2018年7月13日金曜日

縄文文化における南の範囲

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 4

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めます。この記事は「3 縄文文化における南の範囲 伊藤慎二」の抜き書きです。

1 縄文文化の南限
著者は世界の土器の中で縄文土器を際立たせる特徴として縄文施文と口縁部突起の2つの特徴があるとして、その分布を九州から沖縄にかけて詳しく調べています。
その結果琉球の貝塚文化では縄文施文が全く見られないことと、口縁部突起が不安定にしか受容されていないことから、貝塚文化は縄文文化とは一線を画するものとして捉えられています。縄文文化つまり縄文施文と口縁部突起が受け入れられた南の範囲は屋久島までであることがわかりました。

縄文施文と口縁部突起 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
北琉球では縄文施文(網目の濃淡で表示)が全くあらわれず、口縁部突起(▲の大小で表示)も時期によって多い少ないがあり安定していません。

貝塚文化と縄文文化の境界 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

2 感想
いままで琉球の原始文化は縄文文化そのものであると考えていましたが、それは間違いであり、縄文文化と交流はあるものの琉球の原始文化は独自のものであることを学習しました。

2018年7月12日木曜日

縄文文化における北の範囲

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 3

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めます。この記事は「2 縄文文化における北の範囲 福田正宏」の抜き書きです。

1 縄文的生活構造の北限
縄文文化における北の範囲についてロシア側遺跡調査と日本側調査を合わせて考察し次のような結論を得ています。
「はじめに結論を申しあげておきます。縄文文化、あるいは縄文的生活構造の北限というものは、サハリン島や中千島以北の地域に認められません。北限は北海道の北東部、道東・道北と呼ばれる地域にあると私は考えています。(福田2013)
 千島列島ですが、南千島とくに国後は、基本的に道東の延長線上にあります。縄文系の遺物がそこそこ出ています。それに対して、択捉海峡の先の中千島・北千島-ロシアでクリルと呼ばれる地域-では、旧石器時代または縄文時代の確実な遺跡が発見されていません。そもそもここは環境が過酷すぎて、この時代に人類が住めるような杁況ではなかったという指摘さえあります。(Fitzhugh.etal.2002、手塚2010)

… … …

(3)北海道の縄文文化の独自性
最後に論点をまとめておきます。まず、北海道の縄文早期後葉から晩期は、基本的に本州側との関係性のなかに位置づけられます。そして、縄文的生活構造の適応限界は道東北にあります。亜寒帯性の環境に縄文集団は順応しにくいということが分かってきました。
次に、縄文・続縄文の北海道には大陸集団由来の社会構造変動は認められません。いつでもサハリンの動態が中間に位置づいています。縄文早期の石刃鏃期と続縄文期の北海道-サハリン間には異なる背景の連絡関係がありました。そのとき、北海道-大陸間にゆるやかな関係性が生じたとは言えますが、先に述べましたように、中間にはサハリンの動態が存在しました。
そして最後に、北海道-サハリン間に関係がある時期におけるサハリンからの南下現象というものは、実際にはどれも一過性です。そして定着しにくい、あるいは必要とされなくなる、という構造が読み取れることが分かってきています。」山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

日本列島北辺域の地図とおおまかな地域区分 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用

2 感想
縄文文化の北限はほぼ北海道であると捉えてよいということを学習することができました。

2018年7月9日月曜日

縄文時代はどのように語られてきたのか

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 2

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)の学習をしてそのメモを書いています。目次に沿って進めます。この記事は最初の「1 縄文時代はどのように語られてきたのか 山田康弘」の感想です。

