この記事では土器誕生から縄文時代全部の様子を学習します。
1 興味を持った情報の要旨
ア 世界最古級土器の出現
古本州島では青森県大平山元Ⅰ遺跡の無文土器を最古例として世界最古級土器(16000~15000年前)が出現し、以降連綿と土器文化が継続する。
この時期に中国南部や東シベリア・極東等の一部で相互に独立して土器が出現するが、それらの地で継続した痕跡は確認できない。
南アジア・中国では定住集落による農耕が開始され、おくれて牧畜も発生するがすべて完新世になってからの出来事であり、更新世に土器文化の起源を有する縄文文化は世界的にも稀有な考古的現象と考えられる。
古本州島の最古の土器出現プロセスは依然として明らかでない。
縄文草創期の温暖期あるいは早期以降は堅果類のあく抜き処理容器として利用された痕跡が確認でき、煮炊きと並んでこれが縄文土器の主要な用途と考えられるが、出現の契機は別であろう。
イ 草創期における縄文化への構造変動
最古土器群は寒冷期に相当し、出土数がきわめて限られる。
晩氷期前半温暖期は遺跡が増え、隆起線文土器期で列島中に分布が認められる。本格的な定着生活に移行しておらず、広域移動戦略も行われていた。
爪形文・多縄文・押圧縄文期になると遺跡が激減し晩氷期後半の寒冷期になった可能性が高い。旧石器的な資源環境が復活し遊動的行動生活が有利であった。
早期初頭に遺跡数が本格回復する。
植物処理具(礫石器)は未発達、狩猟具は旧石器時代系譜の両面体尖頭器や有茎尖頭器が主体、弓矢を示す石鏃は前半ですでに出現しているが一般化は後半から、水産資源開発・漁労の証拠である貝塚は早期初頭から、小規模な集落出現は後半からとなる。
縄文化への構造変化は、草創期を通じて徐々に行われた。
ウ 竪穴住居
半地下式の竪穴住居は住居の壁を土で代用でき相対的に堅牢で簡便に構築でき、冬季の暖房効率が高い。定着的生活が竪穴住居採用の必要条件のひとつである。
エ 環状集落
中央墓坑群を中心に竪穴住居がめぐり外側を貯蔵穴が取り囲む構成となる。
系統を同じくする同一集団が社会構成原理を維持しながら長期にわたって居住し続けた。同時存在した住居は数軒にすぎない。
中央の墓群と周囲の竪穴住居が祖先-子孫関係のような血縁紐帯によって密接に関連付けられる分節化した部族社会(階層化社会)であったとする解釈が有力。
中心が聖的空間、外側に向かって世俗空間化するとみなされている。
1年を通して定住していたとは単純にみなせない。おそらく春から秋にかけては生業現地に分散居住し、冬季は埋葬・貯蔵施設をもつ環状集落に集住することを基本としていたであろう。
オ 植物資源
アサ、ヒョウタン、豆等の栽培植物、クリの選択管理、イノシシの放獣等が行われたことは明らかである。
雑穀等の農耕(焼畑や畠作)の証拠はなく、縄文農耕論は晩期末を除いて各種研究成果から否定される。
重要な植物資源はクリ、トチ、ドングリ、クルミ等の堅果類で、あく抜きの必要な堅果類は土器を用いた加熱や水さらしによって処理し、主要な食糧としていた。
ただし、堅果類の管理栽培は定住の必然性がない。
カ 水産資源
早期前葉になると貝塚が形成されるようになった。温暖気候化に伴う海退(ママ)によって大陸棚が発達し広大な干潟が形成されたため、貝類をはじめとする水産資源が豊富になったためである。
旧石器時代にはなかった資源環境が出現し、各種漁労が開始された。
北米北西海岸先住民のように漁労や海獣狩猟に高度に依存した社会では例外的に階層化社会を形成していたことが知られているので、北海道の縄文後期海獣猟漁民社会では、すでに階層化社会に到達していた可能性も議論されている。
キ 陸獣狩猟
旧石器時代の狩猟民が特定の中・大型獣を狩猟対象としするスペシャリストであったのに対して、縄文人はゼネラリストの猟漁採集民であった。旧石器時代人は広域移動する集団猟、縄文人は小地域占有的個人猟を発達させた。
列島最古の猟犬は草創期愛媛県上黒岩陰遺跡から埋葬跡とともに出土している。
罠猟のうち陥し穴猟は後期旧石器時代前半期の相対的な温暖期に一部の地域で盛行するが、寒冷化が進行すると衰退した。完新世の温暖化をいちはやく迎えた南九州の後期旧石器時代末期に活性化した。草創期になると北海道を除いて列島各地に展開し、早期にはピークを迎える。
一定の見回りと補修行動が要求される罠猟の盛行は、縄文時代における季節的で定着的な計画的生業活動の発達を意味していた。
ク 資源の流通
生活財から装飾品・奢侈品まで広範囲にわたる産品が流通・交易の対象とされていた。
縄文時代の流通ネットワークは近隣集団間で行われた日常品の交換・交易と地域集団間の同盟関係を安定させるためにもっぱら上層クラスの間で象徴的に行われた奢侈品や威信財の遠距離の贈与交換の2種類から構成されていたと考えられる。
ケ 土偶
土偶は草創期後半から認められ、列島全体で発達した。
土偶の性格を家神(祖先神)に帰するか、地母神・精霊等に帰するかという論争は決着していない。
いずれにせよ縄文時代には、神話と伝承・呪術に満ちた何らかの精神世界が活発に展開していたに違いない。
コ 小氷期のような環境変動の影響
列島規模でみられる環境変動に起因した地域社会の崩壊と再生の画期は、早期中頃、中期・後期移行期、縄文晩期・弥生移行期の各小海退(小氷期)とよく一致している。
