ラベル 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2020年8月26日水曜日

山田康弘著「縄文時代の歴史」興味コンテンツベスト10

 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 43

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)を通読したので、ふりかえり、自分が興味を持ったコンテンツベスト10を抽出してみました。

1 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)のコンテンツ

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)では目次別に小見出し毎に完結する記述が行われています。その小見出しがコンテンツの最小単位になっています。コンテンツの数は次に示す通り合計で152となります。

……………………………………………………………………

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の目次別小見出し数

はじめに…10

プロローグ 縄文時代前夜

1 ヒトはいつ「日本」にきたのか…2

2 縄文文化の母胎…2

第一章 縄文時代・文化の枠組み

1 縄文時代の時間的範囲…3

2 縄文時代・文化の空間的範囲…6

3 縄文時代・文化という概念…2

4 縄文時代の主人公の姿…2

第二章 土器使用のはじまり 草創期(Ⅰ期)

1 土器の発明がもたらしたもの…12

2 草創期における各様相…5

3 わかりはじめた植物利用のあり方…3

4 複雑な精神文化の芽生え…3

第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)

1 定住とはなにか…6

2 定型的な居住様式の確立と貝塚の形成…6

3 多様な動植物の利用…4

4 墓制・祭祀・装身具等の発達にみる精神文化…8

第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)

1 温暖化のピークから低温化安定へと向かった気候変化…2

2 低地遺跡にみる卓越した植物利用技術…6

3 環状集落の成立と大型貝塚の発達…3

4 広域交換・交易の発達…3

5 さまざまな墓制の展開…9

6 精神文化の高揚…5

第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)

1 縄文社会の変質…3

2 後晩期の集落景観…4

3 モノの流通とネットワーク…8

4 多様な祭祀の展開と精巧な祭祀・呪術具の発達…8

5 墓制と祖霊祭祀の発達…8

6 階層社会へのきざし…7

7 縄文時代・文化の終焉…2

エピローグ 縄文時代・文化の本質

1 もう一つの縄文文化…2

2 「縄文」の終焉と「弥生」の開始…7

おわりに…1

……………………………………………………………………

2 自分が興味を持ったコンテンツベスト10 【 】が小見出し

1位 第4章 5様々な墓制の展開 中期の社会構造を探る 【子どもへの投資】・・・階層化

2位 第5章 5墓制と祖霊祭祀の発達 【「記念墓」構築の契機】・・・ 異集団の統合の仕方・・・支配の仕方

3位 プロローグ 2縄文文化の母胎 【神子柴・長者久保文化】・・・旧石器と縄文の間

4位 第2章 2草創期における各様相 【フェイズ1の概観】 前田耕地遺跡など

5位 第3章 2定型的な居住様式の確立と貝塚の形成 【早期における大型住居の登場】・・・上野原遺跡

6位 第4章 2低地遺跡にみる卓越した植物利用技術 【縄文文化の研究の画期となった鳥浜貝塚の調査】・・・鳥浜貝塚

7位 第3章 4墓制・祭祀・装身具等の発達にみる精神文化 【動物祭祀の発達】

8位 第5章 3モノの流通ネットワーク 【オオツタノハにみるネットワークの広がり】

9位 第2章 1土器の発明がもたらしたもの 【土器は女性がつくったのか?】

10位 エピローグ 縄文時代・文化の本質 2「縄文」の終焉と「弥生」の開始 【灌漑水田稲作が遅れて導入された地域】

興味コンテンツベスト10がある目次「節」

3 興味を持った理由

上記ベスト10をピックアップした自分の言い訳を整理すると次のようになります。

●興味を持った理由の区分

a これまでしらなかった遺跡・遺構・遺物の知識を知り、興味を持つ

b これまで興味を持ったことがない分野や領域の知識を知り新たに興味を持つ

c これまで知らなかった調査方法や分析方法を知り興味を持つ

d 知っていた知識の最新情報や最新分析・解釈を知り興味を持つ

e これまでに抱いてきた問題意識に関連する情報であるため興味を持つ

f 疑問を抱いていた事柄に関する情報であり興味を持つ

●ベスト10の興味を持った理由

1位 【子どもへの投資】…bc 階層化

2位 【「記念墓」構築の契機】…bc 異集団の統合

3位 【神子柴・長者久保文化】…de 旧石器と縄文の間

4位 【フェイズ1の概観】…a 前田耕地遺跡

5位 【早期における大型住居の登場】…a 上野原遺跡

6位 【縄文文化の研究の画期となった鳥浜貝塚の調査】…abc 鳥浜貝塚

7位 【動物祭祀の発達】…de

8位 【オオツタノハにみるネットワークの広がり】…d

9位 【土器は女性がつくったのか?】…f

10位 【灌漑水田稲作が遅れて導入された地域】…de

4 感想

・縄文学習入門者の自分にとって山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)は必要な最新知識を体系的、かつコンパクトにまとめた大変優良な図書であることが通読してわかりました。まずは著者に感謝です。

・興味をもったコンテンツベスト10は、いわば自分の心理分析であるとわかりました。著者が考えるコンテンツの重要性などとは全く無関係です。学習入門初期の自分が面白かったものベスト10という心理分析です。

・ベスト10の上位はこれまで知らなかった知識・情報が占めています。自分が最新知識をほとんど知らなかったという状況、あるいは最新知識を知りたいという心理状況が表現されています。

・ベスト10を考えるプロセスのなかで、つまりこの図書の目次や本文を見回す中で、次のような余分な感想が生まれました。

ア 全体の情報として後期晩期の情報が充実しています。遺跡として残りやすいことが関係しているように感じます。逆にいうと草創期から中期までの縄文社会は未知の部分がとても多いということです。

イ 「中期に外来土偶祭祀が伝来して、それによって社会が激変するプロセスを歩んだ」と素人考えしていますが、この図書では前期と中期が一緒に扱われ、そのような祭祀面における激変プロセスが認識されていないように感じます。

これまでの山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習記事のサムネイル


2020年8月13日木曜日

山田康弘著「縄文時代の歴史」の「おわりに」と今後の学習

 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 42

「おわりに」を学習します。

1 おわりに

・縄文文化の本質は、後氷期における急激な温暖化、そして中期以降の冷涼化を伴いながらも総体的には安定的な気候の中で、日本列島域の各地方・各地域でそれぞれに個性的な環境適応が起こり、それと連動して、自然の資源化とその利用技術の発達が促され、さらにそれと連動して、程度の差こそあれ定着性の高い居住形態、すなわち定住生活の採用とともに、それを支える生業形態・集団構造・精神文化の発達が、そして人を含めた資源交換ネットワークの発達が、現代とは比較にならないほどの少ない人口下で継起・連鎖したという点にこそ求められる。

・縄文文化とは、日本列島域の各地で展開した多様な文化の総称。

・縄文人が「自然と共生する」という発想は現代的。縄文人の発想は人間本位で現代と変わらない。

・人口が少ないため、自然回復力が優っていた。過度の美化には慎重でありたい。

・縄文人は後世の人々の中に吸収されていった。

2 感想

・ここで提示されている縄文文化の本質をよく噛みしめて今後の縄文学習を進めていくことにします。

・現代とは比べ物にならない少ない人口での社会・文化という点も絶えず思い返したいと思います。

・42編の記事を書くという作業を通じて、山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の第1回学習を終えることができました。

kindle版山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の目次と表紙

3 今後の山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の学習方針

・自分が基礎的で総括的な縄文知識を所持していない状況にも関わらず、この図書は平易でなおかつ充実したコンテンツを提供しており、自分の学習を加速するとてもよい参考テキストでした。

・またもう少しこの図書の局部記述にとどまって学習したいと思うこともしばしばありました。

・そこで、この図書を次のような視点別に何回も読みなおして、いわば「復習」活動をすることにします。

・9月一杯をめどに、この図書にさらにベタベタと絡むことにします。

●今後の山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習の視点

ア 自分にとって学習上参考になったコンテンツベスト10のリストアップ

イ 登場する遺跡で学習上特に重要であると考えた遺跡ベスト10のリストアップ

ウ 登場する遺跡で現場や展示施設等を訪問したくなった遺跡ベスト10のリストアップ

エ 参考文献で自分にとって参考になった文献ベスト10のリストアップ

オ コンテンツに含まれる錯誤・誤謬等のベスト10のリストアップ

カ 登場する全遺跡リスト作成とマップへのプロット

キ 1回目学習で価値の大きさに気が付かなかった記述ベスト10のリストアップ

ク この図書を推薦するとしたらどの側面に価値があるか、その価値の大きさベスト10のリストアップ

ケ この図書に掲載されている写真・図表で参考になったものベスト10のリストアップ

コ この図書の嫌で嫌いな点ベスト10のリストアップ

各視点1記事でまとめるとすれば10記事掲載になります。

パソコンモニターのうち横向き3画面を連続して使ったkindle画面(紙図書7ページ分が一望できます。)

