の柄鏡形住居で漆喰が敷かれるものは入植初期(称名寺式期頃)に限られます。
関東西部にみられる巨大な石を運ぶ莫大なエネルギー消費祭祀活動に対応するような活動が果たして下総台地にあるのかどうか、あるとすればそれはどのような活動であるのか、興味のある学習テーマとなります。
その活動候補例として、土器塚や低地土器塚(西根遺跡、有吉北貝塚北斜面)、白色に飾った貝塚の丘そのもの、立派なイナウ列や獣骨展示列(遺構として残りにくく、穴列遺構として検出される可能性はほとんど皆無と考えます。)(サイト「地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説」)などが考えられます。

イ 「貝の無い貝塚」の意義
詳しい検討はこれからですが、貝塚の意義が「白色に飾った貝塚の丘を来訪者に見せる」という意義があるかもしれないと想像しています。貝塚は絶えず貝が薄くまかれた白色の丘で、そこに沢山のイナウが林立しているという空想です。イナウの穴はその直径が数センチ程度ですからいくら列状になっていても、モノがなければ発掘時に着目されることはあり得ません。
同じように環状盛土遺構も盛大なイナウ列で飾っていたとしても、モノが残りませんからそれが遺構として検出されることはありません。
環状盛土遺構が来訪者にみせるための(あるいは自己満足するための)イナウ列展示装置であった可能性を念頭に(房総縄文の)学習を進めることにします。

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