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)表紙

1 1970年代の縄文時代・文化観
1970年代の縄文時代・文化観の項目には次のような記述があり、自分がまさにこのような教育を受けてきたことを思いだします。
「このような考え方は1970年代になっても変わらず、たとえば1973年には春成秀爾先生が「縄文社会は恒常的に生産物を生み出すことのできない生産力の質を自明のこととすれば、相互扶助性に支えられて個別集団問で貧しい平等を分かち合っていたといえるだろう」と述べられています(春成1973)。縄文時代の人々は狩猟採集民ゆえに貧しく、それゆえに平等な社会を築いていたという理解は、当時広く共有されていたものでした。
これら研究者の言を受けて、1970年代の日本史の教科書には「縄文時代の社会は貧富や階級の差というものがない。そしてそれは住居の規模や構造、それから死者が共同墓地に埋葬され副葬品がほとんどないことからも伺われる」と記述されます(井上他1979)。そして重要なのは、次の記述です。「食料獲得方法の進歩や人口の増加はやがて自然食料資源の不足をもたらし、採集経済から新たな生産経済へと発展すべき必要に迫られることとなった」。これが、縄文時代がなぜ弥生時代へと移行したのかという問いに対する答えとなるわけですが、ここで、先にも見てきたように、食料採集社会の貧しい縄文時代は行き詰まり、そして食糧生産社会の豊かな弥生時代へ必然的に移行していくという歴史観は、実は戦前よりずっと述べられてきたものであったことを思い出していただければと思います。」山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
自分自身が所持していたこのような縄文時代観はこの数年の学習のなかで「自分の縄文時代感覚は少し違うかもしれない」と自覚するようになり、少しずつ修正してきていますが、自分の感覚のズレがどの程度のものであるのか、どこを修正すればよいのか不明でした。
しかし、この本を読んで自分の縄文時代感覚のズレの修正ポイントがある程度見えてきたのでうれしいことです。
1960年代中頃、自分の学部とは違う学部の専門科目としての和島誠一先生の考古学講義を聞いたことがあります。その時は考古学が自然科学などと緊密に連携していく様子が感じられてとてもフレッシュで魅力的な学問であると感じて、それが現在の私の考古好きに結びついていると思います。しかし、1960年代頃の時代が形成する縄文時代観・文化観はもうお払い箱に入れなければならないということです。

2 現在の縄文時代・文化研究の状況
縄文時代を旧来の縄文時代観に囲い込めむことは無理であるとして、幾つかの事例が提示されています。

現在における縄文時代の枠組みとさまざまな研究成果 山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)から引用
大変参考になるチャートです。イノシシ、ウルシ、階層化社会などは既に自分の問題意識を研いでいます。柔軟姿勢で自分の縄文時代感覚を研ぎ澄ませていきたいと思います。参考資料にある「つくられた縄文時代」(山田康弘、新潮社、2016)もkindle版を購入して読み始めました。

kindle版「つくられた縄文時代」(山田康弘、新潮社、2016)

2018年6月17日日曜日

半獣半人

「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」 1

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)に書いてあることにいろいろと刺激を受けているので、その学習を始めます。
目次に沿った学習は最後に行うことにして、とりあえず気になっている項目を順次学習すます。
この記事では同書の「8 縄文社会の複雑化と民族誌 高橋龍三郎」の「(4)縄文後・晩期の氏族社会」の項に掲載されている「図8-3 人間と動物の折衷的形態(ヒトと動物の共通の母)」について感想を書きます。

1 人間と動物の折衷的形態(ヒトと動物の共通の母)

図8-3 人間と動物の折衷的形態(ヒトと動物の共通の母)
山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)収録「8 縄文社会の複雑化と民族誌 高橋龍三郎」から引用

以下同書の関連説明です。
「注目したいのは図8-3の1~4です。いままでこれらを土偶としてきたのですが、体を見ると確かに腕があり、手があり、足があり、女性らしくオッパイも大きく描かれている。人形です。だからいままで土偶として扱ってきました。ところが、この顔は、実は人の顔ではありません。トリの顔です。頭部がトリで、体部は人間の合体です。つまり、半獣半人です。同じように、立石遺跡出土の図8-3の4の土偶は、顔はどう見てもイノシシです。これは同じ立石遺跡のイノシシ形土製品の顔とそっくりです。つまり体は人間で、顔だけ動物の半獣半人です。逆に図8-3の3は秋田県の漆下遺跡から出たクマなのですが、ひっくり返して胸を見ると、人間のように立派なオッパイが二つついています。これは要するに、人間と同じ扱いなのです。クマを人間と同一視して人間側の秩序の中に組み入れているんですね。図8-3の1、2はトリ形です。このトリ形にもオッパイが二つあるんです。これも人間と動物を合体させているのです。おそらく自分たちの先祖はかつてトリだったという出自観念と絡んでいるんですね。有名な古野清人という宗教学の先生は、トーテミズムの大きな特徴の一つに半獣半人、つまり共通の先祖を造形するということを言っています(古野1964)。」
山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)収録「8 縄文社会の複雑化と民族誌 高橋龍三郎」から引用

