2018年2月28日水曜日

猪と蛇の対峙

猪の文化史考古編 4

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第1章猪造形を追って 2神となった動物たち (2)土器に描かれた物語 ①深鉢形土器の猪」の第1回目学習をします。
前記事と同じく、学習といっても土器スケッチ・写真を絵として理解するという視覚的確認作業(=スケッチ・絵の観賞)です。

1 土器に描かれた物語
縄文時代中期中頃、山梨・長野を中心とした中部山岳地帯に豪華で文様の立体表現と複雑さが加わった比類なき土器群が発達する。
その中に猪造形が含まれ、多くは蛇や女神とともに土器全面に展開する文様構成の要素として登場する。
小林公明氏はこの種の一連の文様から縄文神話の存在を読み取り、その物語の復元を試みた(小林1991)。
文様解読にはいくつかの段階があり、動物に当てはめると次のようになる。
1 誰でも動物の種類がわかる
2 ややデザイン化しているが元の動物名はわかる
3 相当に文様化しているが、全体の構成からその動物と理解できる
4 蓄積された知識からなんとか推測できる
この4つのケースは1から4へ縄文人の思考が具体から神話的世界に入る様子を、あるいはその動物の能力がより神話的表現へ進んでいく段階を意味するとも考えられる。

2 深鉢形土器の猪
2-1 山梨県安道寺遺跡の深鉢形土器

山梨県安道寺遺跡の深鉢形土器 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
正面から見て平らな鼻と2つ丸い孔から豚のようであり、だれしも猪を思い浮かべる。これは動物表現1にあたる。
しかし全体構成は複雑で、リアルな猪顔面の下のうねりは蛇を表していて「イノヘビ」といえるような縄文人が作り出した想像上の動物になっている。蛇は牙があり喉を大きく開いた様子になっている。イノシシの反対側口縁に蛙の足だけが表現されている。
天敵関係にある蛙→蛇→猪の合体や共存が描かれている。
縄文人が作り上げた物語が綴られているとしか考えられない。

2-2 長野県丸山南遺跡の樽形土器

長野県丸山南遺跡の樽形土器 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
蛙の片足に食いついた蛇という構図が描かれている。

2-3 山梨県上の平遺跡の土器

山梨県上の平遺跡の土器 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用

参考 山梨県上の平遺跡の土器 画像調整
元写真が暗いので画像調整して細部確認ができるようにしました。

猪と蛇が向かい合った構成となっている。土器の口縁の上に高く飛び出した蛇、その反対側に低く対峙する猪の構図となっている。蛇は1及び2の段階で2匹の蛇かもしれない。猪は写実性から離れ相当にデザイン化していることから3ないし4の段階であるが、全体の「ずんぐりむっくり」とした体形の表現は猪の特徴がよくつかまれている。
蛇は高く首を掲げ、猪は低く構える。ここには縄文人だけが知っているストーリーが隠されている。

2-4 埼玉県羽沢遺跡の深鉢形土器

埼玉県羽沢遺跡の深鉢形土器 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用

埼玉県羽沢遺跡の深鉢形土器 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
猪と蛇の対峙土器で猪は上の平遺跡よりリアルに表現されている。蛇は蛇というイメージは薄く動物表現は3から4の段階であるが、裏側からみると蛇であると理解できる。
猪側からみると2つの大きな目をもった奇怪な造形となり、人面装飾の一つの表現としてみてもよい。人面あるいは女神の頭に蛇が乗るという「構成」の一つである。猪は女神と一体となった蛇と向かい合っている。

2-5 東京都野塩前原遺跡の土器

東京都野塩前原遺跡の土器 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
蛇の部分は壊れていて詳しいことはわからない。猪は上の平遺跡によく似ているが、さらに省略が進んだものとみられる。

