2020年8月26日水曜日

山田康弘著「縄文時代の歴史」興味コンテンツベスト10

 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 43

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)を通読したので、ふりかえり、自分が興味を持ったコンテンツベスト10を抽出してみました。

1 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)のコンテンツ

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)では目次別に小見出し毎に完結する記述が行われています。その小見出しがコンテンツの最小単位になっています。コンテンツの数は次に示す通り合計で152となります。

……………………………………………………………………

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の目次別小見出し数

はじめに…10

プロローグ 縄文時代前夜

1 ヒトはいつ「日本」にきたのか…2

2 縄文文化の母胎…2

第一章 縄文時代・文化の枠組み

1 縄文時代の時間的範囲…3

2 縄文時代・文化の空間的範囲…6

3 縄文時代・文化という概念…2

4 縄文時代の主人公の姿…2

第二章 土器使用のはじまり 草創期(Ⅰ期)

1 土器の発明がもたらしたもの…12

2 草創期における各様相…5

3 わかりはじめた植物利用のあり方…3

4 複雑な精神文化の芽生え…3

第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)

1 定住とはなにか…6

2 定型的な居住様式の確立と貝塚の形成…6

3 多様な動植物の利用…4

4 墓制・祭祀・装身具等の発達にみる精神文化…8

第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)

1 温暖化のピークから低温化安定へと向かった気候変化…2

2 低地遺跡にみる卓越した植物利用技術…6

3 環状集落の成立と大型貝塚の発達…3

4 広域交換・交易の発達…3

5 さまざまな墓制の展開…9

6 精神文化の高揚…5

第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)

1 縄文社会の変質…3

2 後晩期の集落景観…4

3 モノの流通とネットワーク…8

4 多様な祭祀の展開と精巧な祭祀・呪術具の発達…8

5 墓制と祖霊祭祀の発達…8

6 階層社会へのきざし…7

7 縄文時代・文化の終焉…2

エピローグ 縄文時代・文化の本質

1 もう一つの縄文文化…2

2 「縄文」の終焉と「弥生」の開始…7

おわりに…1

……………………………………………………………………

2 自分が興味を持ったコンテンツベスト10 【 】が小見出し

1位 第4章 5様々な墓制の展開 中期の社会構造を探る 【子どもへの投資】・・・階層化

2位 第5章 5墓制と祖霊祭祀の発達 【「記念墓」構築の契機】・・・ 異集団の統合の仕方・・・支配の仕方

3位 プロローグ 2縄文文化の母胎 【神子柴・長者久保文化】・・・旧石器と縄文の間

4位 第2章 2草創期における各様相 【フェイズ1の概観】 前田耕地遺跡など

5位 第3章 2定型的な居住様式の確立と貝塚の形成 【早期における大型住居の登場】・・・上野原遺跡

6位 第4章 2低地遺跡にみる卓越した植物利用技術 【縄文文化の研究の画期となった鳥浜貝塚の調査】・・・鳥浜貝塚

7位 第3章 4墓制・祭祀・装身具等の発達にみる精神文化 【動物祭祀の発達】

8位 第5章 3モノの流通ネットワーク 【オオツタノハにみるネットワークの広がり】

9位 第2章 1土器の発明がもたらしたもの 【土器は女性がつくったのか?】

10位 エピローグ 縄文時代・文化の本質 2「縄文」の終焉と「弥生」の開始 【灌漑水田稲作が遅れて導入された地域】

興味コンテンツベスト10がある目次「節」

3 興味を持った理由

上記ベスト10をピックアップした自分の言い訳を整理すると次のようになります。

●興味を持った理由の区分

a これまでしらなかった遺跡・遺構・遺物の知識を知り、興味を持つ

b これまで興味を持ったことがない分野や領域の知識を知り新たに興味を持つ

c これまで知らなかった調査方法や分析方法を知り興味を持つ

d 知っていた知識の最新情報や最新分析・解釈を知り興味を持つ

e これまでに抱いてきた問題意識に関連する情報であるため興味を持つ

f 疑問を抱いていた事柄に関する情報であり興味を持つ

●ベスト10の興味を持った理由

1位 【子どもへの投資】…bc 階層化

2位 【「記念墓」構築の契機】…bc 異集団の統合

3位 【神子柴・長者久保文化】…de 旧石器と縄文の間

4位 【フェイズ1の概観】…a 前田耕地遺跡

5位 【早期における大型住居の登場】…a 上野原遺跡

6位 【縄文文化の研究の画期となった鳥浜貝塚の調査】…abc 鳥浜貝塚

7位 【動物祭祀の発達】…de

8位 【オオツタノハにみるネットワークの広がり】…d

9位 【土器は女性がつくったのか?】…f

10位 【灌漑水田稲作が遅れて導入された地域】…de

4 感想

・縄文学習入門者の自分にとって山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)は必要な最新知識を体系的、かつコンパクトにまとめた大変優良な図書であることが通読してわかりました。まずは著者に感謝です。

・興味をもったコンテンツベスト10は、いわば自分の心理分析であるとわかりました。著者が考えるコンテンツの重要性などとは全く無関係です。学習入門初期の自分が面白かったものベスト10という心理分析です。

・ベスト10の上位はこれまで知らなかった知識・情報が占めています。自分が最新知識をほとんど知らなかったという状況、あるいは最新知識を知りたいという心理状況が表現されています。

・ベスト10を考えるプロセスのなかで、つまりこの図書の目次や本文を見回す中で、次のような余分な感想が生まれました。

ア 全体の情報として後期晩期の情報が充実しています。遺跡として残りやすいことが関係しているように感じます。逆にいうと草創期から中期までの縄文社会は未知の部分がとても多いということです。

イ 「中期に外来土偶祭祀が伝来して、それによって社会が激変するプロセスを歩んだ」と素人考えしていますが、この図書では前期と中期が一緒に扱われ、そのような祭祀面における激変プロセスが認識されていないように感じます。

これまでの山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習記事のサムネイル


2020年8月13日木曜日

山田康弘著「縄文時代の歴史」の「おわりに」と今後の学習

 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 42

「おわりに」を学習します。

1 おわりに

・縄文文化の本質は、後氷期における急激な温暖化、そして中期以降の冷涼化を伴いながらも総体的には安定的な気候の中で、日本列島域の各地方・各地域でそれぞれに個性的な環境適応が起こり、それと連動して、自然の資源化とその利用技術の発達が促され、さらにそれと連動して、程度の差こそあれ定着性の高い居住形態、すなわち定住生活の採用とともに、それを支える生業形態・集団構造・精神文化の発達が、そして人を含めた資源交換ネットワークの発達が、現代とは比較にならないほどの少ない人口下で継起・連鎖したという点にこそ求められる。

