2020年8月11日火曜日

縄文時代・文化の本質

 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 41

「エピローグ 縄文時代・文化の本質」を学習します。

1 もう一つの縄文文化

ア 後晩期の西日本縄文文化

・中国地方の縄文遺跡は少なく、検出される住居跡も2~3棟と少ない。

島根県原田遺跡の集落

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・中国地方のような小規模集落は農耕開始以前の経済段階では、世界的にみて、一般的である。

・中国地方の住居は耐久性が高いモノではなく、ずっと定住しつづけるようなものではなかったようだ。

・人口の少なさと、いざという時には集落の移動・分離・分散・合流が可能なモビリティ、この二つが中国地方の縄文集落の特徴と言えるだろう。

・「複雑な社会システム」を発達させる必要はない。

イ 小規模集落・少人口下における精神文化

・中国地方では、東日本の典型的な事例と比較して、呪術具の数が圧倒的に少ないのだ。

・物理的・精神的な不安がいっぱいあるがゆえに多くの祈りを捧げなければいけない生活と、不安を移動などの方法によってすみやかに解決し、祈る必要のない生活。どちらの方がより「人間的に豊かな生活」であると、読者の皆さんは思われるだろうか。

・縄文時代・文化の研究は、人類の来し方・歴史にはさまざまな道筋があったことを、改めて教えてくれるのだ。

2 「縄文」の終焉と「弥生」の開始

ア 弥生時代・文化の定義

・現在の学説では、弥生時代には、三つの文化が内在している。一つは、弥生文化である。残りの二つは、灌漑水田稲作がそのプロセスのいかんを問わずに入らなかった、あるいは定着しなかったと考えられる北海道に展開した続縄文文化であり、もう一つは南島域における貝塚文化(後期)である。

イ 灌漑水田稲作の導入と縄文的世界観の変化

・灌漑水田稲作を基礎とする社会システムの存在は、

 1.食糧生産地である灌漑水田および付随施設の存在、およびその規模的広がり

 2.食糧対象植物であるコメ(イネ)の存在、およびその量的安定性

 3.食糧生産地の造成や生産食糧の収穫・処理に対応する専用性の高い道具(農具)の存在

 4.生産を精神文化的側面から支える祭祀のためのさまざまな呪術具の存在

 という四つの考古学的証拠から推定することが可能である。

・利用した空間や植物は同じでも、それを使う集団関係、技術体系、およびそれを支えた思想がまったく異なったものであったのだ。そして、これこそが、縄文的な精神文化との決別を促した、そう私は考えている。

ウ 時代区分の指標としての灌漑水田稲作

・弥生時代認定の必要条件の一つが、灌漑水田稲作にあることは間違いない。また、もう一つ忘れてはならないのは、一国史の通史的理解として、弥生文化は次の古墳文化へと連続していくという視点である。そして、この二つの必要条件の間に入るのが、祭祀や精神文化面も含めた社会の複雑化・成層化という必要条件であり、この三つが揃って初めて認定十分条件となる。

エ 灌漑水田稲作を放棄した地域

青森県砂沢遺跡の水田

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・東北地方北部では、中期の段階で水田稲作をその生業形態から外してしまい(あるいは維持できなかった)、すなわち稲作にともなう社会システムを放棄したために、社会を複雑化・成層化させる方向には進まなかった。

オ 灌漑水田稲作が遅れて導入された地域

・関東地方・中部高地で灌漑水田稲作が本格化する弥生時代中期中葉に先行する時期にはアワやキビなどの雑穀栽培があった。縄文以来の石器を改変して農具化、深鉢を変形させて穀類貯蔵用の大型壺を作っている。また墓制や土偶も変容している。

・灌漑水田稲作の存在を弥生文化認定の必要条件とした場合、その開始時期は地域によって、かなり異なることがすでに判明している。そのような状況を、縄文時代から弥生時代の移行時期が地域によってずれると理解するのか、それとも弥生文化に組み入れるのか、あるいは「別の文化」として規定するのか、その点が、今や大きな問題となっている。

カ 農耕文化複合

・農耕文化複合」とは、「農耕がたんに文化要素の一つにとどまることなく、いくつかの文化要素が農耕文化的色彩を帯びて互いに緊密に連鎖的に影響しあいながら、全体として農耕文化を形成している」状況を指す。

・遅くとも弥生時代後期の段階で灌漑水田稲作を放棄したと思われる東北地方北部を弥生文化の範疇として捉えることはできず、また関東地方・中部高地は、西日本の時間軸で言うところの弥生時代中期中葉以降になって弥生文化へと移行したことになる。

キ 弥生文化の解体と脱構築

・そして、縄文時代・弥生時代に対応する文化が、縄文文化あるいは弥生文化(北海道における続縄文文化や南島の貝塚文化の問題はひとまず置くとして)一つしかないという歴史の叙述ではなく、各々の地域・時期的実情にあわせた個別の文化を、土器型式・様式や生業形態、居住形態、精神文化、社会構造のあり方などから再設定し、叙述を行う時が来ているのではないか、とも申し述べておきたい(山田2017)。

・この場合、設楽博己が述べるように、弥生文化という語をいったん棄却して、その上で、稲作・環濠集落・金属器などといった大陸由来の文化要素を中心に、西日本を中心に地域限定的に「弥生文化」(ないしは別の名称の文化)を再設定することが必要となるだろう。その際、弥生時代の中には、北海道の続縄文文化、南島の貝塚文化以外にも、本州内に複数の文化が設定されることとなる。こうして弥生時代・文化の脱構築が図られるわけだが、これについては本書のテーマから大きく外れるので、また別の機会に論じたいと思う。

3 感想

・「縄文文化が、一つしかないという歴史の叙述ではなく、各々の地域・時期的実情にあわせた個別の文化を、土器型式・様式や生業形態、居住形態、精神文化、社会構造のあり方などから再設定し、叙述を行う時が来ているのではないか。」という記述に後押しされて、素人学習ながら土偶祭祀の盛んな文化と土偶祭祀の貧弱な文化の比較を多面的に行うことにします。象徴的に言えば、加曽利貝塚北貝塚(中期、土偶貧弱)と南貝塚(後期、土偶豊富)の対比です。違う文化であると考え、構成する人も入れ替わったと考えます。

・この図書の記述では縄文人社会が「変容」して弥生文化が受け入れられたという印象を受けます。その間のよりリアルな状況を見てみたいです。特に人の移動による統治者の入れ替えがどのようにあったのか、なかったのか、知りたいです。要するに文化・技術だけが伝染病のように伝播していったのか、それとも新天地開拓を目指して既存縄文社会に切り込んだ人々がいたのかどうか?

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