つづく

2018年2月21日水曜日

猪、再び土器へ

猪の文化史考古編 3

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第1章猪造形を追って 2神となった動物たち (1)猪、再び土器へ」の学習をします。
学習といっても土器スケッチ図版を絵として理解し、その絵理解と説明文章を対応させるという基礎確認作業(=スケッチ観賞)です。
通常図書におけるよりも図版縮小が著しいため、このような図版を見慣れない自分にとっては図版の拡大による理解がどうしても必要です。図版の拡大は視力の良し悪しとは関係なく、理解を深めるためには(思考を深めるためには)自分にとってどうしても必要なことです。

「第1章猪造形を追って 2神となった動物たち (1)猪、再び土器へ」では土器から猪が消え、しばらくの時が流れた前期終末から中期の初期頃に猪が再登場し、さらに蛇も加わって土器をにぎわす様子を説明しています。
中期中葉には猪と蛇の造形が盛行するのですが、その造形が前期終末・中期初頭という時期に始まることの重要性を指摘しています。
それは縄文人が抱いた二つの動物、それに連なる縄文神話の土器への表現がこの時期に始まるという、画期を示すように思われるからであるとしています。

1 吻端(鼻先)を上に向けた獣面

吻端(鼻先)を上に向けた獣面 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
「これはなんとなく猪のイメージが漂う。」

2 獣面の装飾

獣面の装飾 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
「これは猪というよりも蛇とみられるものである。」

3 奇怪な動物顔面装飾

奇怪な動物顔面装飾 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用

「猪なのか蛇なのか、はたまた熊なのか。」 

4 奇怪な動物顔面装飾

奇怪な動物顔面装飾 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用

「猪なのか蛇なのか、はたまた熊なのか。」 

5 奇怪な動物顔面装飾

奇怪な動物顔面装飾 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用

「猪なのか蛇なのか、はたまた熊なのか。」

6 獣面付き土器

獣面付き土器  「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
「クマやコウモリなどの意見もあるが、鼻先の表現からは猪とみておきたい。なにやら可愛らしい猪でもある。」

7 人の顔とされている破片

人の顔とされている破片 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
「猪の可能性がある。」

8 口縁部を這うリアルな蛇の造形

口縁部を這うリアルな蛇の造形 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
「三角形の頭部や全体の表現から蝮とみてよかろう。」

9 蛇とみられる表現

蛇とみられる表現 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用

10 不思議な動物表現

不思議な動物表現
「小島俊彰氏はヤモリの類を想定するが、小野正文氏は「猪頭蛇尾」という表現で、縄文人が作り出した想像上の動物と考えている。」

11 不思議な動物表現

不思議な動物表現 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
「10と同じ見方ができる。」
この図版だけ動物イメージ(頭部表現の動物らしさ)がどうしても湧きません。

12 蛇の目

蛇の目 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
「蛇の目だけが強調されたとも考えられる。」

2018年2月17日土曜日

土器を飾りはじめた猪

猪の文化史考古編 2

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第1章猪造形を追って 1土器を飾りはじめた猪」の学習をします。

1 土器を飾りはじめた猪
今からおよそ5500年ほど前(最新の研究段階では6000年ほど前)の縄文時代前期後半、諸磯b式土器の時代、深鉢形土器の口縁部に獣面把手といわれる猪がモデルになった土器が関東・中部を中心に福島や静岡・岐阜方面の東日本一帯に広がり、それは諸磯b式土器の広がりでもあった。
猪装飾を詳しく観察すると1類から6類への変遷が考えられる。

猪装飾の変遷 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
猪装飾の量が群馬県安中の遺跡で多いので、そこで最初に土器に猪を付け、それが諸磯b式土器を作る各地のムラに広がった可能性がある。また群馬から離れるに従い造形のリアルさが欠ける。

最初につけられた段階では大変リアルな猪であったことから、その頃は実際に猪を観察しながらその顔面を付けたとも考えられる。諸磯b式の時代、あたかも現在のように猪が人里に多く現れるのと同じ現象がおこったのではないか。