・縄文文化とは、日本列島域の各地で展開した多様な文化の総称。

・縄文人が「自然と共生する」という発想は現代的。縄文人の発想は人間本位で現代と変わらない。

・人口が少ないため、自然回復力が優っていた。過度の美化には慎重でありたい。

・縄文人は後世の人々の中に吸収されていった。

2 感想

・ここで提示されている縄文文化の本質をよく噛みしめて今後の縄文学習を進めていくことにします。

・現代とは比べ物にならない少ない人口での社会・文化という点も絶えず思い返したいと思います。

・42編の記事を書くという作業を通じて、山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の第1回学習を終えることができました。

kindle版山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の目次と表紙

3 今後の山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の学習方針

・自分が基礎的で総括的な縄文知識を所持していない状況にも関わらず、この図書は平易でなおかつ充実したコンテンツを提供しており、自分の学習を加速するとてもよい参考テキストでした。

・またもう少しこの図書の局部記述にとどまって学習したいと思うこともしばしばありました。

・そこで、この図書を次のような視点別に何回も読みなおして、いわば「復習」活動をすることにします。

・9月一杯をめどに、この図書にさらにベタベタと絡むことにします。

●今後の山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習の視点

ア 自分にとって学習上参考になったコンテンツベスト10のリストアップ

イ 登場する遺跡で学習上特に重要であると考えた遺跡ベスト10のリストアップ

ウ 登場する遺跡で現場や展示施設等を訪問したくなった遺跡ベスト10のリストアップ

エ 参考文献で自分にとって参考になった文献ベスト10のリストアップ

オ コンテンツに含まれる錯誤・誤謬等のベスト10のリストアップ

カ 登場する全遺跡リスト作成とマップへのプロット

キ 1回目学習で価値の大きさに気が付かなかった記述ベスト10のリストアップ

ク この図書を推薦するとしたらどの側面に価値があるか、その価値の大きさベスト10のリストアップ

ケ この図書に掲載されている写真・図表で参考になったものベスト10のリストアップ

コ この図書の嫌で嫌いな点ベスト10のリストアップ

各視点1記事でまとめるとすれば10記事掲載になります。

パソコンモニターのうち横向き3画面を連続して使ったkindle画面(紙図書7ページ分が一望できます。)

紙図書は外出時電車の中などで、自宅ではもっぱらパソコンkindle版でこの図書を読んでいます。kindle版を使うことにより学習の効率化が進んでいます。

2020年8月11日火曜日

縄文時代・文化の本質

 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 41

「エピローグ 縄文時代・文化の本質」を学習します。

1 もう一つの縄文文化

ア 後晩期の西日本縄文文化

・中国地方の縄文遺跡は少なく、検出される住居跡も2~3棟と少ない。

島根県原田遺跡の集落

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・中国地方のような小規模集落は農耕開始以前の経済段階では、世界的にみて、一般的である。

・中国地方の住居は耐久性が高いモノではなく、ずっと定住しつづけるようなものではなかったようだ。

・人口の少なさと、いざという時には集落の移動・分離・分散・合流が可能なモビリティ、この二つが中国地方の縄文集落の特徴と言えるだろう。

・「複雑な社会システム」を発達させる必要はない。

イ 小規模集落・少人口下における精神文化

・中国地方では、東日本の典型的な事例と比較して、呪術具の数が圧倒的に少ないのだ。

・物理的・精神的な不安がいっぱいあるがゆえに多くの祈りを捧げなければいけない生活と、不安を移動などの方法によってすみやかに解決し、祈る必要のない生活。どちらの方がより「人間的に豊かな生活」であると、読者の皆さんは思われるだろうか。

・縄文時代・文化の研究は、人類の来し方・歴史にはさまざまな道筋があったことを、改めて教えてくれるのだ。

2 「縄文」の終焉と「弥生」の開始

ア 弥生時代・文化の定義

・現在の学説では、弥生時代には、三つの文化が内在している。一つは、弥生文化である。残りの二つは、灌漑水田稲作がそのプロセスのいかんを問わずに入らなかった、あるいは定着しなかったと考えられる北海道に展開した続縄文文化であり、もう一つは南島域における貝塚文化(後期)である。

イ 灌漑水田稲作の導入と縄文的世界観の変化

・灌漑水田稲作を基礎とする社会システムの存在は、

 1.食糧生産地である灌漑水田および付随施設の存在、およびその規模的広がり

 2.食糧対象植物であるコメ(イネ)の存在、およびその量的安定性

 3.食糧生産地の造成や生産食糧の収穫・処理に対応する専用性の高い道具(農具)の存在

 4.生産を精神文化的側面から支える祭祀のためのさまざまな呪術具の存在

 という四つの考古学的証拠から推定することが可能である。

・利用した空間や植物は同じでも、それを使う集団関係、技術体系、およびそれを支えた思想がまったく異なったものであったのだ。そして、これこそが、縄文的な精神文化との決別を促した、そう私は考えている。

ウ 時代区分の指標としての灌漑水田稲作

・弥生時代認定の必要条件の一つが、灌漑水田稲作にあることは間違いない。また、もう一つ忘れてはならないのは、一国史の通史的理解として、弥生文化は次の古墳文化へと連続していくという視点である。そして、この二つの必要条件の間に入るのが、祭祀や精神文化面も含めた社会の複雑化・成層化という必要条件であり、この三つが揃って初めて認定十分条件となる。

エ 灌漑水田稲作を放棄した地域

青森県砂沢遺跡の水田

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・東北地方北部では、中期の段階で水田稲作をその生業形態から外してしまい(あるいは維持できなかった)、すなわち稲作にともなう社会システムを放棄したために、社会を複雑化・成層化させる方向には進まなかった。

オ 灌漑水田稲作が遅れて導入された地域

・関東地方・中部高地で灌漑水田稲作が本格化する弥生時代中期中葉に先行する時期にはアワやキビなどの雑穀栽培があった。縄文以来の石器を改変して農具化、深鉢を変形させて穀類貯蔵用の大型壺を作っている。また墓制や土偶も変容している。

・灌漑水田稲作の存在を弥生文化認定の必要条件とした場合、その開始時期は地域によって、かなり異なることがすでに判明している。そのような状況を、縄文時代から弥生時代の移行時期が地域によってずれると理解するのか、それとも弥生文化に組み入れるのか、あるいは「別の文化」として規定するのか、その点が、今や大きな問題となっている。

カ 農耕文化複合

・農耕文化複合」とは、「農耕がたんに文化要素の一つにとどまることなく、いくつかの文化要素が農耕文化的色彩を帯びて互いに緊密に連鎖的に影響しあいながら、全体として農耕文化を形成している」状況を指す。

・遅くとも弥生時代後期の段階で灌漑水田稲作を放棄したと思われる東北地方北部を弥生文化の範疇として捉えることはできず、また関東地方・中部高地は、西日本の時間軸で言うところの弥生時代中期中葉以降になって弥生文化へと移行したことになる。

キ 弥生文化の解体と脱構築

・そして、縄文時代・弥生時代に対応する文化が、縄文文化あるいは弥生文化(北海道における続縄文文化や南島の貝塚文化の問題はひとまず置くとして)一つしかないという歴史の叙述ではなく、各々の地域・時期的実情にあわせた個別の文化を、土器型式・様式や生業形態、居住形態、精神文化、社会構造のあり方などから再設定し、叙述を行う時が来ているのではないか、とも申し述べておきたい(山田2017)。

