2018年7月9日月曜日

縄文時代はどのように語られてきたのか

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 2

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めます。この記事は最初の「1 縄文時代はどのように語られてきたのか 山田康弘」の感想です。

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)表紙

1 1970年代の縄文時代・文化観
1970年代の縄文時代・文化観の項目には次のような記述があり、自分がまさにこのような教育を受けてきたことを思いだします。
このような考え方は1970年代になっても変わらず、たとえば1973年には春成秀爾先生が「縄文社会は恒常的に生産物を生み出すことのできない生産力の質を自明のこととすれば、相互扶助性に支えられて個別集団問で貧しい平等を分かち合っていたといえるだろう」と述べられています(春成1973)。縄文時代の人々は狩猟採集民ゆえに貧しく、それゆえに平等な社会を築いていたという理解は、当時広く共有されていたものでした。
これら研究者の言を受けて、1970年代の日本史の教科書には「縄文時代の社会は貧富や階級の差というものがない。そしてそれは住居の規模や構造、それから死者が共同墓地に埋葬され副葬品がほとんどないことからも伺われる」と記述されます(井上他1979)。そして重要なのは、次の記述です。「食料獲得方法の進歩や人口の増加はやがて自然食料資源の不足をもたらし、採集経済から新たな生産経済へと発展すべき必要に迫られることとなった」。これが、縄文時代がなぜ弥生時代へと移行したのかという問いに対する答えとなるわけですが、ここで、先にも見てきたように、食料採集社会の貧しい縄文時代は行き詰まり、そして食糧生産社会の豊かな弥生時代へ必然的に移行していくという歴史観は、実は戦前よりずっと述べられてきたものであったことを思い出していただければと思います。」山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
自分自身が所持していたこのような縄文時代観はこの数年の学習のなかで「自分の縄文時代感覚は少し違うかもしれない」と自覚するようになり、少しずつ修正してきていますが、自分の感覚のズレがどの程度のものであるのか、どこを修正すればよいのか不明でした。
しかし、この本を読んで自分の縄文時代感覚のズレの修正ポイントがある程度見えてきたのでうれしいことです。
1960年代中頃、自分の学部とは違う学部の専門科目としての和島誠一先生の考古学講義を聞いたことがあります。その時は考古学が自然科学などと緊密に連携していく様子が感じられてとてもフレッシュで魅力的な学問であると感じて、それが現在の私の考古好きに結びついていると思います。しかし、1960年代頃の時代が形成する縄文時代観・文化観はもうお払い箱に入れなければならないということです。

2 現在の縄文時代・文化研究の状況
縄文時代を旧来の縄文時代観に囲い込めむことは無理であるとして、幾つかの事例が提示されています。

現在における縄文時代の枠組みとさまざまな研究成果 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
大変参考になるチャートです。イノシシ、ウルシ、階層化社会などは既に自分の問題意識を研いでいます。柔軟姿勢で自分の縄文時代感覚を研ぎ澄ませていきたいと思います。参考資料にある「つくられた縄文時代」(山田康弘、新潮社、2016)もkindle版を購入して読み始めました。

kindle版「つくられた縄文時代」(山田康弘、新潮社、2016)

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