2 半獣半人で気が付いたこと
図8-3-1は自分たちの先祖はかつてトリだったという出自観念と絡んでいると説明されています。

図8-3-1の半獣半人
山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)収録「8 縄文社会の複雑化と民族誌 高橋龍三郎」から引用

このトリ人間をみて、縄文学習との接点があるとは思っていなかったエジプト国エドフ神殿のホルス神像が半獣半人であり、王の先祖が鳥(ハヤブサ)であると信じられていることに気が付きました。半獣半人像を出自と絡めて信仰するという点で相似しています。一気に海外事例と縄文事例の相似的関係がいろいろあることに気が付き、強刺激的に興味を掻き立てられました。

海外旅行で何気なく見ていた遺跡が縄文学習と結びつきました。

エジプトエドフ神殿現場では丁寧にも鳥(ハヤブサ)像としてのホルス神像と半獣半人の姿としてのホルス神像(レリーフ)とその血筋を引く王(プトレマイオス12世)の像で埋め尽くされています。
動物(ハヤブサ)としてのホルス神-半獣半人のホルス神-ホルス神の直系である王の連続関係が判るようになっています。

動物(ハヤブサ)としてのホルス神像
背後のレリーフに半獣半人のホルス神があります。

神殿内の半獣半人のホルス神(中)とプトレマイオス12世(右)
神殿内照明のために緑色が発色しています。

図8-3-1の半獣半人は女性でありホルス神は男性で、そこに違いはありますが、動物を出自とするという共通の発想に興味が魅かれます。

トリ人間といえばメキシコ国マヤ遺跡であるトゥルム遺跡でも翼・尾羽を持っていて空から地上に降臨した半獣半人神像レリーフがあり、その観察も思い出します。

トゥルム遺跡の降臨する神像

縄文人の出自観念と共通する観念が世界の原始・古代人に見られることはあり得ることです。
縄文人の出自観念の学習を過去海外旅行における見学資産も活用して進めたいと思います。

2018年6月4日月曜日

古代文化を彩る猪

猪の文化史考古編 20 (最終回)

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第2部 古代文化を彩る猪-弥生から古墳、そして歴史時代へ-」の学習をします。「猪の文化史考古編」学習の最終回となります。

1 弥生の猪
弥生時代の銅鐸絵画に猪の狩猟シーンがあります。

銅鐸の猪狩猟シーン 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
猟師、猟犬、猪が描かれています。
弥生時代になると縄文時代とは状況が変わり猪は田畑の作物を荒らす害獣として駆除の対象となります。排除の対象になります。

2 古墳時代の猪
埴輪に猪が登場し、埴輪群でイノシシの狩猟シーンが展示されるようになります。

埴輪に登場する猪、猟犬、猟師 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
埴輪群による狩猟シーンの展示は「王の狩」であり、狩猟儀礼の再現や権威・権力の誇示という側面から考察されています。

3 奈良時代以降の猪
射手と猪の組み合わせは奈良時代以降中世・近世まで説話・伝説として生き続けました。王権を誇る条件の1つが「猪の征討」であったのであり、猪の力の強大さに始まるストーリーでもあったといえます。
感想
「猪の征討」が蝦夷征討など服従しない縄文人末裔征討とも関連すると理解しました。
弥生時代以降「縄文人が猪を祈りの対象としていて関わりが深い」ので、服従しない縄文人末裔征討を強引に猪征討と関連付けたのだと思います。

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4 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)学習の感想
・縄文時代の猪に関する土器・土製品について、自分が学習している大膳野南貝塚や西根遺跡、上谷遺跡などとの関連で興味を抱きました。
・図書に掲載されている図版・写真が、自分の老化が進んだ眼球にとってはあまりにも小さすぎたり、つぶれていたり、鮮明さが欠けていて、最初は読書気力が湧きませんでした。また図版・写真を文章で説明している場合、立体物であるだけにそれがどの箇所の説明に当たるのか判然としない場合がかなりありました。恐らく現物や同じ図版・写真を既にみたことのある専門家が読むことを暗黙の前提として図書が編集されたものと感じました。
・そのため仕方なく図版・写真をパソコンで拡大したり調整して観察しましたが、その結果この図書が形成する猪世界に引き込まれ、学習に熱中することができました。
・著者は縄文時代猪に関する発掘情報を悉皆的に収集して整理しているので、縄文時代人の猪に関する活動や思考を体系的に理解できるように図書が編集されていて、その結果自分の学習が大いに進みました。
・「猪への祈りのまとめ」は大膳野南貝塚学習や西根遺跡学習に大いに参考になっています。
・弥生時代以降の学習は改めて熱中するチャンスをつくることとして、今回の学習は縄文時代をメインとしました。