・この場合、設楽博己が述べるように、弥生文化という語をいったん棄却して、その上で、稲作・環濠集落・金属器などといった大陸由来の文化要素を中心に、西日本を中心に地域限定的に「弥生文化」(ないしは別の名称の文化)を再設定することが必要となるだろう。その際、弥生時代の中には、北海道の続縄文文化、南島の貝塚文化以外にも、本州内に複数の文化が設定されることとなる。こうして弥生時代・文化の脱構築が図られるわけだが、これについては本書のテーマから大きく外れるので、また別の機会に論じたいと思う。

3 感想

・「縄文文化が、一つしかないという歴史の叙述ではなく、各々の地域・時期的実情にあわせた個別の文化を、土器型式・様式や生業形態、居住形態、精神文化、社会構造のあり方などから再設定し、叙述を行う時が来ているのではないか。」という記述に後押しされて、素人学習ながら土偶祭祀の盛んな文化と土偶祭祀の貧弱な文化の比較を多面的に行うことにします。象徴的に言えば、加曽利貝塚北貝塚(中期、土偶貧弱)と南貝塚(後期、土偶豊富)の対比です。違う文化であると考え、構成する人も入れ替わったと考えます。

・この図書の記述では縄文人社会が「変容」して弥生文化が受け入れられたという印象を受けます。その間のよりリアルな状況を見てみたいです。特に人の移動による統治者の入れ替えがどのようにあったのか、なかったのか、知りたいです。要するに文化・技術だけが伝染病のように伝播していったのか、それとも新天地開拓を目指して既存縄文社会に切り込んだ人々がいたのかどうか?

2020年8月9日日曜日

縄文時代・文化の終焉

 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 40

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「7 縄文時代・文化の終焉」を学習します。

1 縄文時代晩期と言えば「亀ヶ岡文化」だが

・亀ヶ岡式土器とは、正式には大洞式土器という型式名で、精製土器と粗製土器がある。

大洞式土器

・大洞式土器は北海道南部から関東地方、近畿地方、さらに沖縄県まで出土する。

2 晩期の位置付け

・大洞式土器の存続は3200年前から2350年前までの850年間。

・灌漑水田稲作導入(3000年前)を弥生時代はじまりとするならば、九州の晩期は200年ほど。

・大洞A式土器の時期に一気に西日本各地に大洞式土器がひろがっている。

・亀ヶ岡文化圏の人々が水田稲作の情報をもとめて西行した可能性がある。

3 メモ

・弥生時代と縄文時代が同時異相として列島に分布していたことは大変興味深い事象です。

弥生時代と縄文時代の同時異相の様子

弥生時代と縄文時代の同時異相の様子 拡大

・千葉県の縄文晩期遺跡及び弥生時代前期遺跡が県北東部に集中して分布しています。千葉県における晩期末~弥生時代前期の頃の文化は東北方面からその影響を受けていたと学習仮説しています。

・千葉県における最初の水田稲作技術伝来は、東北方面から九十九里に伝わったと仮説しています。

ブログ花見川流域を歩く2019.07.16記事「荒海式等縄文晩期最後期の遺跡密集地

荒海式土器ヒートマップと弥生時代前期遺跡分布


2020年8月4日火曜日

階層社会へのきざし

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 39

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「6 階層社会へのきざし」を学習します。

1 社会の階層化プロセス
・階層社会とは、「一つの社会がいくつかのグループに分かれており、財貨・名誉など、有形・無形の社会的財産の分け前がグループによって違う、つまり社会的な価値が不平等に分配される社会のことである。

・社会の成層化プロセス
Ⅰ段階:単一の埋葬小群で構成される、あるいは埋葬小群が複数存在しても、装身具・副葬品がない、もしくはそれらが些少な、等質的な墓地・墓域の段階。
Ⅱ段階:埋葬小群が複数存在し、共同墓地的な様相をもちつつも、特定の個別墓に稀少性や付加価値性の高いものが集中する段階。特定の個人が発現する。
Ⅲ段階:埋葬小群が複数存在し、特定の埋葬小群に埋葬施設に対するエラボレーション(労働力の投下度合い)の高いもの、稀少性や付加価値性の高いものが集中する段階。装身具・副葬品にも大きな差異が存在し、特定の集団が浮上する。
Ⅳ段階:先の状況を踏まえて、墓域内から特定の埋葬小群が外に出る、あるいは特定埋葬小群から特定の個人たちが飛び出す段階。特定集団が突出し、エリート層が析出する。

2 キウス周堤墓群
・キウス周堤墓群は、大小八基の周堤墓から構成されており、中でも最大規模を誇る二号周堤墓は、外径七五メートル、内径三二メートル、周堤内の掘り込みから、盛り土の最頂部までの比高差は五・四メートルもある。最も小さな一二号墓でも、外径三〇メートル、内径一六メートルにも及ぶ。実際に周堤墓の内側に入ってみると、その大きさ、深さには、これが縄文時代の墓かと驚くばかりである。

北海道キウス1号周堤墓の全景
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 周堤墓が構築される社会
・当時の社会には、周堤墓に埋葬される人/埋葬されない人という差、そして周堤墓内に埋葬される人々の間には、周堤墓の中心部に埋葬される人/周堤墓の内部空間に埋葬される人/周堤上に埋葬される人という、何らかの差が存在したと想定されることになる。この場合の差とは、墓を造り営む上で投下されたさまざまな意味での「労働力」の差、実質的に格差とも言うべきものである。

4 周堤墓以降の社会
・カリンバ遺跡からは、さまざまな装身具・副葬品が出土しているが、その大部分は規模が大きく、地点的にも一ヵ所にある特定の土坑墓群に集中している(図61)。

北海道カリンバ遺跡118号墓における装身具・副葬品の出土状況
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

Ⅲ段階に達している。

・ただし、その場合の階層性が、政治的な権力(power)によるものなのか、それとも宗教的あるいは呪術的な権威(authority)によるものなのか、それとも狩猟が上手であった、あるいはヒスイなどの遠隔地交易品を持ち帰った、大きなイノシシやクマを倒したなど、後天的に獲得される何らかの威信(prestige)に基づく影響力(influence)によるものなのか、そしてその階層は生まれながらにして維持されるものなのか(ascribedstatus)、あるいは後天的な努力によって獲得されるものなのか(achievedstatus)という点については、さらなる議論が必要だ。

人を使役できる「力」と他の属性との相関
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

5 東北地方北部にみる階層化の兆候
・東北地方の北部における後期の墓制には、階層社会の存在の可能性を垣間見ることができる遺跡もいくつか存在する。

青森県水上(2)遺跡の「墳丘墓」
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

6 階層化の実態
・その階層化が集団内で常態化していた(ヒエラルヒー)のか、あるいは特定の場合にのみ強く発現するようなもの(ヘテラルヒー)に過ぎなかったのかについては、さらなる検討が必要だろう(図64)(松木二〇〇七)。