紙図書は外出時電車の中などで、自宅ではもっぱらパソコンkindle版でこの図書を読んでいます。kindle版を使うことにより学習の効率化が進んでいます。

2020年7月23日木曜日

集落立地の多様化と生存戦略

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 34

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「1 縄文社会の変質」の小見出し「集落立地の多様化と生存戦略」「広範囲における人の移動?」を学習します。

1 集落立地の多様化と生存戦略
ア 低地へ降りる
・後期になると関東地方では集落そのものが低地に降りていき、水辺を彼らの集落景観、生活領域に積極的に取り入れていく傾向がある。
・埼玉県樋ノ下遺跡、清左衛門遺跡など(後期前葉から晩期)

イ 小規模集落による分散居住
・この中期末から後期初頭にかけての気候変動に対して、当時の人々が採った生存戦略は、大型集落で多くの人口を維持するような生活様式を止め、一集落あたりの人口を減じて小規模な集落へと分散居住するというものだった。それは、後期初頭の称名寺式土器の時期(約4400年前)の集落から発見される住居跡の数が、一棟ないしは数棟にとどまるということからも推定することができる。

ウ 必ずしも気候変動によってさまざまな活動が停滞したわけではなさそうだ
・東北地方北部ではこの時期から後期前葉にかけて墓制が多様化(石棺墓、土器棺墓出現)
・青森県小牧野遺跡(環状列石)

青森県小牧野遺跡(環状列石)
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・福島県での環状集落(上納豆内遺跡)、弧状展開(田地ヶ岡遺跡)。
・群馬県での加曽利EⅢ式土器のころの大型環状列石(田篠中原遺跡、野村遺跡、久森遺跡)

2 広範囲における人の移動?
・気候変動による分散居住と連動して注意しておきたいのが、西日本における集落・住居跡数の増加である。
・京都府桑飼下遺跡などで打製石斧が多く出土するようになる現象、石囲炉を持つ隅丸方形住居出現など。
・東日本から西日本へ人の移住をうかがわせる。

3 感想
1-ア低地へ降りる について
→下総台地では集落そのものが低地に降りることは無かったようですから、埼玉県方面の特性であると理解します。

1-イ小規模集落による分散居住 について
→分散居住という生活様式が生まれた理由を次のように想像しています。(下総台地の場合)
ア 外部からの流入急増による社会統治体制崩壊であったため、集団居住(組織の維持)が困難となった。
イ 環境破壊(森林資源破壊)を伴う社会崩壊であったため、堅果類確保が困難となり、各家族が自らの堅果類採集縄張りを個別に確保する必要が生まれた。

→この記述の気候に関する矛盾。
前の小見出し「4.3kaイベント」で「気候の冷涼化は、およそ4300年前に起こり、その年代から4.3kaイベントといわれる。」と書いています。しかし、「この中期末から後期初頭にかけての気候変動に対して」の例である「称名寺式土器の時期(約4400年前)の集落」は4.3kaイベントの100年前の出来事です。
著者が「100年くらいは誤差のうち」とのんきに考えてこの図書を執筆しているとは考えたくありません。「4.3kaイベント」というありもしない気候冷涼化概念(おそらく考古関係研究費獲得のための苦肉の創作概念)を著者が真に受けたことは残念です。

2020年7月2日木曜日

4.3kaイベント

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 33

「第五章 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期(Ⅳ期)」の「1 縄文社会の変質」の小見出し「遺跡数の減少」「4.3kaイベント」を学習します。

1 遺跡数の減少
・中期のおわり頃から後期の初頭になると、関東地方では環状集落のような大規模な集落はみられなくなる。また、それに応じて人口も減少し、人々は住居が一棟から数棟しかない小規模な集落に居住するようになったこともわかっている。

2 4.3kaイベント
・ちょうど中期と後期の間頃には、環境史による研究成果から気候の極端な冷涼化があったことがわかっている。この気候の冷涼化は、およそ4300年前に起こり、その年代から4.3kaイベントと言われている。
・海退による低地堆積地形の発達。
・当然ながら、食料となっていた動植物の分布の仕方も大きく変化しただろう。そして冷涼化に伴って、そのバイオマス自体も減少し、利用方法にも変化が生じたに違いない。

3 メモ
・4.3kaイベントにより海退による地形変化もあいまって関東縄文社会中期末人口減少が生起したという趣旨の記述になっています。
・4.3kaイベントという考古技術用語はこの図書で初めて知りました。
・4.3kaイベント(中期末の一時的冷涼化)を詳しく知り、それを中期末~後期初頃に当てはめて考えて、社会消長と気候変動がどのように対応するのか、しないのかぜひとも知りたくなります。
・房総では加曽利EⅡ式期に人口急増期があり、その後称名寺式期にかけて人口急減期があります。この人口急減期と4.3kaイベントが重なるということなのでしょうか?

縄文中期後半の衰退
2017.02.24記事「縄文社会崩壊プロセス学習 縄文時代中期後半の激減」

・4.3kaイベントの年代詳細気温変化データが存在するのかどうか…気温変化データと土器編年データを照合できるのかどうか調べる必要があります。
・気温低下時期と人口急減期とがほぼ対応するものなのか、あるいは100年~200年くらいずれているかもしれない程度の話なのか、知りたくなります。

4 web検索
「4.3kaイベント」をwebでざっと検索したところでは考古分野でいくつかの記事がヒットします。その用語が日本考古界で使われていることを知りました。しかし、詳しくその用語を説明する(気候変動の様子を説明する)ような記事にはたどり着けませんでした。
一方、海外情報として4.3ka event あるいは4.2ka event が多数ヒットします。
次の画面はWikipedia 4.2 kiloyear eventのものです。

4.2 kiloyear event Wikipediaから引用

Global distribution of the 4.2 kiloyear event
Wikipediaから引用
The hatched areas were affected by wet conditions or flooding, and the dotted areas by drought or dust storms.

Central Greenland reconstructed temperature 
Wikipediaから引用
Unlike the 8.2-kiloyear event, the 4.2-kiloyear event has no prominent signal in the Gisp2 ice core that has an onset at 4.2 ka BP.
このWikipedia記事では上図を引用するように、4.2kaイベントに対して懐疑的な見解も紹介しています。

なお、海外webサイトをみると4.3kaイベントにたいして懐疑的な見解の説明が多く存在します。
以前学習した次図からも4.3kaイベントを見つけられません。

過去16000年間の気候変化
小林謙一 他「縄文はいつから」(新泉社)から引用

5 感想
4.3kaイベントといわれるものの実像がまだわかりませんが、そもそも実像がない虚像かもしれないという疑惑がありますが、学習上は縄文中期末人口急増、急減との関わりを検討する必要がある項目であると強く感じます。
同時に技術用語「4.3kaイベント」は自分の趣味活動視野を世界に広げる、都合の良いキーワードになりそうですから、私的学習戦略上の観点から大いに注視したいと思います。

2020年6月29日月曜日

精神文化の高揚

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 32

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「6 精神文化の高揚」を学習します。

1 男と女からなる世界観の確立
・縄文時代遺物には男性性と女性性を象徴したものが多い。
・石棒を石棒を用いた祭祀の中には、性行為時の男性器のあり方、すなわち「勃起→性行為→射精→その後の萎縮」という一連の状態を擬似的に再現する、「摩擦→叩打→被熱→破壊」という動作が組み込まれていたと考えられる。
・土偶祭祀は前期からスタート。土偶出土総数は2万点で4万点存在するとしても全国平均で年間8点ほど製作された。
・土偶は妊娠した女性をかたどっている。