2018年5月30日水曜日

猪がやってきた

猪の文化史考古編 19

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第3章猪の飼育・飼養問題について 2猪がやってきた」の学習をします。

1 猪がやってきた
著者は縄文前期諸磯式の時代に猪が増加し、猪がムラにやってきて、その結果猪造形が生れたと考えています。
その状況の一つに森を開いて縄文ムラを作ることによってその周辺が猪が好む環境になり、必然的に猪と縄文人の接触が密になったとしています。
「先にみた縄文前期諸磯式の時代、そこでは土器に猪の顔が突出して作られた。中期の中頃には、蛇とともに土器を飾る主役の一つとして猪が幅をきかせた。さらに後期の初めには東北北部にて猪形土製品が作られるようになり、やがて東日本全体に広まっていく。これらの時期にみられる猪造形の緻密な表現や、その特徴が増幅されるような造形からは、縄文人の確かな観察力がうかがわれる。それは猪が身近な動物であったからに他ならない。やはり縄文集落にまで猪がやってきていたのである。縄文時代の中でも猪造形が発達した時期、それが現在と同じような猪増加の時期にあたっていたのではないだろうか。」
「ところで、猪の群れが縄文ムラにやってくる理由とはなんであろうか。その一つについて、猪装飾がはじめて作られた縄文前期後半を例にとり考えてみよう。この頃は関東地方や中部地方では大きな集落が形成されはじめた時期である。中央部に広場を持ち、それを取り囲むかのように家が巡る「環状集落」という形態のムラもみられる。同時に、住居数軒から成る小さなムラが山間部にも点在するようにもなる。これらのことは、森が切り開かれ人の居住する場所が広がり、猪が活動する範囲と重なってくることを意味する。住居を建てる材料の調達、日々の燃料、食料獲得のための森や平地の管理、このような暮らしの中でムラの周囲には生産地や空き地そして道なども含め、森との境をなす緩衝地帯が広がっていく。植物学の立場からすると、突然に高木が茂る森になるのではなくその周囲には灌木類やつる植物などが群生すると言われている。特に森林から続く低木群落の裾には「ソデ群落」あるいは「ふちどり群落」と呼ばれる各種の草本植物が生育するという(宮脇1971)。このような植物群の相互関係は、集落が形成された周辺環境にもあてはまるものと思われる。つまりムラと森との間には雑草やツル植物などが繁茂する明るい空間地が広がることになる。西田正規氏は定住集落の生態系として原生林と集落の問に「栽培空間」や「二次植生」地帯を想定した(西田1995)。実は、このような「ふちどり群落」や「二次植生」空間という緩衝地帯は猪にとって大変重要な場所となる。ここには猪の好物となるクズやワラビといった根に澱粉を蓄える植物や、野生の豆類などが繁茂するからである。歴史編の江戸時代の項で詳しくふれるが、東北八戸藩の『猪飢謹』をもたらした猪の異常なほどの繁殖も、大豆畑の休耕地に繁ったクズやワラビに原因があったという。縄文集落の周囲に広がる緩衝地帯、そこも猪が好む植物がはびこる雑草地帯ではなかったろうか。」
「縄文前期の例をあげてみたが、群れが集落にやってくるほどに猪が繁殖した時期、このような時にこそ、「半飼育」つまり「飼養」といった状況がもたらされたのではないだろうか。縄文時代における猪飼養の可能性。それは「猪増減サイクル」の中での条件が整った時にこそ実施されたのであり、縄文時代全体を通して常時行なわれていたというものではないだろう。飼養が行なわれていない時、それでも儀式に必要な猪は自然界から捕獲する必要がある。そのような飼養と狩猟とが同居するような生業形態、それが縄文時代における人と猪とのかかわりであったと考えている。」「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用