常に階層化している社会と場面によって階層化する社会
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

7 持続しなかった階層化
・なぜ階層社会は持続しなかったのだろうか。さまざまな理由が挙げられるだろうが、私が一番重要だと思っているのは人口である。階層・階級といった社会的な成層化が維持されるためには、相当程度の人口が必要である。世界各地の事例をみても、階層化・階級化した社会は数千単位以上の人口を抱えている場合が多い。それと比較して、縄文時代の集落、地域社会の人口(おそらく多くても数百人単位だろう)を考えた場合、一時的に階層化が生じたとしても、それが親から子どもに安定的に世襲され、恒常的に長期にわたって維持されるには少なすぎる(林一九九八)。それが階層社会が持続しなかった理由ではないかと私は考えている。

8 感想
・階層化といっても単純ではなく、どのようなレベルであるのかよく知る必要があることを学びました。
・階層化が持続できなかった理由が人口が少ないことであるとの指摘をよく噛みしめて学習します。遺跡・遺構・遺物にその考えを投影して、その考えについて実感できるようにしたいと思います。

2020年7月31日金曜日

墓制と祖霊祭祀の発達

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 38


「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「5 墓制と祖霊祭祀の発達」を学習します。

1 配石墓・石棺墓の増加
・後晩期には、日本列島域全体で墓の上部構造に石を用いる配石墓が増える。中には上部構造だけではなく、埋葬施設である下部構造にも平石を立てて石を棺桶状に並べた石棺墓と呼ばれるものもある。配石墓・石棺墓の分布域は、先に述べた敷石住居の分布と重なるところがあるが、基本的には東日本を中心としている。
・上部配石は「死者の記憶」を思い起こすことが可能となる。
・上部配石は従来の円環的な死生観とは異なる。

2 多数合葬・複葬例の意義
・いったんは個々の墓に埋葬した遺体をふたたび掘り起こして、何十体もの遺体を一ヵ所の墓に埋葬し直したもの

茨城県中妻貝塚の多数合葬・複葬例
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・中妻の例では血縁関係を示唆する個体が多くあるが、その配置等は血縁関係に留意されていない。
・関東地方で多数合葬・複葬例が行われたのは、縄文時代後期前葉の時期にほぼ限定されることもわかっている。ちょうどこの頃は、それまでの大型集落が気候変動などにより一度分解し、少人数ごとに散らばって小規模な集落を営んだ後、再度、人々が新規に結合し大型の集落が形成されるようになった時期にあたっている。
・これらの点から、私は多数合葬・複葬例を、集落が新規に開設される際に、伝統的な血縁関係者同士の墓をいったん棄却し、異なる血縁の人々と同じ墓に再埋葬することによって、生前の関係を撤廃し、新規に関係を再構築するものと考える。
・記念墓と呼ぶことにしている。

3 「記念墓」に埋葬される人々
・死者の「個人的記憶」や「社会的記憶」を消失させる、祖霊化のための埋葬・祭祀行為と位置づける

4 「記念墓」構築の契機
・「記念墓」に複葬された人々は、先にも述べたように厳選された人々であったことにも注意しておきたい。これは、当時の生きとし生ける人々がすべて等質的な存在だったわけではなかった可能性を示唆するからだ。
・また、先のような祖霊観・祖霊祭祀が成立するためには、自分たちが一族や家系などの系譜において、どのような歴史的・時間的位置にいるのかを知る必要がある。したがって、縄文時代の後半期には、このような形で系譜的な結びつきを重要視する、祖霊崇拝という新たな思想が成立していたと見られる。

5 北陸地方の環状木柱列
・「記念墓」とおそらく同様に、モニュメントとして建設された環状木柱列がある。

石川県金沢市チカモリ遺跡の環状木柱列(復元)
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

6 大型配石遺構の形成
・系譜的観点を重視する祖霊祭祀を行うためには、それに見合った規模の施設(ステージ)が必要であっただろうし、先のような墓と関連する環状列石や大型配石遺構がそのような場となったことは容易に想像できる。先の「記念墓」は、まさにその機能に特化させたモニュメントであったし、先に述べてきた大型配石遺構、環状列石にみられるような墓と連動した大型配石遺構もその類例であろう。

7 縄文ランドスケープ
大型配石遺構を中心とした祭祀空間(ステージ)をつくり出すにあたって縄文時代の人々は周辺の山などの景観や、その地点における夏至や冬至、春分・秋分といった二至二分の日の出・日の入り場所を取り入れて設計していたとする説がある。小林達雄はこのような事例を「縄文ランドスケープ」と呼んでいる(小林編2005)。

8 墓からみた後晩期の社会構造
・関東地方の中期から後期にかけての婚姻後の居住方式は、中期の妻方居住婚から後期初頭の選択的居住婚を経て、後期中葉までには夫方居住婚へと変遷したと想定されている。

日本列島域における社会構造の変遷
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

9 感想
ア 配石墓・石棺墓について
・千葉県に配石墓・石棺墓があるか確認したいと思います。それに代替する素材や構造の墓があるのかも学習したいと思います。廃屋墓では木柱(イナウ類似施設)が墓標となっていたことも考えられると大膳野南貝塚学習で感じています。

・「上部配石は従来の円環的な死生観とは異なる。」記述は疑問が生まれます。レベルの全く違う「死生観」を無理やり対立的に思考処理しているように感じます。「死者の記憶」と「円環的死生観」は全く問題なく両立すると思います。

イ 記念墓について
・千葉では中期末から後期前半にかけて集団の入れ替えがあったと学習仮説しています。その「集団入れ替え」に対応する事象が記念墓による2集団の合同であったと学習仮説します。
もともと同郷の人々が訳があってバラバラに居住し、その人々が再び結集したからといって、「記念墓」をつくるようなことは無いと考えます。

・2集団がそれぞれ一度埋葬した人骨を墓から掘り出し、同じ場所に埋葬し直すという活動は尋常な心情ではないと思います。強い対立・葛藤があり、争いがある現実を終息させる究極の知恵が「記念墓」活動であったと想像します。
つまり「記念墓」があるということは、その背景にそれほどのことをしなければ現実の争いは収まらないということを表明しているのだと思います。

・2集団の争いが支配-服属、征服-奴隷化という形で解決した地域もあったかもしれないと想像します。「記念墓」の分布がどうなっているのか、詳しく知りたいです。

・「記念墓」が作られても、その実態は外来進駐集団とそれに同調する在来集団一部の活動であり、在来集団の一部は排除されていたかもしれません。

2020年7月28日火曜日

多様な祭祀の展開

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 37

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「4 多様な祭祀の展開と精巧な祭祀・呪術具の発達」を学習します。

1 土器の精製化・粗製化
・後期に精製土器と粗製土器の分化
・精製土器に深鉢形、浅鉢形に加え、壺形土器、注口土器、香炉形土器、皿形土器、台付鉢形土器などが生まれる。
・祭祀には精製土器が使われる傾向が強い。