出産光景の土偶
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・土偶と石棒は対をなしてセットで出土した事例は乏しく、それぞれ独立した祭祀体系を有していた可能性が高い。
・大型石棒と石皿、埋甕と石棒の組み合わせで生殖行為を表現。
葬送や住居の廃絶儀礼で模擬的・象徴的な生殖行為が演じられていたとして、このような祭祀の象徴的存在である大形石棒は、祖霊観念と結びついていたとしている(谷口2006)。

動物の交尾をうつした土器
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・縄文時代の人々の残した遺物そのものやその出土状況には、男性性と女性性、そしてその交合が強く表現されている。これは、…縄文人にとっては、世の中のものが大きく男と女に区別することができ、この二つが交わることによって新たな生命が誕生し、あるいは再生されると信じていたことを表している。
・男女の交わりが病気や怪我の快癒などヒトに命だけでなくあらゆる生命の復活・再生に対しても影響を与え、効果を発揮した。
・石棒や土偶による男女交合をモチーフとした祭祀で豊穣と再生産を促すと信じられていた。

2 屈葬の意義
・屈葬は縄文時代の人々の再生観念を表している。
・日常的に目に入る場所に墓域を設けている。

埋葬姿勢
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 縄文の基本的死生観・「円環的死生観」
・土器棺墓や土器埋設遺構が縄文時代の円環的死生観を具現化している。
・土器を女性に身体(母胎)になぞらえている。
・「回帰・再生・循環」

4 生を産み出す女性の象徴としての土器

出産文土器
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

出産風景をうつした土器
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
・出産とは「回帰・再生・循環」の世界観を具体的に体感できる象徴的な事象。

・土器埋設遺構に埋納されたものはヒトだけでなく動物や木の実、黒曜石、石斧などがあり、より多くあってほしい、豊かな恵みをたくさんとることができるようにという祈りであり、祭祀があった。
・出産時母親死亡は「回帰・再生・循環」の環が絶たれる精神的危機であり、妊産婦の埋葬は特殊で、呪術的対応で思想的危機を乗り越えた。

5 古くから存在した「円環的死生観」
・後期旧石器時代の沖縄県港川人は縦に割けた大きな割れ目から見つかり、そこに意図的に入れられた可能性もあり、母胎内から再生するという死生観をもっていた可能性がある。

6 メモ
・学習を進めていくうえで「回帰・再生・循環」という死生観を遺物・遺構・遺跡から汲み取ってみたり、逆に投影してみたりすることが大切だと感じました。
・男女交合が生命復活再生・恵みの豊穣再生産に不可欠な祭祀モチーフであり、その演出道具が石棒と土偶であることを知りました。


2020年6月16日火曜日

広域交換・交易

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 29

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「4 広域交換・交易の発達」を学習します。

1 大型のハマ貝塚の出現
・集落貝塚、ムラ貝塚とは別に中期になるとハマ貝塚が出現。
・ハマ貝塚…東京都中里貝塚(中期主体)、伊皿子貝塚(後期)、愛知県水神貝塚(晩期)
・中里貝塚…1000m×40m、マガキ・ハマグリのみ、年間2シーズンの採貝活動の繰り返し。加工して交易につかった。

中里貝塚の貝層
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

中里貝塚の位置 地理院地図3Dモデル
土地条件図+一般地図、垂直倍率×9.9

2 海を越える黒曜石・南海産貝の交易
・神津島黒曜石…伊豆半島東海岸見高段間遺跡が陸揚げ場で各地への搬出場

神津島と見高段間遺跡の位置 地理院地図3Dモデル
写真、垂直倍率×9.9

・八丈島倉輪遺跡…オオツタノハ

3 さまざまなネットワークの発達
・複数の集落がお互いに補完しあいながら一定地域内の集落群全体として生業や生産活動をまとめていく経済のあり方、社会の紐帯を生み出していた。

4 感想
・中里貝塚、見高段間遺跡、オオツタノハに関して資料を入手してその概要を学習することにします。
・房総には中里貝塚のような交易に徹したハマ貝塚がなぜないのかその理由が知りたくなります。海岸背後に多くの集落を抱える武蔵野台地・丘陵山地と、限定された集落を抱える下総台地という地勢が大きく影響しているのでしょうか?

2020年6月7日日曜日

鳥浜貝塚など低地遺跡

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 26

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「2 低地遺跡にみる卓越した植物利用技術」の小見出し「縄文文化の研究の画期となった鳥浜貝塚の調査」「低地利用の一般化」「デーノタメ遺跡にみる土地利用」を学習します。

1 縄文文化の研究の画期となった鳥浜貝塚の調査
・海抜0m以下に縄文時代包含層が厚さ2mにわたって存在。→低地遺跡の再認識
・弓・石斧柄などの木製品、飾り櫛などの漆工芸品、ヒシや堅果類などの植物遺存体が出土。→「貧しい縄文人」イメージを一変
・淡水産貝殻層、魚骨層、堅果類層など廃棄された食物残渣(生ゴミ)が明確な層をなす。→生業形態の季節性
・植物学、動物学、各種理化学的分野による学際的研究→縄文人の年間を通じた計画的暮らし・生活のありかた、道具の使用方法などの研究レベル引き上げ

2 低地利用の一般化
・前期の山形県押出(おんだし)遺跡では低地部に盛土。
・埼玉県寿能遺跡では泥炭層の中から中期後葉以降の杭列・木道施設
→低地にアクセスしやすくするためのインフラ整備

3 デーノタメ遺跡にみる土地利用
・台地上の居住域と低地部の両方がセットで理解できる数少ない調査例。
・台地部…大きな環状集落
・低地部…「クルミ塚」、道の跡、土器を敷きつめた作業場、近くにウルシ林

4 感想
・鳥浜貝塚は早速資料を入手して学習を深めることにします。
・押出遺跡は「全国遺跡報告総覧」(奈良文化財研究所)から発掘調査報告書を入手することができました。早速学習を開始します。
・寿能泥炭層遺跡は今後資料を入手して学習を進めることにします。
・デーノタメ遺跡発掘調査報告書は北本市ホームページで公開されています。早速ダウンロードしましたので学習を開始することにします。カラー写真が多用されている見やすい発掘調査報告書です。「デーノタメ遺跡総括報告書(第1分冊、第2分冊、概要版)」(2019、埼玉県北本市教育委員会)

4つの低地遺跡
基図は地理院地図

・以前から低地遺跡出土木製品について興味がありました。2019年7月~9月には市川考古博物館で企画展「大地からのメッセージ-外かん自動車道の発掘成果-」が開催され、縄文早期後葉貝塚の遺物が展示され、展示木製品について強い興味をもちました。そのような経緯から、鳥浜貝塚、押出遺跡、寿能泥炭層遺跡、デーノタメ遺跡について参考資料を入手してよく読み、その学習結果を追ってブログ「花見川流域を歩く」の縄文社会消長分析学習の一環として記事にしたいと思います。
・木製品として祭具としてつかわれた「イナウ」が低地から出土し、それが木製品「イナウ」としては認識されていないという問題意識を密かなる軸として学習を進めたいと思います。(結果としてこの問題意識がトンチンカンなものでも、低地学習促進剤の役割をすればよいと割り切ります。)
「縄文後期イナウ似木製品の意匠と解釈-印西市西根遺跡出土品の実見・分析・考察」(2018、荒木稔)

2020年6月3日水曜日

縄文海進と人口急増

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習25

「第四章 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期(Ⅲ期)」の「1 温暖化のピークから低温化安定へと向かった気候変化」を学習します。

1 縄文海進
・約7000~5900年前の高温ピーク時には現在より気温が2度ほど高い。
・海水面はげんざいより2.5mほど高い。
・栃木県栃木市藤岡町篠山貝塚は奥東京湾最奥部貝塚。
・黒浜式土器以降気温低下するも温暖、関東ではクリ林優勢。

縄文海進の詳しい資料
「デジタルブック最新第四紀学」(日本第四紀学会)から引用

2 急激に増加した人口
・早期全人口2万人程度、前期10万人超え、中期24万人
・中期東日本(東海地方まで)227200、西日本(近畿以西)9300人

縄文時代の時期別・地域別人口
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
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追記
この人口グラフは原典掲載の北陸・四国分が欠落していて不十分なものです。中期人口24万人と文中で記述していますが、正確には26万人になります。
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3 感想
縄文海進の詳しい資料が「デジタルブック最新第四紀学」(日本第四紀学会)に掲載されていますので、今後の学習で利用します。
人口データの元資料にあたってみて、推計の方法等の学習を追って行うことにします。
各時期の全人口を遺跡別に割り振ってみて、特定遺跡の人口イメージを確かめたいとおもいます。いままでなんとなく自分が抱いていた集落の人口イメージと、専門的推計によるものとの間で大きな齟齬がありそうです。

