山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めます。この記事は「2 縄文文化における北の範囲 福田正宏」の抜き書きです。
1 縄文的生活構造の北限
縄文文化における北の範囲についてロシア側遺跡調査と日本側調査を合わせて考察し次のような結論を得ています。
「はじめに結論を申しあげておきます。縄文文化、あるいは縄文的生活構造の北限というものは、サハリン島や中千島以北の地域に認められません。北限は北海道の北東部、道東・道北と呼ばれる地域にあると私は考えています。(福田2013)
千島列島ですが、南千島とくに国後は、基本的に道東の延長線上にあります。縄文系の遺物がそこそこ出ています。それに対して、択捉海峡の先の中千島・北千島-ロシアでクリルと呼ばれる地域-では、旧石器時代または縄文時代の確実な遺跡が発見されていません。そもそもここは環境が過酷すぎて、この時代に人類が住めるような杁況ではなかったという指摘さえあります。(Fitzhugh.etal.2002、手塚2010)
… … …
(3)北海道の縄文文化の独自性
最後に論点をまとめておきます。まず、北海道の縄文早期後葉から晩期は、基本的に本州側との関係性のなかに位置づけられます。そして、縄文的生活構造の適応限界は道東北にあります。亜寒帯性の環境に縄文集団は順応しにくいということが分かってきました。
次に、縄文・続縄文の北海道には大陸集団由来の社会構造変動は認められません。いつでもサハリンの動態が中間に位置づいています。縄文早期の石刃鏃期と続縄文期の北海道-サハリン間には異なる背景の連絡関係がありました。そのとき、北海道-大陸間にゆるやかな関係性が生じたとは言えますが、先に述べましたように、中間にはサハリンの動態が存在しました。
そして最後に、北海道-サハリン間に関係がある時期におけるサハリンからの南下現象というものは、実際にはどれも一過性です。そして定着しにくい、あるいは必要とされなくなる、という構造が読み取れることが分かってきています。」山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
日本列島北辺域の地図とおおまかな地域区分 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
2 感想
縄文文化の北限はほぼ北海道であると捉えてよいということを学習することができました。
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