2 活発化した動物儀礼
・動植物を主体的に用いて行われたと思われる儀礼を動植物儀礼と言う。…生命の再生・狩猟の成功祈願。
・東京都西ヶ原貝塚…貝層下からイノシシ下顎、イノシシやシカの骨が面状出土、鹿角製品の意図的配置。
・千葉県西広貝塚…イノシシ頭蓋・磨石類・ハマグリ・オオノガイ・アワビ類(赤色顔料)
・東京都下宅部遺跡…弓の破損部位の上にイノシシの下顎

東京都下宅部遺跡の狩猟儀礼
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・静岡県井戸川遺跡…イノシシ・シカ・イルカ頭骨の環状配置。
・山梨県金生遺跡…ウリボウの焼けた下顎骨100個体分以上。
・動物儀礼の間接的証拠としての動物形土製品。イノシシ、トリ、サル、イヌ、マキガイ、イカ、

イノシシ形土製品
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・海獣とトリのキメラ、二本足で立つカメ。
・動物の木製品。
・埼玉県デーノタメ遺跡…クルミ形土製品
・秋田県池内遺跡…クルミ殻に線刻…植物を対象とした祭祀・呪術の想像。

参考 大膳野南貝塚のシカ頭骨列

参考 大膳野南貝塚のシカ頭骨列の復元空想図
ブログ花見川流域を歩く2018.06.27記事「貝殻・獣骨・土器片出土の意義」

3 多彩な装身具とその着装理由
・漆塗りの櫛、骨角製の笄、石製の玦状耳飾り、土製耳飾り、多種多様な素材による首飾り、鹿角製の腰飾り、トリの長管骨やイノシシの犬歯による足飾りなど。
・ボディペインティング、抜歯、入れ墨、傷身。
・強制力をもった慣習、他者との差異、他者との同一性。

4 年齢と性差による装身具の着装原理
・晩期に装身具の数は多くなる。
・壮年期と熟年期に多い。
・年齢によって着装できる装身具が決まっていた。
・土製耳飾りは大人のみ。通過儀礼毎に大きさを取り換える。
・装身具着装意義として年齢等に基づく社会的地位や立場の表示。
・老年での着装率低下から、退役や隠居の慣習存在の推定。
・男性…頭飾りと腰飾り、女性…腕飾り

5 呪術的な医療行為としての装身具着装
・岩手県宮野貝塚…頸椎病変女性人骨の首付近にイノシシの切歯犬歯の牙玉10点等の首飾り。
・関節障害部位に装身具が着装された例。
・装身具による呪術的医療行為、「お守り」。
・骨折等の整形・修復は確認できていない。

小児麻痺?罹患人骨
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

6 素材別にみた装身具
・男性ではイノシシ(犬歯)とシカ(鹿角)が多い。女性は貝が多い。
・男性では力強さ等を連想させるイノシシ、サメ、ワシ、オオカミが注目される。

7 装身具の着装原理と社会
・自己能力の拡張
・性的魅力の向上
・身体的・心理的保護(魔除け)
・地位・立場・経験の表示(集団統率者や、呪術者、勇者、特殊能力者、特殊事象経験者などを表示)

8 抜歯の意義
・見せることに本質的な意味がある。

抜歯の進行図
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

9 感想
ア 精製土器と粗製土器分化について
・中期以降特に後晩期に祭祀が独立した時間・空間として特化していったと仮想します。
それ以前は生活全体が祭祀的に営まれていたと仮想します。
外来神話の地母神殺害再生神話伝来により一気に祭祀が独立した生活項目になり、祭祀と実生活の分離が生まれ、その一環として土器の精製・粗製分化が生まれたと仮想します。

イ 動物儀礼について
・動物儀礼の意味が中期以降特に後晩期にはそれ以前と大幅に様変わりしているのではないだろうかと想像します。
・狩猟で刈り取ってきた動物の頭骨等を利用した儀礼が最初から存在する動物儀礼であると想像します。
・外来神話である地母神殺害再生神話伝来以降に、人と一緒に暮らした動物(養育したイノシシ、クマ等)を天に送る儀礼が新たに発生したのではないかと空想します。

ウ 装身具と祭祀
・装身具の特定材質や種類と呪術者(祭祀執行者)が対応していたと考えます。たとえば加曽利貝塚特殊遺構例ではヒスイ製丸玉が石棒や異形台付土器とともに出土しています。ヒスイ丸玉を着装した祭祀執行者の存在を暗示しています。


加曽利貝塚特殊遺構(112号住居跡)
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用・塗色・追記

2020年7月27日月曜日

モノの流通とネットワーク

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 36

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「3 モノの流通とネットワーク」を学習します。

1 交易の発達と特産品の生成
・ネットワークが拡大すればするほど、さまざまな資源そして各種の製品の入手が可能となる。縄文時代の経済活動は、このような集落と集落の間に張り巡らされたネットワークによって維持されていたと言っても過言ではないだろう。
・このネットワークでは、多くの情報の交換や、婚姻といった人的資源の交換も行われていたに違いない。その意味では、集団構造という縄文社会の存立基盤であったとも言うことができる。

2 塩の生鮮と流通
・後晩期の霞ヶ浦沿岸部・仙台湾周辺・陸奥湾周辺では、土器製塩が行われていた。

製塩土器と焼塩大型炉
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・生産された塩は小型の製塩土器に入れられて内陸部にも運ばれたようだ。
・製塩は周辺複数の集落の参画があったと考えられている。

3 大型石棒の生産
・岐阜県塩屋金清神社遺跡は大形石棒の生産址と考えられている。

4 縄文鉱山の開発
・長野県鷹山遺跡群(星糞峠)からは、一部、早期にまでさかのぼる可能性があるものの、縄文時代後期を中心とする黒曜石の採掘坑が多数見つかっている(図52)。

黒曜石採掘坑址
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・このような採掘跡は、秋田県樋向Ⅰ・Ⅲ遺跡、大沢Ⅱ遺跡といった上岩川遺跡群でも発見されている。こちらは時期的には前期から中期を主体としたものであり、一部には後期のものも含まれるようだ。ここでは、東北地方の石器素材としてしばしば用いられる珪質頁岩の原石を採掘していたことがわかっている。

5 オオツタノハにみるネットワークの広がり
・オオツタノハは、その生息域が伊豆諸島南部以南と大隅諸島より南の島々に限定される珍しい貝で、縄文時代にはしばしば貝輪(貝製腕飾り)の素材として利用されていた。
・オオツタノハが出土するということは、その遺跡がオオツタノハを入手できるようなネットワークを有する集落だったことを意味し、おそらくは、地域の中心的役割を担うような集落であった可能性を想定することができるだろう。

オオツタノハ
加曽利貝塚博物館展示

6 日常生活道具・装身具のブランド化
・富山県境A遺跡からは、多量の蛇紋岩製磨製石斧が出土している。その量は完成品一〇〇〇点以上、未製品にいたっては三万五〇〇〇点以上あり、境A遺跡が蛇紋岩製磨製石斧の一大生産地となっていたことがわかる。

・境A遺跡で製作されたヒスイ製大珠は、他とは形状が異なって先端部が尖っており、一目で境A遺跡産とわかる。これは縄文時代の人々にとってもそうであったと思われ、このような特殊な製品が特産品化・ブランド化していた証拠である。