2020年5月20日水曜日

多様な動植物の利用

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習22

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「3 多様な動植物の利用」の小見出し「食料としての動植物」「東名遺跡にみる水辺利用と貝塚」「植物の素材利用の開始」を学習します。

1 多様な動植物の利用
青森県長七谷地貝塚出土物(食べられていたもの)
ハマグリ、オオノガイ、ヤマトシジミ
ニホンジカ、ツキノワグマ、キツネ、ニホンアシカ
スズキ、クロダイ、カツオ
貯蔵穴からオニグルミ

2 東名遺跡にみる水辺利用と貝塚
佐賀県東名遺跡出土物(食べられていたもの)
貯蔵穴(水漬け保存)からイチガシ(8割)、ナラガシワとクヌギ(1割弱)
オニグルミ
スダジイ、ツルマメ
イノシシ、シカ
タヌキ、ノウサギ、アナグマ、テン、カワウソ
スズキ、ボラ、クロダイ
アユ、コイ、フナ
次の図に示すように食料をバランスよく摂取していた。

佐賀県東名遺跡出土人骨における食性分析結果
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 植物の素材利用の開始
カゴなど編組製品とその素材(樹皮、ヘギ材、シダ植物、ツル植物などが束状になったもの(素材束))が出土。

低地型貯蔵穴と編みカゴ カゴ復元品
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

4 考察と感想
4-1 長七谷地貝塚と東名遺跡の情報源
長七谷地貝塚に関して次のwebサイトから解説書をpdfファイルで入手することができました。

サイト「北海道・北東北の縄文遺跡群」
長七谷地貝塚に関する資料が掲載されているサイト

入手解説書掲載図
遺跡と縄文海進との関係が詳しく調べられているようです。

東名遺跡に関して次のサイトで解説書を閲覧することができました。

サイト「saga ebooks 東名遺跡解説パンフレット」
東名遺跡に関する資料が掲載されているサイト

東名遺跡解説資料に掲載されている地下における遺跡の状況

4-2 参考 長七谷地貝塚と東名遺跡の現在の地形

長七谷地貝塚付近の現在の地形3Dモデル
貝塚が形成されたころ、海がどこら辺にあったのか、研究成果をみればわかると予想します。

東名遺跡付近の現在の地形3Dモデル
東名遺跡で人が生活していた時、海岸線はどうなっていて、その場所から背後の山までの平地はどのように利用されてて、山はどのように利用されていたのか興味がそそられます。時間とともに地形がどのように変化したのかと、その利用を人がどのように行ったのか興味が尽きません。

4-3 感想 その1
長七谷地貝塚と東名遺跡についてさらに専門的資料を入手して詳しく学習したいと思います。
双方の遺跡の発掘調査報告書は「全国遺跡報告総覧」からはダウンロードできません。

4-4 感想 その2
長七谷地貝塚と東名遺跡ともに縄文早期後半の縄文海進が進んで海域が広がったころの遺跡です。
その頃は縄文早期前半とか最初期と比べると平地面積が極めて狭小になっています。従って、早期前半と比べると早期後半は平地におけるシカやイノシシの狩猟が困難になっています。獣肉の入手が限られるので、動物タンパクの入手という点で、どうしても漁労に頼らざるをえません。
縄文海進の影響はプラス面(良好な漁場の現出)とともに、マイナス面(良好な猟場の消失)ということも考えなければならないと考えます。

山地での狩猟では多くの人口を養えません。しかし平地での狩猟ならばある程度の人口を養えると思います。
縄文早期前半では海面高度が低く平地面積が広く存在していました。したがって狩猟による動物タンパクの摂取をある程度獣から賄えていたと考えます。
しかし海面高度上昇で平地面積が急減すると狩猟による動物タンパク摂取は気休め程度になってしまいます。その窮状をしのぐために漁労に向かわざるを得なかったと考えます。

人骨食性分析結果から「バランスよく栄養を摂取している」旨佐賀縄文人が褒められていますが、当時の縄文人の心情は「できれば獣肉で腹を一杯にしたい」のだったのだと思います。(千葉では、縄文海進ピークから海退に転じた縄文晩期には平地(干潟や砂洲)が広がり獣が増えます。そうすると漁労は下火になり、獣骨出土が増えます。)

2020年5月18日月曜日

北の大規模集落

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習21

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「2 定型的な居住様式の確立と貝塚の形成」の小見出し「北の大規模集落」「本州における様相」「集落から居住集団を推測する」を学習します。

1 北の大規模集落
「北海道八千代A遺跡からは早期前半の時期の竪穴式住居が103棟以上確認されたほか、9万点弱もの遺物が出土しており、全国的に見ても稀有な大規模な集落遺跡であることが判明している。また、北海道函館市の函館空港中野B遺跡は、津軽海峡を望む海岸の台地の上に広がる大規模な集落跡だが、そこから早期後半の事例を中心とする竪穴式住居跡が700棟以上、検出されている。住居跡の数だけをみれば、まさに縄文屈指の大集落である。」山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

2 本州の様相
「本州でも岩手県馬立Ⅰ遺跡から早期前半の住居跡が14棟、山形県二タ俣A遺跡では早期前半を主とする住居跡が18棟、群馬県多田山遺跡群では早期前葉の稲荷台式期を中心に住居跡が23棟見つかっている。」
「近畿地方でも、三重県鴻ノ木遺跡から早期前葉の住居跡が18棟確認されている。」
「中国地方でも、島根県堀田上遺跡や鳥取県取木遺跡の事例など、そのほとんどの集落が数棟程度の規模しかない。
「九州においても、その南部を除いては、竪穴式住居の検出例は少ない。」
「現状では、早期の段階においては、すでに通年的定住生活を行っていた地域と、そうでない地域があったと理解しておいた方がよいだろう。」
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

3 集落から居住集団を推測する
1つの住居に何人が生活していたかは、
居住者数=(住居跡の床面積)÷3(人が手足を大きく伸ばしたときの広さ)-1
という式でおおよそわかる。

上野原遺跡では早期住居跡の平均床面積(約7.13平方メートル)から1棟に2~3人生活していたと推定できる。1時期に6~7棟住居があったとすれば、多くとも20人程度が集落人口である。
北海道中野B遺跡では平均床面積(約15.4平方メートル)から1棟に4~5人生活していて、1時期に6棟前後の住居が同人存在していたとされるので集落人口は30人前後と推定される。
集落は2~3家族程度の人々から構成されていたと推定できる。
以上山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

4 感想
これまでの学習結果と合わせると縄文早期定住に関して、山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から次のような情報を読み取ることができます。
●貝塚が形成され本格的な定住生活が営まれていた地域…東京湾沿岸部、青森県赤御堂貝塚や長七谷地貝塚、岡山県黄島貝塚、滋賀県粟津湖底遺跡など
●早期の段階において通年的定住生活を行っている地域…九州南部の上野原遺跡付近、北海道の北海道八千代A遺跡周辺、函館空港中野B遺跡周辺など
●通年的定住生活を行っているとは考えられない地域…上記を除いた本州東北・関東・近畿・中国・九州北部など

以上の結果を地図にプロットすると次のようになります。

縄文早期大型集落と縄文早期貝塚

関東平野の縄文早期貝塚

図書に記述されていることを機械的に理解すると、九州南部と北海道及び関東の3カ所が縄文早期に定住化が全国に先駆けて進んだと考えることができます。
九州南部は列島で南に位置していて気候の温暖化が早かったという条件から定住化が早かったと理屈をつけることができます。
関東は海進の影響が顕著で漁労という有望な新たな生業を獲得できたので定住化が早かったと理屈をつけることができます。
北海道はなぜ定住化が早いのか?草創期以来の大陸からの影響が「資産」として残っていたからなのか?今一つ自分には理屈をつけることができません。

函館空港中野B遺跡については今後さらに検討を深めたいと思います。

(縄文時代の全国貝塚データを当方活動のために奈良文化財研究所から提供していただきました。感謝申し上げます。そのデータから早期に関わる遺跡を抽出してQGISでプロット図を作成しました。)