高度の動植物資源利用システムの発達こそが、小氷期のような環境変動の影響を受容しやすくしていたのであろう。
サ 縄文中期・後期移行期の寒冷化(小海退)の影響
東日本では谷の削剥等の地形環境の変化に伴い低地にトチが繁茂する環境が出現し、クリからトチの利用へと主要な食糧資源が変更され、それに伴いそれまでの大型環状集落への集住といった居住形態から、河川流域等に分散して居住する散村へと集落形態が移行した。
そのため、集落内にあった各種の儀礼施設・装置が集落外へと移行し、集団維持のための大規模祭祀センター(ストーン・木柱サークル等)が出現するようになる。
中心-周縁からなる可視的空間構成の原理が解体し、今日の集落の構成形態に類似する空間構造へと再編された。
集落は台地上の広い平坦地から尾根・丘陵等のより狭い平坦地や谷際に移動し、谷間にはトチの実を水さらしするための水場等の施設が作られた。
今日の里山に類似する資源利用構造が出現した可能性が高い。
2 感想
2-1 問題意識を深めた情報
ア 「縄文草創期の温暖期あるいは早期以降は堅果類のあく抜き処理容器として利用された痕跡が確認でき、煮炊きと並んでこれが縄文土器の主要な用途と考えられるが、出現の契機は別であろう。」には参考文献(30)「春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」(国立歴史民俗博物館研究報告 第90集 2001年3月)」が注記されています。
この文献を芋づる式に読んで、土器発明が「寒冷気候下での自然資源の変貌に対応するための発明であった」と示唆されていて、その通りだと考えました。
ケ 「土偶の性格を家神(祖先神)に帰するか、地母神・精霊等に帰するかという論争は決着していない。」の論争の意味が全くわからないので、参考資料を芋づる式に手繰って学習することにします。
コ 「東日本では谷の削剥等の地形環境の変化に伴い低地にトチが繁茂する環境が出現し、クリからトチの利用へと主要な食糧資源が変更され、それに伴いそれまでの大型環状集落への集住といった居住形態から、河川流域等に分散して居住する散村へと集落形態が移行した。」と書いてある事柄が自分の縄文社会消長分析学習のテーマそのものです。
この図書に書いてあるような具体内容を初めて知りました。
対戦相手の様子がわかってきて、闘争意欲がますます強まったような心境になります。
これまで縄文社会消長の原因について「専門家は判らないことは何でも気候変動のせいにしてしまう」という不満・不振を強く持っていました。そうではなく、専門的研究やデータ分析で縄文社会消長と気候変動の関係が明らかになっているのならば、ぜひともその専門論文を学習したいと思います。その学習のなかでいろいろな知識が身に付き、より合理的な感想をもつことができると思います。
この記述にかかわる文献を芋づる式に学習することにします。
2-2 疑問が生まれた情報
カ 「早期前葉になると貝塚が形成されるようになった。温暖気候化に伴う海退(ママ)によって大陸棚が発達し広大な干潟が形成されたため、貝類をはじめとする水産資源が豊富になったためである。
旧石器時代にはなかった資源環境が出現し、各種漁労が開始された。」
大いに疑問が湧き出る記述です。
1 まさか海退によって(海面が下がり)大陸棚が顔を出した状況を脳裏に浮かべているのではないと推察します。いくらなんでもそこまで勘違いしていることは無いと思います。
2 海進により(海面が上昇し)大陸棚が徐々に水没して干潟ができた状況を表現しているのだと思います。
そのように記述しているとすれば、2つの疑問が生まれます。
疑問1 海進(海面上昇)により現在大陸棚といわれる部分が徐々に水没していくとき、広大な干潟は形成されていないと思います。寒冷期に長期にわたって浸食を受けている陸地が水没するのですから、リアス式海岸が生まれます。複雑な入り江のある海岸が生まれます。その海岸は干潟よりも水産資源が豊富だったと思います。
疑問2 文章から、寒冷期(海岸低下期)よりも温暖期(海岸上昇期)の方が水産資源が豊富であると読み取れます。それが本当のことであるのか疑問が生まれます。旧石器時代人が水産資源を利用するという観点からみて、海岸低下期の海の状態がどうであったか知る必要があります。その海岸線は旧石器時代人にとって利用すべき資源は少なかったと結論付けることができるのでしょうか?そう言える研究とかデータがあるのでしょうか?
旧石器時代人が当時の海岸には寄り付かなかったという根拠はありません。サケマス漁をするくらいですから、海岸線で貝や魚を取った可能性を否定する根拠はありません。
寒冷期海岸線の様子がわからないだけで、またそこでの遺跡存否がわからないだけです。
寒冷期海岸線で旧石器時代人がサケマス漁と同程度のレベルで漁労をしていたことを頭ごなしに否定できる根拠はありません。
自分の言いたいことは、海岸線漁労も内水面漁労や土器発明と同じで、寒冷期の自然資源開発の一環として行われたという仮説がありうるということです。
路傍の花(2020.04.07)
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