・後晩期になると、たとえば長野県エリ穴遺跡や群馬県茅野遺跡などのように、大量の耳飾りを出土する遺跡が見られるようになる。また、愛知県保美貝塚などのように石鏃の大量保有という現象も、後晩期の遺跡にはしばしば見ることができる。このような、一つの集落で必要以上に単一種類の「モノ」を大量に保有している遺跡は、それを特産物・ブランド化して、交換材としていた可能性も考えることができるだろう。

7 規格品の製作
・「貝輪は大きければ大きいほどよい」わけではなく、交換材として一定の規格が存在していたことを示している。

8 集落間ネットワークの重要性
・周辺、あるいは遠隔地も含んだ大小複数の集落間でさまざまな分業や役割分担が行われ、さらには人材をも含めたモノの交換や互恵的扶助が行われていた。そしてこれらの集落を取り結んでいたネットワークが、一つの、いわば「共同体」を構成していたと考える必要があるだろう。

9 感想
・各集落ともに何らかの特産品を用意しなければ縄文社会を渡っていくことはできなかったと思います。
・特産品とはおそらく全てが贅沢品・奢侈品であり、祭祀で使われ消費されるような品が多かったと考えます。
・塩…お清めの塩、大型石棒…祭具、黒曜石…特別価値のある素材(黒曜石製品は特別扱いだったかもしれない)、オオツタノハ…(身分を示すような特別の)装身具、蛇紋岩性磨製石斧・翡翠大珠…ブランド品・高級品、耳飾り・石鏃…ブランド品
・特産品開発生産の本義はそれで食うためではなく、贅沢品・奢侈品・祭祀用品を揃えるためであったと考えます。何らかの贅沢品・奢侈品・祭祀用品を用意して、遠方でつくられる別の贅沢品・奢侈品・祭祀用品を入手するシステムが縄文交易の特徴であると仮説します。
・交易が盛んになれば社会全体の食糧が増大し、生活環境改善が図られるという側面は大変虚弱で、縄文交易は現代社会における流通や貿易とは全く異なるシステムであると理解します。
・日常必要とする食糧の生産(農業)はほとんどないので、つまり余剰生産物が交易で流通することはないので、交易が社会の着実な発展とか、(環境危機にたいする)社会体質強化には結びつかなかったと考えます。
・逆に、縄文社会全体が食糧確保ではなく、贅沢品・奢侈品・祭祀用品生産とそれを使った祭祀活動に莫大な時間とエネルギーを消費している様子は、分不相応であり、それが主因で縄文社会は凋落したと直感します。



2020年7月26日日曜日

後晩期の集落景観

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 35

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「2 後晩期の集落景観」を学習します。

1 敷石住居の出現
・柄鏡形住居の出現
・柄鏡形住居の中には大型扁平な石を配置するものがあり、敷石住居と呼んでいる。

敷石住居
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・敷石住居は、祭祀的な様相を極度に発達させた一般家屋と捉えておくのが現状ではよいと思われる(山本1976)。
・敷石住居の出現と展開は、時間的には前後しつつもこれら(小規模集落散在と分散居住)と軌を一にする現象と捉えることができるので、その出現意義を環境変化への呪術的対応策の一環として理解するのは間違いではないだろう。
・敷石住居には巨大な石材が遠方から運び込んでいるものがあり、石を敷く行為自体に象徴的な強い意味があったと考えざるを得ない。
・遠方から石材を搬入するためには膨大な労力が必要で周辺複数の集落の人的援助が必要だったと考えられ、多くの人々を参集させる機会になり、多くに人々が参加する祭祀・儀礼が行われたはずである。
・この在り方は中期までの血縁的な関係から地縁的関係を結ぶ契機となったと考える。

2 多くなる掘立柱建物跡
・後期にはいると平地式建物と考えられる掘立柱建物が増える。
・環状盛土遺構で竪穴住居は少なく、掘立柱建物が多いという状況がある。
・大型墓域に付随する掘立柱建物は殯施設、葬祭にともなう宿泊施設なども考えられる。

3 水場遺構の発達
・後期以降水場(水さらし場)遺構検出が多くなる。

水場遺構
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・東日本の水場遺構では主にトチやクルミ出土が多い。ドングリ類の出土はあまりない。一方、西日本ではドングリ類を貯蔵した低地型所蔵穴が発達する。
・西日本と東日本では、メジャー・フードとなった堅果類に差があったことを意味している。

4 環状盛土遺構の出現
・後晩期の遺跡では、遺跡内の窪地をとりまくような形で大規模な環状のマウンドが築かれることがある。これを環状盛り土遺構と呼ぶ(図50)。

環状盛土遺構
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・環状盛土遺構を祭祀遺構とする見解は見られなくなり、集落における普通の風景として評価されることが多い。
・埋葬の場となっていたことは確実。
・沿岸部の貝塚の在り方と類似し、「貝のない貝塚」と評される(小林1999)。

5 感想
ア 漆喰が敷かれた絵鏡形住居
房総では石が入手できないため柄鏡形住居に漆喰が敷かれている住居があります。漆喰が敷石に1:1で対応するものであるのか、今後学習を深めることにします。

大膳野南貝塚の漆喰貼床の柄鏡形住居
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

大膳野南貝塚の柄鏡形住居で漆喰が敷かれるものは入植初期(称名寺式期頃)に限られます。
関東西部にみられる巨大な石を運ぶ莫大なエネルギー消費祭祀活動に対応するような活動が果たして下総台地にあるのかどうか、あるとすればそれはどのような活動であるのか、興味のある学習テーマとなります。
その活動候補例として、土器塚や低地土器塚(西根遺跡、有吉北貝塚北斜面)、白色に飾った貝塚の丘そのもの、立派なイナウ列や獣骨展示列(遺構として残りにくく、穴列遺構として検出される可能性はほとんど皆無と考えます。)(サイト「地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説」)などが考えられます。

イ 「貝の無い貝塚」の意義
詳しい検討はこれからですが、貝塚の意義が「白色に飾った貝塚の丘を来訪者に見せる」という意義があるかもしれないと想像しています。貝塚は絶えず貝が薄くまかれた白色の丘で、そこに沢山のイナウが林立しているという空想です。イナウの穴はその直径が数センチ程度ですからいくら列状になっていても、モノがなければ発掘時に着目されることはあり得ません。
同じように環状盛土遺構も盛大なイナウ列で飾っていたとしても、モノが残りませんからそれが遺構として検出されることはありません。
環状盛土遺構が来訪者にみせるための(あるいは自己満足するための)イナウ列展示装置であった可能性を念頭に(房総縄文の)学習を進めることにします。

2020年7月23日木曜日

集落立地の多様化と生存戦略

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 34

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「1 縄文社会の変質」の小見出し「集落立地の多様化と生存戦略」「広範囲における人の移動?」を学習します。

1 集落立地の多様化と生存戦略
ア 低地へ降りる
・後期になると関東地方では集落そのものが低地に降りていき、水辺を彼らの集落景観、生活領域に積極的に取り入れていく傾向がある。
・埼玉県樋ノ下遺跡、清左衛門遺跡など(後期前葉から晩期)

