2018年8月24日金曜日

縄文時代の死生観

「つくられた縄文時代-日本文化の現像を探る-」(山田康弘、新潮選書) 4

「つくられた縄文時代-日本文化の現像を探る-」(山田康弘、新潮選書)を学習しその感想をメモしています。この記事では「第5章縄文時代の死生観」の感想をメモします。

1 興味を持った記述 後期初頭の多数合葬・複葬例
さらに、関東地方において多数合葬・複葬例が行われたのは、縄文時代後期初頭の時期にほぼ限定されることもわかっている。ちょうどこの頃は、それまでの大型集落が気候変動などにより一度分解し、少人数ごとに散らばって小規模な集落を営んだ後、再度人々が新規に結合し大型の集落が形成されるようになる時期にあたっている。これらの点から、私は多数合葬・複葬例を「集落が新規に開設される際に、伝統的な血縁関係者同士の墓をいったん棄却し、異なる血縁の人々と同じ墓に再埋葬することによって、生前の関係性を撤廃し新規に関係性を再構築するものであり、集団構造を直接的な血縁関係に基づくものから地縁的な関係性に基づくものへと再構成させる行為であった」と理解している(山田2008b)。集落の新規統合が行われた時に、集団統合の儀礼、その象徴のモニュメントとして多数合葬・複葬が行われたのであろう。」「つくられた縄文時代-日本文化の現像を探る-」(山田康弘、新潮選書)から引用
自分が学習している大膳野南貝塚や六通貝塚にみられる集落の離合集散の時期に後期初頭が含まれていますから、多数合葬・複葬例との関係があるのかないのか気になります。ここでのべられている事例を特定して知識として知るとともに、自分の学習との関連づけをしたいと思います。この記述で葬送に関する自分の興味が一気に増加しました。

2 興味を持った記述 死の利用とコントロール
これまで見てきたように、縄文時代の人々は現世の都合によって、死者を利用してきた。これについては、2008年の段階でも述べたことがあるが(山田2008b)、現在の考えも取り入れながら、以下に再論しておきたい。 縄文人たちは死を怖がり、いたずらに遠ざけていたのではなく、むしろ身近なものと捉え、さらには集団内外の結びつきの確認や強化、財産や権威、序列などの継承といった、いま現在生きている人々の社会的関係性の維持・再生産のために「利用」していた。そして、そのような「死の利用」のための祭祀が具体的に行われた場所が、視覚的な要素を多分にもつ環状列石や大型配石遺構を伴う墓地であり、個別の墓であったのだろう。中妻貝塚の事例のような多数合葬・複葬例にみることができるように、すでに一度なんらかの形で埋葬等の死者儀礼が行われた後に、それを再度引き出して、再び埋葬を行うことによって新たな集団関係を生成するという行為は、死者を現世の人々のために、まさに利用するということに他ならない。死者の眠りを中断させ、その死後のあり方すら変更してしまうその方法は、死そのものを現世の必要性からコントロールするということなのである。」「つくられた縄文時代-日本文化の現像を探る-」(山田康弘、新潮選書)から引用
多数の事例から縄文人が死の利用とコントロールを現世問題解決のために行っていたことがよくわかりました。

3 興味を持った記述 死生観
次の図に縄文人の2つの死生観とその関連を表現していて、納得できます。

縄文時代における二つの死生観 「つくられた縄文時代-日本文化の現像を探る-」(山田康弘、新潮選書)から引用

4 感想
出土人骨や遺構から縄文人の死生観を説得的に紡ぎ出す様子がよくわかる図書であり、著者の思考力に感服します。発掘調査報告書の人骨情報は事実だけの記載に終始しますが、そこからいろいろな角度で縄文人の死にたいする考えを分析する余地が沢山残されていると感じました。

(おわり)

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