5 参考
5-1 上野原遺跡の位置

上野原遺跡の位置
webにおいて、鹿児島県立埋蔵文化財センター→埋蔵文化財情報データベース→埋蔵文化財全情報検索→遺跡分布地図検索(詳細版)→霧島市→上野原遺跡の操作で正確な遺跡位置図を入手できました。

5-2 函館空港中野B遺跡、北海道八千代B遺跡の位置

函館空港中野B遺跡の位置

北海道八千代B遺跡の位置
webで北海道オープンデータポータル→データカタログ→データセット検索→地図・GIS→埋蔵文化財包蔵地(GISデータ)【北海道】でデータをダウンロードして、QGISプロットして位置を確認できました。
webで北の遺跡案内→北の遺跡案内へ進む→地図から探す→(自治体別操作)で遺跡地図にたどり着けることもできます。

2020年5月10日日曜日

鹿児島県霧島市上野原遺跡

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習20

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「2 定型的な居住様式の確立と貝塚の形成」の「早期における大型集落の登場」を学習します。

1 早期における大型集落の登場
「多数の早期の竪穴式住居が検出され、そのうちの約10軒には約9500年前に噴火した桜島の火山灰(P13と言う)が堆積していた。このことは、一時期、10軒程度の住居が同時に存在していたことを示している。また、石蒸し炉と思われる集積遺構が39基、燻製施設と考えられる連穴土坑が16基、用途は明確ではないが土坑が260基、集落内を通る道路跡が2筋確認されている。九州地方南部では、すでにかなりの程度、安定した定住生活が営まれていたと考えてよいだろう。
 また、上野原遺跡からは土器埋設遺構も検出されている。縄文時代の遺跡を調査していると、しばしばまったく壊れていない土器を、その土器のサイズに合った大きさの土坑に意図的に埋設している遺構が出てくることがある。このような遺構を土器埋設遺構と呼び、埋められていた土器そのものを埋設土器と呼ぶ。」
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

2 上野原遺跡の土器埋設遺構の様子

上野原遺跡の地形
「国分上野原テクノパーク第3工区造成工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(Ⅰ)上野原遺跡(第10地点)」から引用

土器埋設遺構の様子
「国分上野原テクノパーク第3工区造成工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(Ⅰ)上野原遺跡(第10地点)」から引用

石斧埋納遺構の様子
「国分上野原テクノパーク第3工区造成工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(Ⅰ)上野原遺跡(第10地点)」から引用

土器埋設遺構付近の様子
「国分上野原テクノパーク第3工区造成工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(Ⅰ)上野原遺跡(第10地点)」から引用・塗色加筆

集落と祭祀空間が分離するとともに、祭祀空間では最も標高の高い場所に土器埋埋設遺構と石斧埋納遺構が分布し、その周りに石核母岩集積遺構、磨石集積遺構、集石遺構が分布し、祭祀活動の違いによる空間ゾーニングの存在が推定されます。

3 感想
・webサイト「全国遺跡報告総覧」から「国分上野原テクノパーク第3工区造成工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」(祭祀空間)及び「同第4工区」(集落空間)の全てが自由にダウンロードでき、報告書閲覧ができることは一種の感動を覚えます。考古学専門家にとって素晴らしい情報インフラが構築されています。
・全部で44のファイルをダウンロードして上野原遺跡の発掘調査報告書の全貌を眺めることはできました。
・山田康弘著「縄文時代の歴史」で力を入れて記述しているように、この遺跡の情報は興味の深まるものばかりです。
・縄文早期の集落&祭祀空間事例としてこの発掘調査報告書を折に触れて活用していくことにします。

2020年5月7日木曜日

貝塚の存在=定住生活の証拠

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習19

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「2 定型的な居住様式の確立と貝塚の形成」の「定住生活の開始」を学習します。

1 貝塚の存在=定住生活の証拠
「定住生活が進展すると、海岸部や汽水域など、貝類を捕食する地域では貝塚が形成されるようになっていた。貝塚とは、機能的には「ゴミ捨て場」だが、観念的な意味ではまた違ったようで、祭祀的な場所でもあったようだ。 貝塚が形成されるということは、生ゴミとしての貝殻が堆積するほどの期間はその場所に定住していたということに他ならない。無論、季節によって移動することもあっただろうが、その場合であっても離れては戻るといった回帰的な動きをしていないと貝層ができるほどには貝殻は堆積しない。したがって、貝塚の存在は定住生活を行っていた証拠となる。」
「このような貝塚は、すでに早期前葉の時期(遅くとも約1万1000年前)には出現しており(たとえば神奈川県夏島貝塚など)、この時期にはすでに本格的な定住生活が営まれていたとみてよいだろう。」
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

→貝塚の存在自体が年間のある一定期間は定住生活していた証拠であると述べています。
年間を通じて完全に遊動生活をしているのではなく、海岸付近に定住している期間があることを貝塚は示していると述べているのだと思います。
早期にあっては、海岸付近に定着して貝塚をつくる期間と別の場所に移動して別の生業(おそらく獣の狩猟)に励んでいたことがあると考えます。

→草創期に既に貝塚が作られていた可能性が濃厚であると考えます。しかし、草創期の海水面は-40mより低く、かつ当時の海岸線はその後の海面上昇期に侵食消失している場合がほとんどであるため、草創期貝塚を発見する可能性確率は大変小さいものであると考えます。

2 参考 縄文草創期貝塚が発見されない理由(想像)
千葉付近及び古鬼怒湾方面で縄文草創期貝塚が発見されない理由を次のように想像します。

千葉付近で縄文草創期、早期の貝塚が存在していたかもしれない台地が削平された様子

古鬼怒湾方面で縄文草創期、早期の貝塚が存在していたかもしれない台地が削平された様子

このように地史を紐解くと縄文早期前葉の貝塚(例 千葉県西の城貝塚や神奈川県夏島貝塚)の発見は極めて稀有な地形残存事象に伴う出来事として特筆すべき事柄として捉えられると考えます。
ブログ花見川流域を歩く2017.02.13記事「千葉県の貝塚学習 縄文時代早期前葉・中葉の貝塚が少ない理由」参照

2020年5月4日月曜日

早期の環境

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習18

「第三章 本格的な定住生活の確立 早期(Ⅱ期)」の「2 定型的な居住様式の確立と貝塚の形成」の「早期の環境」を学習します。

1 早期の環境 概要
・すでに温暖化が進行しつつあった。
・約11600年前に気温が突然7度ほど上昇し、完新世に突入した。
・早期当初海水面は現在より約40m低かった。
・7000年前にかけて海水面が急上昇し、現在に近い高さとなった。…沈線文系土器、条痕文系土器群(約7500年前)
・前期前葉には現在より約2.5m~3m高い位置に海水面が上昇した。

・温暖化は多様な陸上動植物相の変化をひきおこした。
・沿岸部は海進による海水域の拡大によって、入り組んだ岩礁帯や小規模な砂泥性の入り江など多様な海岸線を出現させた。
・これらの新しく出現した森林産資源と海産資源の開発によって、縄文文化は大きく発展していくことになった。

・完新世にはいってからも寒冷化があり気候的に不安定な時期があった。

・早期の古い遺跡ほど海水面下あるいは地下に没している可能性がある。…愛知県先苅貝塚、佐賀県東名遺跡。
・瀬戸内では海進が50㎝ほど。

2 感想
2-1 海水面高度の把握
この図書には次のような海水面高度が記述されています。
最終氷期…100mほど低い…7万年前から1万年前
草創期当初…50m以上低い…16500年前
早期当初…約40m低い…11500年前
前期前葉…約2.5m~3m高い…7000年前

文言だけから判断すると、海面高度はつぎのように模式的にとらえることができます。
最終氷期の最寒冷期に-100m
最寒冷期から草創期当初(16500年前)まで約50m上昇して-50m
草創期当初(16500年前)から早期当初(11500年前)まで約10m上昇して-40m
早期当初(11500年前)から前期前葉(7000年前)までに約40m上昇して+2.5m~3m
(従って、前期前葉→中期→後期→晩期は+2.5m~3mの高さから0mに至る海面低下期と捉えることができます。)