イ 小規模集落による分散居住
・この中期末から後期初頭にかけての気候変動に対して、当時の人々が採った生存戦略は、大型集落で多くの人口を維持するような生活様式を止め、一集落あたりの人口を減じて小規模な集落へと分散居住するというものだった。それは、後期初頭の称名寺式土器の時期(約4400年前)の集落から発見される住居跡の数が、一棟ないしは数棟にとどまるということからも推定することができる。

ウ 必ずしも気候変動によってさまざまな活動が停滞したわけではなさそうだ
・東北地方北部ではこの時期から後期前葉にかけて墓制が多様化(石棺墓、土器棺墓出現)
・青森県小牧野遺跡(環状列石)

青森県小牧野遺跡(環状列石)
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・福島県での環状集落(上納豆内遺跡)、弧状展開(田地ヶ岡遺跡)。
・群馬県での加曽利EⅢ式土器のころの大型環状列石(田篠中原遺跡、野村遺跡、久森遺跡)

2 広範囲における人の移動?
・気候変動による分散居住と連動して注意しておきたいのが、西日本における集落・住居跡数の増加である。
・京都府桑飼下遺跡などで打製石斧が多く出土するようになる現象、石囲炉を持つ隅丸方形住居出現など。
・東日本から西日本へ人の移住をうかがわせる。

3 感想
1-ア低地へ降りる について
→下総台地では集落そのものが低地に降りることは無かったようですから、埼玉県方面の特性であると理解します。

1-イ小規模集落による分散居住 について
→分散居住という生活様式が生まれた理由を次のように想像しています。(下総台地の場合)
ア 外部からの流入急増による社会統治体制崩壊であったため、集団居住(組織の維持)が困難となった。
イ 環境破壊(森林資源破壊)を伴う社会崩壊であったため、堅果類確保が困難となり、各家族が自らの堅果類採集縄張りを個別に確保する必要が生まれた。

→この記述の気候に関する矛盾。
前の小見出し「4.3kaイベント」で「気候の冷涼化は、およそ4300年前に起こり、その年代から4.3kaイベントといわれる。」と書いています。しかし、「この中期末から後期初頭にかけての気候変動に対して」の例である「称名寺式土器の時期(約4400年前)の集落」は4.3kaイベントの100年前の出来事です。
著者が「100年くらいは誤差のうち」とのんきに考えてこの図書を執筆しているとは考えたくありません。「4.3kaイベント」というありもしない気候冷涼化概念(おそらく考古関係研究費獲得のための苦肉の創作概念)を著者が真に受けたことは残念です。

2020年7月2日木曜日

4.3kaイベント

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 33

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「1 縄文社会の変質」の小見出し「遺跡数の減少」「4.3kaイベント」を学習します。

1 遺跡数の減少
・中期のおわり頃から後期の初頭になると、関東地方では環状集落のような大規模な集落はみられなくなる。また、それに応じて人口も減少し、人々は住居が一棟から数棟しかない小規模な集落に居住するようになったこともわかっている。

2 4.3kaイベント
・ちょうど中期と後期の間頃には、環境史による研究成果から気候の極端な冷涼化があったことがわかっている。この気候の冷涼化は、およそ4300年前に起こり、その年代から4.3kaイベントと言われている。
・海退による低地堆積地形の発達。
・当然ながら、食料となっていた動植物の分布の仕方も大きく変化しただろう。そして冷涼化に伴って、そのバイオマス自体も減少し、利用方法にも変化が生じたに違いない。

3 メモ
・4.3kaイベントにより海退による地形変化もあいまって関東縄文社会中期末人口減少が生起したという趣旨の記述になっています。
・4.3kaイベントという考古技術用語はこの図書で初めて知りました。
・4.3kaイベント(中期末の一時的冷涼化)を詳しく知り、それを中期末~後期初頃に当てはめて考えて、社会消長と気候変動がどのように対応するのか、しないのかぜひとも知りたくなります。
・房総では加曽利EⅡ式期に人口急増期があり、その後称名寺式期にかけて人口急減期があります。この人口急減期と4.3kaイベントが重なるということなのでしょうか?

縄文中期後半の衰退
2017.02.24記事「縄文社会崩壊プロセス学習 縄文時代中期後半の激減

・4.3kaイベントの年代詳細気温変化データが存在するのかどうか…気温変化データと土器編年データを照合できるのかどうか調べる必要があります。
・気温低下時期と人口急減期とがほぼ対応するものなのか、あるいは100年~200年くらいずれているかもしれない程度の話なのか、知りたくなります。

4 web検索
「4.3kaイベント」をwebでざっと検索したところでは考古分野でいくつかの記事がヒットします。その用語が日本考古界で使われていることを知りました。しかし、詳しくその用語を説明する(気候変動の様子を説明する)ような記事にはたどり着けませんでした。
一方、海外情報として4.3ka event あるいは4.2ka event が多数ヒットします。
次の画面はWikipedia 4.2 kiloyear eventのものです。

4.2 kiloyear event Wikipediaから引用

Global distribution of the 4.2 kiloyear event
Wikipediaから引用
The hatched areas were affected by wet conditions or flooding, and the dotted areas by drought or dust storms.

Central Greenland reconstructed temperature 
Wikipediaから引用
Unlike the 8.2-kiloyear event, the 4.2-kiloyear event has no prominent signal in the Gisp2 ice core that has an onset at 4.2 ka BP.
このWikipedia記事では上図を引用するように、4.2kaイベントに対して懐疑的な見解も紹介しています。

なお、海外webサイトをみると4.3kaイベントにたいして懐疑的な見解の説明が多く存在します。
以前学習した次図からも4.3kaイベントを見つけられません。

過去16000年間の気候変化
小林謙一 他「縄文はいつから」(新泉社)から引用

5 感想
4.3kaイベントといわれるものの実像がまだわかりませんが、そもそも実像がない虚像かもしれないという疑惑がありますが、学習上は縄文中期末人口急増、急減との関わりを検討する必要がある項目であると強く感じます。
同時に技術用語「4.3kaイベント」は自分の趣味活動視野を世界に広げる、都合の良いキーワードになりそうですから、私的学習戦略上の観点から大いに注視したいと思います。

2020年6月29日月曜日

精神文化の高揚

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 32

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「6 精神文化の高揚」を学習します。

1 男と女からなる世界観の確立
・縄文時代遺物には男性性と女性性を象徴したものが多い。
・石棒を石棒を用いた祭祀の中には、性行為時の男性器のあり方、すなわち「勃起→性行為→射精→その後の萎縮」という一連の状態を擬似的に再現する、「摩擦→叩打→被熱→破壊」という動作が組み込まれていたと考えられる。
・土偶祭祀は前期からスタート。土偶出土総数は2万点で4万点存在するとしても全国平均で年間8点ほど製作された。
・土偶は妊娠した女性をかたどっている。