2 大膳野南貝塚で猪が好む環境について予察してみる
現在学習中の大膳野南貝塚の前期集落(諸磯b式土器の時代、諸磯式土器と浮島式土器が出土)と後期集落(堀之内1式期が最盛期)の集落周辺環境について予察してみました。
竪穴住居と土坑のそれぞれ5m圏は完全に人工区域であり、5m以上離れるとソデ群落やマント群落が出現する可能性があると想定してみました。

大膳野南貝塚 前期集落
集落の周辺に林が広がっていた可能性があります。
前期集落からは猪造形が沢山出土しています。
猪がこの集落にやってきた可能性を首肯できます。

大膳野南貝塚 後期集落
集落の規模が大きくなり台地をほぼ覆い尽くしてしまっています。
集落が拡大して台地面が人工面として広域に連坦してしまい、猪が集落までやってくる確率は前期よりも少なくなっていると考えられます。

「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の論に従えば、上記2枚の図面は前期集落からのみ猪造形が出土していることの説明に使うことができます。

参考
大膳野南貝塚前期集落出土イノシシ形獣面把手
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

2018年5月28日月曜日

猪の飼養

猪の文化史考古編 18

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第3章猪の飼育・飼養問題について 1飼養への道筋」の学習をします。

1 飼養への道筋
縄文時代における猪飼養について著者の結論は次の通りです。
「ところで、やはり飼育や飼養を行なうのには動物を育てるための飼料、いいかえれば人の食料以外の余剰生産、すなわち生産力が条件となっている。この点からすると、道志村の「はな子」は野山と村とを自由に行き来するまさに半飼育の生活であり、生産力を補うのにはまことにふさわしいシステム内にいたことになる。
かつて私は「縄文時代後晩期における焼けた獣骨について」という論文の中で「(十月初旬のころ巣から出た)子連れのイノシシは、やはり縄文人にとっても目につき易いものであり、捕獲される率は当然高かったものと思われる」という表現を行なった(新津一九八五)。ここでは捕獲してから祭祀に用いられる間の飼養は当然考えたものの、出産以降の幼獣飼養という必要性は特に考えてはいなかった。しかし道志村での事例に接することにより、半飼育的な状況の可能性が考えられること、さきにふれた縄文時代における猪幼獣の犠牲獣としての可能性や人の幼児埋葬とのかかわりなどの事例検証を含め、猪幼獣の果たした役割を考えると、縄文時代における猪飼養はやはり有り得べきことかとも今は考えている。」「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
猪幼獣を捕獲あるいはムラでの出産の後、祭祀に使うまでの間飼養したことはあり得るという結論です。その前提に人が食べる食糧以上の余剰生産あり、それを猪幼獣にふりむけることができることをあげています。

2 大膳野南貝塚堀之内1式期の猪幼獣の飼育可能性について
上記の学習をしている中で、大膳野南貝塚発掘調査報告書のなかに猪飼養に関連する情報を発見したので興味を持ちました。
以下引用します。
「イノシシの内容を見ると、後期になると生後6カ月未満の幼小獣とした段階の子供のイノシシが見られるようになる。また、後期(堀之内1式期)の資料の中に上顎第2後臼歯が丸くなり、そのエナメル質に縦の「しわ」が多い資料が1点見られた。筆者はこのような例をオホーツク文化のブタや弥生ブタで見たことがある。
これは栄養不良等の成育環境が悪いことを示しており、このイノシシが飼育されていた可能性を示すものである。発育異常は野性のイノシシでも起こることや、今回は1例しか認められていないことから、この例だけでイノシシの家畜化を主張できない。ここではその可能性を指摘するに止め、さらに多くの分析を行ったのちに家畜化について改めて論じたいと思う。」
「イノシシでは後期堀之内1式期のイノシシ上顎骨で発育不全の例が見られたことから、飼育されていた可能性を指摘した。この点については今後検討すべき課題である。」大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

大膳野南貝塚堀之内1式期における猪幼獣飼育可能性が専門家から指摘され、その理由がイノシシ幼獣の飼料不足からくる栄養不良であることに興味をおぼえます。そもそも縄文社会食糧生産力が虚弱であり、家畜の飼育・飼養には最初から限界があることを如実に示しています。

大膳野南貝塚から出土したイノシシ上顎骨、下顎骨
1~3は幼獣


2018年5月17日木曜日

猪への祈りのまとめ

猪の文化史考古編 17

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第2章猪の埋葬、そして祈り 5猪への祈りのまとめ」の学習をします。