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)記述海面高度の模式表現

この情報の裏付けとなるような原典資料を探してより正確に把握したいと思います。
草創期当初が現在より「50m以上低い」となっていて-50mと言っているわけではありません。そこいらの事情をくわしく知りたいと思います。

2-2 海水面高度に対応した陸域・海域分布様子の把握
海水高度が判明すれば、その時代の陸域・海域分布の大要を把握することができます。海域水深情報から単純に縄文各期の陸域・海域分布図を作成してみることにします。グローバルな地形情報を入手して列島規模でQGISを活用して取り組みます。

2-3 土地が狭くなることの環境影響
海進によりリアス式海岸が形成され多様な海岸環境が生まれ、縄文人による海産資源開発が進んだ様子を、温暖化の影響のなかで詳しく知りたいと思います。
同時に海進により陸域の面積が急減しています。この陸域面積急減が環境にどのような影響を与えたのか、縄文社会にどのような影響を与えたのか考察したいと思います。

素人単純に考えて、陸域面積が減れば、それだけ獣の数も減るのではないでしょうか?陸域面積が減っても縄文社会人口が減らなければ(逆に温暖化で堅果類をメジャーフードにして人口が増えれば)、獣の1人当たり収穫は少なくなります。獣の収穫減少を補うためには海産物資源化を加速する必要があります。→このような陸域急減の影響が他にも多々あると考えます。
陸域面積急減の影響についての専門的考察はいままで出会ったことがありません。
なお房総では、陸域面積拡大という逆現象が縄文後晩期の海退期にありました。土地が増え(干潟の陸化)それに伴い獣が増え、それに伴い狩猟が盛んになった様子は獣骨出土量の急増として確認できます。

2-4 陸域急減の環境影響検討の独立学習プロジェクト化
次の項目学習はこの図書学習と離れて、独立した学習プロジェクトとして取り組むことにします。(ブログ「花見川流域を歩く」における「縄文社会消長分析学習」で取り組みます。)
・海水面高度に関する専門情報の入手考察
・海面高度別陸域・海域分布図作成
・土地急減の環境影響考察

2020年4月19日日曜日

わかりはじめた植物利用のあり方

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 15

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「3 わかりはじめた植物利用のあり方」を学習します。

1 わかりはじめた植物利用のあり方 概要と感想
1-1 堅果類用貯蔵穴の存在
・氷期がおわりに近づきつつあった約一万五〇〇〇年前頃、地球環境は急激な温暖化に見舞われた。
・この温暖化によって多くの植生は、冷温帯性の落葉広葉樹林に急速に置き換わっていった。この新しい森の主役はドングリを実らせるナラ類であった。
・鹿児島県の東黒土田遺跡からは、縄文時代草創期のドングリ類貯蔵穴が発見されており、これは約一万三四〇〇年前のものという年代測定結果が得られている(工藤2011)。
・食用とするのにアク抜きを必要とする種類のものであったら、この時期にまでアク抜きによる植物加工技術はさかのぼると見てよいだろう。
→フェイズ1の最寒冷期に食糧不足を少しでも補う目的で土器が(おそらく魚貝類調理のために)発明されたと想像します。その後のフェイズ2の温暖化でその土器が堅果類アク抜きに「転用」され、それが結果として縄文人の主食確保につながり縄文社会の基礎ができたと素人考えします。
本来の目的ではない別目的で発明された道具が、突然の環境変化で思いもかけない重要機能を担うようになったという現象が発生したと理解します。
このような事象つまり「別目的で作られた道具が転用により社会発展の原動力になる」が人の歴史、古今東西の歴史に多数あるのかどうか興味が湧きます。
このような事象を単なる偶然として片づけてよいものか、それとも偶然以外の法則的な現象であると捉えられるのか、興味が湧きます。
→ドングリ類のアク抜きの方法や必要量・保管方法等について詳しく学習する必要性を痛感します。膨大な量の備蓄方法など。

1-2 クリの利用開始
・縄文人は、温暖化によって植物相が変化していく中で、木材として食料として、有用な樹木であるクリをいち早く見いだしていたのである。
・この時期にノビルやギョウジャニンニクといった植物が利用されていたこともわかっている。
・他、ダイズ属(ツルマメ)の土器圧痕も検出されており、当時の人々がすでにマメ類も利用していた可能性が高い。
→クリの活用、クリ林の管理については別に詳しく学習したいと思います。

1-3 ウルシの利用開始?
・鳥浜貝塚からは、約一万二六〇〇年前のウルシ材が出土している。ウルシは、本来、日本には自生しない外来植物であることから、ウルシがすでに草創期には日本に持ち込まれていたことになる。現状では、当時ウルシが何に使われたのか判断するのはむずかしいが、樹液を採集し、石鏃と矢柄を接着したり、土器を接合したりする接着剤として使われた可能性も否定はできない。また、すでにこの段階で漆器の製作加工の技術が存在した可能性も視野に入れておいてもよいかもしれない。
→ウルシの樹液による漆器製作にはウルシ液の保温等のために土器が必須ではないだろうかと考えます。土器が先行するからこそウルシ液活用が始まったと考えてよいか学習を深めます。

2 参考 加曽利B2式土器漆パレット再利用品

西根遺跡352番土器 内面 (千葉県教育委員会所蔵)
(観察土器は放射性炭素測定資料採取のためにあらかたの漆が除去されています。)

352番土器漆付着の様子
西根遺跡発掘調査報告書から引用
出土した時の漆付着の様子写真です。
ブログ花見川流域を歩く2019.06.04記事「加曽利B2式土器 西根遺跡 漆パレット再利用品」

2020年4月13日月曜日

草創期フェイズ3の学習

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 14

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「2 草創期における各様相」の「フェイズ3におけるさまざまな展開」を学習します。

1 フェイズ3におけるさまざまな展開 概要と感想
・寒の戻りであるヤンガードリアス期の頃で、およそ一万三〇〇〇年前から一万一五〇〇年ぐらい前のことである。

参考 旧石器時代末から縄文時代にかけての狩猟具の変遷と気候変動
堤隆著「狩猟採集民のコスモロジー 神子柴遺跡」(2013、新泉社)から引用・加筆

・この時期に使用された土器…爪形文土器群、多縄文土器群、表裏縄文土器群
・「遺跡の立地をみると、山間部へと分布が拡大していくさまが読み取れる。遺跡数も以前より増加し、住居跡等の遺構の発見例も多くなる。」
→山間部への分布拡大について、後日データを見つけてその具体的状況を確認したいと思います。一般論として生活域が拡大したというレベルではなく、〇〇のために山間部まで分布が拡大したと考えられるにように学習します。寒冷化で生活が厳しくなる状況で、なぜ山間部にまで拡大したのか?なぜ住居跡等の発見が多くなる(≒遺跡増、人口増?)のか?
・「実用品である石器や土器以外にも呪術具である土偶(三重県粥見井尻遺跡・滋賀県相谷熊原遺跡)や赤色顔料を塗った土器(宮崎県清武上猪ノ原遺跡)なども出土しており、この段階で精神文化にある程度の高揚があったことは間違いないだろう。」
→精神文化の高揚と寒冷化で生活が厳しくなったという事象に関係があるような気がします。寒冷化と精神文化高揚の相関を考えてよいか?
飢えで家族が死ぬなどの厳しい場面に何回も遭遇する中で、自分の正気を保ち、困難に立ち向かう気力を保持するための心の持ち方の工夫が集団全体で営まれたと想像します。その精神的営為における産物が土偶や赤色土器であると理解しておきます。

滋賀県相谷熊原遺跡の土偶
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
土偶の乳房は、出産後赤ん坊に十分な母乳を飲ませることができて、無事育てられることを祈願していると思われます。
おそらく母乳が十分に出ないために、出産後しばらくして死してしまう赤ん坊が多かったのだと思います。
妊娠した女性が母乳がたくさん出るように乳房が大きくなるように祈願して、土器製作の合間に自ら作成したと想像します。
首のところにある穴はここに蔓のような紐を差し込んで樹液等で接着し、その紐で衣服に縛ってお守りとして肌身離さず持てるようにしたと想像します。土偶(お守り)が生活の邪魔にならないように手でできる最小限の大きにしています。
土偶(お守り)が最小限の大きさであることから、逆に、妊娠女性が自分だけで加護を祈願していたということがわかります。家族に見せるためとか、家の中に飾るとかの用を全く考えていなかったことがわかります。出産と育児の全責任が自分にあるという覚悟を持っていたことが判ります。
赤ん坊が無事育つことがいわば奇跡であり、無上の幸福であった時代であることをこの土偶が語っているのだと思います。
逆にこの土偶は、多くの出産後女性の乳房が小さく、母乳が十分に出ないので赤ん坊の多くが死んでしまう食糧事情を物語っています。