猪は多産系の動物であり、また重要な食糧源の一つでもあることから、食料豊穣の象徴として煮炊きする土器を飾ったと考えられる。

土器型式の時間で1世代か2世代を過ぎる頃、同じ諸磯b式でも後半の時期には猪装飾は写実性を失いその意味は形骸化していった。その背景には自然界における猪増減のサイクルが連動し、縄文のムラにて猪を目にする機会が大幅に少なくなったのではなかろうか。

中期中頃の強烈な痕跡はなく、この前期後半という時代、猪が神として縄文人の生活を導くまでには至らなかった。そして縄文集落から猪造形は陰をひそめた。
「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から要約

2 大膳野南貝塚から出土しイノシシ形獣面把手
現在学習を進めている大膳野南貝塚の前期後葉竪穴住居・包含層・遺構外出土土器にイノシシ形獣面把手が24例含まれています。
その一部を良く観察し、そのうちの1つについてじっくりと紙上観賞してみました。

大膳野南貝塚出土イノシシ形獣面把手
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

大膳野南貝塚出土イノシシ形獣面把手 写真
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

大膳野南貝塚出土イノシシ形獣面把手1
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
「1は突出した頭部の下に左右の耳と思われる貼付を施し、上面にキザミを加える。その直下には2ヵ所の円形刺突を加えて目の表現とし、円形の貼付に鼻孔の穴2ヵ所と口と考えられる横位の沈線を加える。平面的ではあるが非常に写実的な表現がなされた把手である。」

大膳野南貝塚出土イノシシ形獣面把手1 写真
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

3 感想
諸磯b式土器の時代の猪装飾が猪増減の自然サイクルと関係し、その発祥の地が群馬県安中らしいという説が説得力を持つので興味が深まります。説得力の背景に「野生ウリボウ飼育→山に帰る→飼育場所に戻り出産」事例観察があります。2018.02.12記事「猪の文化史考古編 新津健 2011 雄山閣」参照

2018年2月12日月曜日

猪の文化史考古編 新津健 2011 雄山閣

猪の文化史考古編 1

1 はじめに
昨年夏頃西根遺跡の学習に熱中し、そのなかで頭部の無い体部だけの幼獣焼骨が多量に出土する意義について考察し、その中でこの図書「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)を入手し拾い読みしました。ブログ花見川流域を歩く2017.09.20記事「新津健「猪の文化史 考古編」学習」参照
大変役立ちました。

図書「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)

当時はこの図書をじっくり読むことができませんでしたので、あらためて章を追って学習することにします。

2 この図書の目次
はじめに-今なにが起きているのか?
第1部 人とのつきあいの始まり-縄文の猪-
 第1章 猪造形を追って
 第2章 猪の埋葬、そして祈り
 第3章 猪の飼育・飼養問題について
第2部 古代文化をいろどる猪-弥生から古墳、そして歴史時代へ-
 第1章 弥生の猪
 第2章 埴輪の猪-王の狩-
 第3章 古代から中世へ-文献から探る猪-
考古編の最後に
参考文献
図版出典

3 「はじめに-今なにが起きているのか?」の概要
春、山梨県道志村に住むWさんは側溝に置き去りにされたウリボウをみつけ飼うことにした。ウリボウをはな子となづけて育てた。はな子は人になついて育った。風呂にも一緒にはいった。12月ごろからはな子は朝食あるいは昼食を食べると裏山に入っていき、夕方になると帰ってきて小屋で寝るという日課となった。
2月ごろはな子はいつものように山へでかけ、そのまま帰ってこなかった。
ところが5月ごろお腹のふくらんだはな子が帰ってきて6月に出産した。

著者はこのような興味深い事例を取材して「猪が豚として飼われはじめる経緯をみることができるのではないか」と述べています。
またこの事例は、縄文時代にイノシシの半飼育という考え方があるする上で大変参考になると述べています。