出産光景の土偶
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・土偶と石棒は対をなしてセットで出土した事例は乏しく、それぞれ独立した祭祀体系を有していた可能性が高い。
・大型石棒と石皿、埋甕と石棒の組み合わせで生殖行為を表現。
葬送や住居の廃絶儀礼で模擬的・象徴的な生殖行為が演じられていたとして、このような祭祀の象徴的存在である大形石棒は、祖霊観念と結びついていたとしている(谷口2006)。

動物の交尾をうつした土器
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・縄文時代の人々の残した遺物そのものやその出土状況には、男性性と女性性、そしてその交合が強く表現されている。これは、…縄文人にとっては、世の中のものが大きく男と女に区別することができ、この二つが交わることによって新たな生命が誕生し、あるいは再生されると信じていたことを表している。
・男女の交わりが病気や怪我の快癒などヒトに命だけでなくあらゆる生命の復活・再生に対しても影響を与え、効果を発揮した。
・石棒や土偶による男女交合をモチーフとした祭祀で豊穣と再生産を促すと信じられていた。

2 屈葬の意義
・屈葬は縄文時代の人々の再生観念を表している。
・日常的に目に入る場所に墓域を設けている。

埋葬姿勢
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 縄文の基本的死生観・「円環的死生観」
・土器棺墓や土器埋設遺構が縄文時代の円環的死生観を具現化している。
・土器を女性に身体(母胎)になぞらえている。
・「回帰・再生・循環」

4 生を産み出す女性の象徴としての土器

出産文土器
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

出産風景をうつした土器
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・出産とは「回帰・再生・循環」の世界観を具体的に体感できる象徴的な事象。

・土器埋設遺構に埋納されたものはヒトだけでなく動物や木の実、黒曜石、石斧などがあり、より多くあってほしい、豊かな恵みをたくさんとることができるようにという祈りであり、祭祀があった。
・出産時母親死亡は「回帰・再生・循環」の環が絶たれる精神的危機であり、妊産婦の埋葬は特殊で、呪術的対応で思想的危機を乗り越えた。

5 古くから存在した「円環的死生観」
・後期旧石器時代の沖縄県港川人は縦に割けた大きな割れ目から見つかり、そこに意図的に入れられた可能性もあり、母胎内から再生するという死生観をもっていた可能性がある。

6 メモ
・学習を進めていくうえで「回帰・再生・循環」という死生観を遺物・遺構・遺跡から汲み取ってみたり、逆に投影してみたりすることが大切だと感じました。
・男女交合が生命復活再生・恵みの豊穣再生産に不可欠な祭祀モチーフであり、その演出道具が石棒と土偶であることを知りました。


2020年6月27日土曜日

中期の社会構造

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 31

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「5 さまざまな墓制の展開」の小見出し「中期の社会構造をさぐる」「特別な人物の出現」「ヒスイとコハクの利用」「「縄文威信財」を佩用する人々」「「特別な人物」の姿」を学習します。

1 中期の社会構造をさぐる
・中期には分節構造を持つ大型の墓域が目立つ。
・中央部墓域、外側掘立柱建物、竪穴式住居が同心円状環状配置例…岩手県西田遺跡
・後期に青森県風張遺跡、秋田県高屋館遺跡など類例。

岩手県西田遺跡における企画性のある遺構配置
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・中期関東地方では廃屋墓がみられる。…加曽利EⅠ式期は関東地方の墓制の画期をなす。
・中期には「甕被り葬」が目立つ。頭部だけ持ち去る例も多い。

甕被り葬
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

・姥山貝塚接続溝一号(B9号)住居跡出土5体の分析結果解釈から、男性が他の血縁集団から参入し婚入した可能性があり、妻方居住婚が推定される。

千葉県姥山貝塚B9号住居跡における人骨出土状況
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・関東地方では中期における妻方居住婚から、後期初頭の選択的居住婚を経て、後期中葉までには夫方居住婚へ変遷したと想定されている。
・母系的な社会から双系・選系的な社会を経て父系的社会へ変化したと思われる。

・長野県棚畑遺跡(中期中葉~後葉)環状集落の土坑墓群中央部付近土壙から「縄文のビーナス」が出土している。


縄文のビーナス

・縄文のビーナス出土土壙は子ども専用墓で縄文のビーナスは子どもへの副葬品であり「子どもへの投資」として理解できる。
・近隣子ども墓からはヒスイやコハクが出土している。
・世襲的地位の継承が存在した可能性があり、縄文中期に社会的成層化が存在した可能性を無下には否定できない。

2 特別な人物の出現
・岩手県西田遺跡の環状墓域中心部土坑墓に埋葬された人々は特別な人々であった可能性がある。
・早期末から前期前葉の福井県桑野遺跡土坑墓から玦状耳飾りが出土し、それを着装できた人も特別な人であった可能性が高い。

3 ヒスイとコハク
・ヒスイ原石は新潟県糸魚川流域にしか産出しない。
・ヒスイ大珠は中期以降北陸・中部・関東地方から多く出土している。
・ヒスイ製品製作遺跡…新潟県長者ケ原遺跡(中期)、大塚遺跡(晩期)、寺地遺跡(晩期)、細池遺跡(晩期)、富山県境A遺跡(中~晩期)
・青森県三内丸山遺跡からは原石や未製品なども出土していて、特別な遺跡であった傍証となっている。
・コハク産地…千葉県銚子、岩手県久慈に限定
・長野県棚畑遺跡や梨久保遺跡などからコハク製の小玉類出土し、銚子産といわれる。

4 「縄文威信財」を佩用する人々
・ヒスイ製大珠を身に帯びたのは環状集落集団内の特定人物、おそらく最高位の人物と結びついていたと考えられている。
・千葉県有吉南貝塚甕被り葬男性人骨はイルカの下顎を利用した特殊な腰飾りを佩用していた。

イルカ下顎性腰飾り
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

・中期には地域によってはすでに「特別な人物」が存在していたようだ。

5 「特別な人物」の姿

三内丸山遺跡出土土器に描かれた人物画(右)と岩手県御所野遺跡出土土器に描かれた人物画(左)
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・右は儀式をしているシャーマン、左は昆虫の触覚状のものが伸びている。
・東日本では中期までに特別な人々が出現していたと考えられるが、どのような力を持ち、それが無条件に世襲されていたのかは今後の検討である。

6 感想
ア 甕被り葬
甕被り葬はそのまま埋葬すると故人の悪霊があの世とこの世に悪影響を及ぼすことを防ぐ霊的な葬送であると想定します。
普通ではない病死(顔や肉体が著しく変形する病気など悪霊による病気の死)とか、不慮の事故死(悪霊に殺されたと感じられるような死)などを想定します。

イ 母系社会から父系社会への変化
母系社会から父系社会への変化は次のようなイメージでとらえることができます。

母系社会から父系社会への変化イメージ
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」収録図に書き加え

加曽利EⅡ式期の人口急増とその劇的な破綻(社会崩壊)が母系社会から父系社会への転換の背景にあることは確実です。加曽利EⅡ式期をピークとする人口急増→社会崩壊が社会の在り方を根本的に変化させたと考えます。