・「フェイズ3の段階における居住形態は、本格的な定住を視野に収めつつも、その段階にはまだいたっていないものと考えられるだろう。」
→三重県粥見井尻遺跡や滋賀県相谷熊原遺跡の住居について発掘調査報告書等を入手してデータを確かめて、本書記述の理解を深めたいと思います。

2 参考 縄文早期前半のバイオリン型土偶

バイオリン型土偶 小室上台遺跡出土
船橋市飛ノ台史跡公園博物館展示

2020年4月12日日曜日

草創期フェイズ2の学習

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 13

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「2 草創期における各様相」の「フェイズ2における状況」を学習します。

1 フェイズ2における状況 概要と感想
・温暖化が始まった15000年ぐらい前から13000年ぐらい前の段階。

参考 旧石器時代末から縄文時代にかけての狩猟具の変遷と気候変動
堤隆著「狩猟採集民のコスモロジー 神子柴遺跡」(2013、新泉社)から引用・加筆

・「この頃になると植生も落葉広葉樹が多くなり、遺跡も台地や丘陵地へと進出していく様相を見ることができる。この頃に使用されていた土器は、口縁部に粘土の貼り付けによってミミズ腫れのような文様を付けた隆起線文土器群と呼ばれるものである。この時期には、日本各地において遺跡数も増加し、住居跡と考えられる遺構の発見例も増えてくる。」
→台地や丘陵地は旧石器時代から主要な狩場として利用されてきていますが、フェイズ2の段階ではじめて台地や丘陵地の狩猟キャンプでも土器を利用しだしたと理解します。土器が海岸や河川での生業で使われるだけでなく、狩場近くの逗留地でも使われるということは土器の利用の幅が広がったということで、堅果類の食用に使いだしたと考えます。また土器を所持するということから1箇所に定着する期間が延びたということ、つまり定着性が進んだというとも意味すると考えます。
→温暖化による植生変化という自然事象を、土器という道具を活用することによって、生活を有利に展開する条件に変えたことが縄文文化展開の根本的な基礎であると考えます。

・「縄文時代を代表する石器である石鏃の出土数も増加する。しかしながら、石鏃が出土しない遺跡も存在するので、この段階には弓矢の使用はまだ一般化していなかったのかもしれない。」
→弓矢の発明がいつ行われたのか、その契機(背景)はなにかなど学習を深めたいと思います。
→携帯弓矢と設置型仕掛け弓との関係も研究があれば知りたいと思います。
→この時期だけ矢柄研磨器が伴うのはなぜか、その疑問に対する答えを得たいと思います。

・「九州地方南部における人々の定着性(定住化傾向)は、他地域に先駆けて強くなっていたと考えられるだろう。」
・「北海道にも本州と同じ時期に土器文化が存在したことが明らかとなった。」
→九州地方南部と北海道の遺跡事例を発掘調査報告書等により今後学習したいと思います。
→九州の事例では「植物加工に用いられたと思われる石皿や磨石類(堅果類などを敲いてすりつぶすための丸い石)が目立つようになる。」のに対して、北海道の事例では「おそらくは川をさかのぼったサケ・マス類を土器で調理した痕跡である可能性が高いとされている(Kunikita,D.etal2013)。」という対比は土器利用の主目的が時間によって変化した様子を地理的に表現しているように理解します。

2 参考 隆起線文土器及び有舌尖頭器 3Dモデル

隆起線文土器片(44図-1) 一鍬田甚兵衛山南遺跡出土 観察記録3Dモデル
撮影場所:千葉県教育庁文化財課森宮分室
撮影月日:2019.05.27
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.353 processing 52 images

有舌尖頭器(88図-30) 一鍬田甚兵衛山南遺跡出土 観察記録3Dモデル
千葉県教育委員会所蔵
撮影場所:千葉県教育庁文化財課森宮分室
撮影月日:2019.05.27
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.353 processing 42 images

一鍬田甚兵衛山南遺跡出土土器、石器を多数閲覧して3Dモデル作成用撮影を行っていますので、それを材料にして時期設定して草創期フェーズ2学習を深めたいと考えています。

2020年3月29日日曜日

草創期フェイズ1と私的学習仮説

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 11

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「2 草創期における各様相」の「フェイズ1の概観」を学習します。

1 フェイズ1の概観 概要
・約16500年前から15000年くらい前の、まだ温暖化が始まらない寒冷期で、針葉樹が卓越する環境下にある段階がフェイズ1である。
・遺跡は平野における微高地上に立地することが多く、この頃の土器は文様のない無文土器群と呼ばれるものである。
→土器を伴うこの時期の遺跡が微高地上に立地している場合が多いという意味で理解します。
→もし、土器を伴わないけれども、この時期であることが特定できる遺跡が判っていて、それが「微高地に立地することが多い」という事実が判れば、自分の思考を直ちに改めることにします。

・フェイズ1の遺跡としては、青森県大平山元Ⅰ遺跡や東京都前田耕地遺跡などを挙げることができる。遺跡数はあまり多くはなく、住居跡などの遺構の確認例も少ない。
→土器を伴わないこの時期の遺跡は特定できないから、つまりカウントできないので、このような記述になるのだと思います。
→フェイズ1に人が残した遺跡は後期旧石器時代の中でも少ないということはないと考えます。逆に技術開発が進んでいた時期ですから人口増加期であると想像します。

・大平山元Ⅰ遺跡は神子柴・長者久保文化の石器群が出土し、これに無文の土器や石鏃が伴うことが明らかになった。
・神子柴・長者久保石器群に土器が伴うことが判明し、縄文時代草創期の石器群として認知されるようになった。較正暦年代で約16500年前から15700年前という年代が測定された。
・大平山元Ⅰ遺跡からは掘り込みを持つような明確な住居跡や繰り返し使用されて被熱面が赤色化したような屋外炉等は検出されておらず、その居住形態も一ヵ所に長期にわたって定着するようなものではなかったようだ。
→大平山元Ⅰ遺跡について、この記事に続いて手持ち資料レベルで学習を深めることにします。

・大平山元Ⅰ遺跡よりはやや新しくなるものの、フェイズ1の段階の住居跡としては、東京都前田耕地遺跡から検出された二棟の住居跡がある。
・一棟は長径四・二メートル、短径三・一メートルほどの不整円形の竪穴式住居である。屋内に炉があるものの、柱穴はなく、長期にわたる定着的な生活ができたとは想定しがたい。一方で、竪穴式住居の炉からはサケのアゴの骨などが多数発見されており、この段階ですでにサケなどが多数発見されており、この段階ですでにサケのように季節によって多量に捕獲可能な水産資源が利用されていたことがわかる。
・これらの住居も、サケの捕獲など季節的かつ集約的な労働時に設営された、一時的なものであったのかもしれない。このような居住形態は、アフリカの民族誌に見られるような、食料を求めて移動を繰り返す人々(これをフォレジャーと言う)の居住形態に近いものと考えられるだろう(佐々木一九九一)。
→前田耕地遺跡は特段の興味が湧きますので、この記事に続いて手持ち資料レベルで学習を深めることにします。

東京都前田耕地遺跡の住居跡
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

サケの顎歯と前田耕地遺跡の尖頭器
堤隆著「列島の考古学 旧石器時代」(2011、河出書房新社)から引用

2 フェイズ1に関連した「私的学習仮説」設定
学習を効率的に行うために、次の私的学習仮説を設定します。今後の学習で得た知識でこの学習仮説を随時修正することにします。学習仮説設定とその修正作業により自分の知識の確からしさを高める活動を効率化します。

フェイズ1に関する私的学習仮説
1 土器が生まれた理由(背景)
1-1 土器発明は後期旧石器文化発展の一つの事象
ナイフ形石器群→細石刃石器群→神子柴・長者久保石器群という変化は狩猟の効率化や環境変化に対する適応だけでなく、居住形態、生業形態、集団構造、精神文化全般に関する社会発展を指標していると想定します。
つまり、後期旧石器文化は時間変化とともにその文化を発展させてきたと考えます。
その後期旧石器文化発展の一つの事象が土器発明であると考えます。