4 「考古編の最後に」の概要
「考古資料からは、縄文時代では土器を飾る猪造形にはじまり、猪形土製品や埋葬・埋納などの事例も多くみられた。これらのことから食料としての重要性はもちろん、増加期にはムラに出入りするとともに、さらには豊かなみのりを願う神としても縄文人の暮らしと深くかかわっていた猪の役割が推測できた。」

農作物への依存度が高まった弥生時代になると猪は害獣として捉えられる面が強まり、「退治されるべきもの」としての役割が与えられ、古墳時代には「王の狩」の対象として古墳を取り巻く「狩猟埴輪」の重要な構成要素となっている。

次の記事から章を追って学習を進めます。

2018年2月10日土曜日

縄文の思想

縄文の思想 5

この記事は「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)の「第4章 縄文の思想-農耕民化・商品経済・国家の中の縄文」の感想メモです。

1 現代にまで伝わる縄文の思想
本章では、アイヌ、海民、南島などに伝わる縄文の思想について「呪能と芸能」「贈与と閉じた系」「平等と暴力」などのテーマで詳しく論じています。
記述されていることのいくつかの内容は著者の別の図書あるいは過去の読書で予備知識があり、それらをよりどころにして細部情報が織りなす壮大なストーリーを理解し感服することができました。
だれも語らないことを語っていて、考古歴史に対する興味が倍増しました。
最後に著者が述べているように、「本書は、この網野の海民論に折口信夫のまれびと論を接合しながら縄文へ遡及しようとする試みであり、ともに列島の基層の思想を明らかにしようとした二人の偉大な研究者が、射程におさめつつ果たすことのできなかった縄文へのアプローチに、ひとつの具体的な方法を示そうとするものなのです。」
網野善彦や折口信夫を機会をみつけて読み直したくなりました。

2 参考 興味事項
千葉県船橋市印内台遺跡から卜甲が出土し、「東国の卜部集落とみられている遺跡です」と記述されていて、自分にとって身近な遺跡(以前直近に居住)なので、特殊的に興味を持ちました。

日本列島と朝鮮半島の卜骨出土遺跡
「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)から引用

印内台遺跡の資料 船橋市ホームページから引用

3 感想
これまで縄文時代の風習の残片が日本に残っているに違いないと考えていたのですが、そのような疑問に対する体系的な回答を本書から得ることができたという充実感を覚えます。著者に感謝します。

2018年2月8日木曜日

神話と伝説

縄文の思想 4

この記事は「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)の「第3章 神話と伝説-残存する縄文の世界観」の感想メモです。

1 古代海民とアイヌに共通する神話・伝説の2つの来歴
本書ではアイヌ神話・伝説と「古事記」「日本書紀」「風土記」の古代海民の神話・伝説との間に共通するモティーフがいくつかあり、その来歴に2種類あったことが述べられています。
一つは縄文時代の日本列島に普遍的に存在した神話を、アイヌと海民それぞれが伝えたもの。
もう一つは、弥生~古墳時代の北海道へ渡海してきた海民の神話・伝説がアイヌの祖先集団へ伝わったものです。

2 縄文時代オリジナル神話に起源をもつもの
前者つまり縄文時代オリジナル神話として、洞窟と高山という現実の空間を通じて可視化され、生者である海の神と死霊・祖霊である山の女神の交流という神話を多数の事例をあげて説明しています。
またその神話を王権が徹底して反転して通俗的な物語性を高めたものが日本書紀の話であるという指摘も行っています。

アイヌ・南島・羽黒山の類似性
縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)から引用

3 海民からアイヌに伝わった神話
後者つまり弥生~古墳時代の北海道へ渡海してきた海民からアイヌの祖先集団へ伝わった神話・伝説として日光感精・卵生神話などをあげて説明しています。

4 感想
縄文時代オリジナルの神話・伝説にイメージが浮き彫りになり、とても有益な情報を学習できたと思います。
このような大局的イメージがさらに具体的地物(出土物)の意味説明レベルまで展開していくことを、将来に期待します。