この記事は「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)の「第2章 海民とアイヌ-日本列島の縄文ネットワーク」の感想メモです。
1 「第2章 海民とアイヌ-日本列島の縄文ネットワーク」の記述で興味を覚えた事項
弥生時代
・北海道は「北の生態系」のなかで「旧石器的生業体系」を持続し、「南の生態系」の人々がもたらす鉄器、コメ、南島産貝輪などを入手するため、陸獣や海獣の毛皮が大きな意味を持った。
・続縄文時代(弥生時代と古墳時代の並行期)になると道南から道東の太平洋沿岸ではヒラメ漁やメカジキ漁に特化して、食料確保という点で理解を超える現象が生まれた。その理由は「威信」という社会的な問題が関わっていた。
・漁具の類似性から縄文時代晩期の三陸-仙台湾の大型魚漁集団が北上あるいは移住して道南続縄文人と交流し、高度な漁撈文化をもたらしたと考えられる。
・礼文島には弥生時代前期末に九州北部の海民がアワビ漁のために来ていることが遺物から判明し、毎年往復し夏の間素潜りによるアワビ漁をしていたと考えられる。
古墳時代
・礼文島から鹿骨製刀剣装具が出土し、古墳時代中期ごろオホーツク人の社会に本州海民がでむき使ったものと考えられる。
鹿骨製刀剣装具の出土遺跡 「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)から引用
・利尻島や奥尻島ではオホーツク文化の時代に古墳文化の土師器が出土し、胎土が地元のものであることから本州海民が利尻島や奥尻島で作成して使用したと考えられる。
・北海道最北端まで往来していた海民の動きに刺激されてオホーツク人の本州方面南下の動きがあった。
・奥尻島では土製模造鏡が出土していることから、本州の人々が奥尻島へ渡海し祭祀を行っていたと考えられる。
土製模造鏡の出土遺跡 「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)から引用
・余市町フゴッペ洞窟の絵画はこれまで大陸系と考えられてきているが、装飾古墳の絵画と通じるものがあり、海民のものであると見直すことが妥当である。
余市町フゴッペ洞窟と装飾古墳の絵画の対比 「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)から引用
装飾古墳・壁画古墳の分布 「縄文の思想」(瀬川拓郎 2017 講談社現代新書)から引用
・洞窟絵画や埋めずに火葬した人骨など北海道に類例のない遺跡、鹿骨製刀剣装飾具、石製模造品の刀子、朱塗りの土師器、土製模造品の鏡、馬具、短冊状鉄斧といった特異な遺物がひとつの例外もなく奥尻島、利尻島、礼文島、余市周辺など島嶼や海浜部で発見されていることは続縄文人と異なる文化に属する本州海民がこれらの地域に多く渡海し、続縄文人やオホーツク人と深く交流していたことを示している。
2 感想
本州海民と続縄文人・オホーツク人の交流が考古学データにより実証的に説明されているのでとてもわかりやすく、理解を深めることができました。
著者は北海道続縄文人と本州海民の交流に焦点を当てていますが、当方は上記3枚の地図「鹿骨製刀剣装具の出土遺跡」、「土製模造鏡の出土遺跡」、「装飾古墳・壁画古墳の分布」が結局は海民の分布図であり、房総がその拠点の一つであることに興味が集中していきます。
房総の海民が弥生時代、古墳時代に果たした役割の記述はほとんど見かけません。
その方面の学習も深めたいと思います。
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