1-2 土器発明は魚介類資源開発の必然であると考える
後期旧石器時代に陸獣だけでなく河川や海域における魚貝類や海獣を食料にする新たな資源開発が進んだと想定します。
河川におけるサケマス漁や海域における魚漁や貝類採集において、魚油の抽出や貝の効率的調理の必要性から土器が発明されたと想定します。

1-3 最初期の土器は漁場キャンプでだけで使われたと考える
フェイズ1の頃はサケマスの漁期だけのキャンプとか魚貝類採集期だけのキャンプで土器が使われ、別の場所に移動するときに土器は持参しなかったと想定します。
従ってフェイズ1の土器出土遺跡は川のそばの微高地に限られ、その数は少なくなります。海岸における土器内包遺跡は現在マイナス100mの海底に沈んでいますから発見されることはありません。

2 土器が発明された場所
フェイズ1の土器が大陸で発見されていないこと、古北海道半島でも発見されていないこと、神子柴・長者久保石器群が大陸由来のものとされていないことから土器発明は古本州島で生じた事象であると想定します。

3 土器発明が古本州島で生じた背景
土器発明が古本州島で生じたと考えるとき、その背景として次のようなことが考えられると想定します。
ア 古本州島では海岸域(貝類)-河川中上流域(サケマス)-台地丘陵山地(陸獣)のセットが手ごろな「流域」として存在しています。その多様な自然環境を家族-集団が独占的に利用できます。したがって、貝類やサケマス資源開発が社会テーマとなった時に社会全集団がその開発に取り組むことができます。
イ 古本州島は地形が複雑であり大規模で効率的な陸獣猟が不可能であることから貝類やサケマス資源開発を促進せざるを得ない側面もあったと想定できます。
ウ 沿海州大陸では地形単位が大きく陸獣猟が効率的にできることからサケマス資源開発が遅れた可能性があります。その結果土器発明も遅れたと考えます。
エ 沿海州陸域面積に比して海岸線が短く、結氷の影響もあり貝類等海域資源開発は低調であったと想定します。海岸部利用の低調さが魚貝類資源開発の遅れになり、それが土器発明遅れに影響したと想定します。

4 フェイズ1の遺跡種類
海岸魚介漁キャンプ遺跡(石器、土器及び貝塚)…全てマイナス100m海底に水没している。
サケマス漁キャンプ遺跡(石器、土器)…前田耕地遺跡、大平山元Ⅰ遺跡
陸獣猟キャンプ遺跡(石器)…土器が出土しない神子柴・長者久保石器群出土遺跡の多く

参考 旧石器時代末から縄文時代にかけての狩猟具の変遷と気候変動
堤隆著「狩猟採集民のコスモロジー 神子柴遺跡」(2013、新泉社)から引用

2020年3月28日土曜日

縄文土器の文様

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 10

「第二章 土器使用のはじまり 草創期(Ⅰ期)」の「1 土器の発明がもたらしたもの」の後半を学習します。

1 土器が製作された場所
・縄文全時期を通して、土器の胎土は出土遺跡周辺の地質と類似することが多く、土器は基本的に各地域において製作、消費された可能性が高い(河西2008)。

2 土器の登場の歴史的意義
・世界各地の事例を見ると、すでに旧石器時代にも粘土を焼成して、土偶(ビーナス像)や動物像を製作する技術が存在していたことがわかっている。
→具体例を、機会をみつけて調べてみることにします。
→土器が発明されるはるか以前から土製品がつくられていたことを初めて知りました。

・土器の登場は、幾多の試行錯誤の上に達成された出来事であった。そしてそれはさまざまな資源、道具類の開発・増産を導くことになる、画期的な技術の成立をも射程に入れるものだった。その意味で、土器の登場の歴史的意義は大きい。
→この記述部分について深く学習したい欲が強まりますが、どこに学習材料があるのか知りません。
→土器発明→食糧事情や栄養事情の改善→肉体的・精神的な余裕の発生→生活・活動の改善や道具・社会組織における発明発見の招来→社会発展(人口増加)という好循環が生まれていたに違いありません。

3 縄文土器の文様
・なぜ縄文土器にはさまざまな文様が描かれたのだろうか。この点についてはまだ未解明な点が多いが、アメリカ先住民の事例を参考として、縄文土器の文様が何らかの意味やメッセージを持っていたと考える研究者もいる(小林1977、佐原1987)。たとえば、青森県薬師前遺跡から出土した土器棺には、あたかもワラビが発芽し、芽吹いていく様子を描いたような文様が連作で描かれている(図11)。これなどは、発芽する場面を描くことで生命の再生を祈念したものかもしれない。

図11
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・いくつもの芸術作品をみてもわかるように、現代においてもさまざまな抽象的造形物に具体的な意味やメッセージを込めることは多い。もはや詳細にそれを読み解く術はないが、われわれと同じホモ・サピエンスである縄文人が、土器の器形や文様に何らかの意味やさまざまなメッセージ、場合によっては物語や神話といったものを託していたという可能性は十分にありえると私も考えている。

→著者の記述とは裏腹に、考古学者や専門家の多くは土器文様の意味解明について熱心ではありません。一言でいえば科学的手続きに従えば明快な答えが出るという筋のものではないことが最初から分かっているからです。
→ズバリ言えば、土器文様にいくら意味がありそうでも、興味がうまれても、それにかかわっていては「論文がかけない」「出世できない」からだと思います。その世界にいる人は、土器文様の意味解明に乗り出すとおそらく上司や指導者から快く思われないにちがいありません。
→土器文様の意味を解明することは縄文人の本質を知ることに直結し、大いに意義があります。同時に狭義考古学が太刀打ちできないことは明らかです。無意識解明を含んだ心理学とか神話学とかいろいろな知識援用が必要になります。
→清瀬市郷土博物館内田裕治先生著作は土器文様解明に取り組む素晴らしい活動であると知り、今後その学習を開始したいと思っています。
「柳瀬川縄文ロマン展」2019年11月2日~24日開催 縄文土器編 ホームページ公開版

土器文様に関する私の興味例

称名寺式土器(千葉市餅ヶ崎遺跡)
加曽利貝塚博物館展示物
密生する植物が繁茂する様子を表現しているように感じます。最下段は垂れ下がる実、中段は双葉と右側に伸びる芽を、上段は双葉と左側に伸びる芽を表現しているように感じます。上段左の双葉だけ葉先が上を向いていて特に成長がよく、それがこの土器の正面を示しています。空想を重ねれば、育てている食料としてのマメ類植物を描いているのかもしれません。
2020.02.15記事「許可撮影 称名寺式深鉢形土器(千葉市餅ヶ崎遺跡)観察記録3Dモデル」

縄文中期中葉深鉢形土器(飯田市大明神原遺跡)
飯田市上郷考古博物館展示物
男女交合の異なる体位(の局部の様子)が2つ観察できるように感じます。見えない背面にさらに2つ別の体位が描かれていると推測します。
女性が料理を家族によりおいしく食べさせるために、料理道具としての土器をより豪華にしたのだと思います。土器に子孫繁栄をイメージできるおめでたい文様として男女交合の様子を描きこんだと考えます。
2020.01.05記事「縄文中期中葉深鉢形土器(飯田市大明神原遺跡)の模様観察」

藤内式深鉢形土器(伊那市金鋳場遺跡)
伊那市創造館展示物

文様検討
A-a→B-b→C-c→D-dというような大きな模様対応関係があり、起承転結4場面の物語・神話とか、四季に対応した自然や人の生業活動の表現があるような感じを受けます。
類似パネル文土器の文様を多数集めて比較検討すれば、模様構成要素が多数あるだけに、何らかの有用な情報が必ずや獲得できるように素人考えします。
2020.02.02記事「藤内式深鉢形土器(伊那市西箕輪 金鋳場遺跡)の展開写真」

4 縄文土器の型式と編年

小林達雄編「総覧縄文土器」から引用

5 縄文時代の社会を考えるための視点
・私は、それらの要素のうちから居住形態、生業形態、集団構造、精神文化の四つを取り上げて、これまで叙述を行ってきた(山田1999・2002など)。
→居住形態、生業形態、集団構造、精神文化の4つの視点でこの図書の学習を進めたいと思います。