1 猪への祈りのまとめ
著者は次のチャートをもってこれまでの諸検討を総とりまとめしています。

猪への祈りのまとめ 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
大変参考になるチャートです。自分のブログで既に何回も紹介させていただいた記憶があります。
このチャートを参考に西根遺跡の出土物から想像できる出来事をまとめてみました。

2 西根遺跡の出土物に関わる想像

西根遺跡の出土物に関わる想像
アイヌの熊祭のような獣送り儀式が秋の堅果物収穫祭に行われたのではないだろうかと出土物から想像しています。

資料 戸神川谷津の秘密 参照
パワポ 戸神川谷津の秘密 参照 

2018年5月15日火曜日

猪に込められた祈りと願い

猪の文化史考古編 16

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第2章猪の埋葬、そして祈り 4猪に込められた祈りと願い」の学習をします。

1 猪に込められた祈りと願い
著者が2001年12月に宮崎県西都市銀鏡の里を訪れ、猪を捧げる祭を見学した様子がかかれています。
縄文の遺跡から発見される猪の頭蓋骨の意味を考える手立てを得られるかもしれないという期待を持って見学した様子が詳しく記述されています。
国の重要無形文化財である銀鏡神楽の開催にあたって直前に獲れた猪の頭部が奉納されていて「オニエ」と呼ばれ、「贄(にえ)」であり、神にささげる供物です。

銀鏡神楽のオニエの猪 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
神楽では「ししとぎり」(猪の狩にかかわる見定め)が構成要素になっています。
神楽の翌日には猪の頭を焼き、参加者に猪の肉と酒がふるまわれます。
頭骨の一部は山麓に埋められ、著者はアイヌの人たちが行う熊祭にも似た物送りの思想が息づいていると述べています。
この現代社会に伝わっている猪祭祀例を思考上のテコとして活用して著者は縄文時代猪埋葬や埋納事例を詳しく検討して、次のように結論を述べています。
「以上、縄文時代における猪について、成獣と幼獣の祭祀での役割を考えてきた。成獣は豊猟を願う儀式ー鎮魂、感謝を含めた物送りのような儀式に用いられた可能性を考えた。遺跡全体から発見される焼けた獣骨片もこれに含まれるのではないだろうか。そして幼獣については、より広い視野での豊穰や命のよみがえりを願うための犠牲獣として、その役割を演じたものとみなしたのである。」「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用

2 感想
縄文時代の習俗を彷彿とさせるような祭祀が現代に伝わっていることを見つけ出しその現場に足を運び、縄文時代祭祀に関する思考を深める著者の活動が大変魅力的で刺激的です。
思考面における既成枠にとらわれない積極性があれば、現代民俗も縄文時代遺構・遺跡に関する情報と重ね合わせる思考が可能となり、縄文時代遺構・遺跡の解釈が豊かになると考えます。

2018年5月7日月曜日

埋納された猪

猪の文化史考古編 15

この記事では「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)の「第2章猪の埋葬、そして祈り 3埋納された猪」の学習をします。

1 埋納された猪
●千葉県市川市向台貝塚
直径60~80cm、深さ50~60cmの土坑から首のない猪の幼獣2体が出土した。貯蔵穴が祭祀の場として利用されたもので、貝層を取り去った後の底から出土している。
頭部は別に用いられたことを意味する。
山梨県金生遺跡では幼い猪の下顎だけが115個体も発見されているが、これらは切り離された頭部の一部である。やはり、猪幼獣の頭部は何かに使われているのである。それは単に食べるための行為ではなく、頭部を捧げるあるいは敬うといった祈りにかかわる祭祀につながったものと考えたい。

●千葉県千葉市加曽利貝塚
第Ⅱ住居祉群22グリッドから上下の顎の骨を欠く猪個体が出土し、幼獣である。

●岩手県宮野貝塚
猪ばかりでなく鹿の頭蓋骨や下顎も含め並べられていた。

●千葉県船橋市取掛西貝塚
住居跡のくぼみに猪頭蓋骨12個やしか頭部2個体などが集中していた。中央部では猪頭蓋骨4個が意図的に並べられたような状況で動物儀礼が行われたと考えている。

2 考察
猪及び鹿などの頭部が儀式に使われ、頭部を欠いた体部が埋納された例が各所に見られることを知りました。
学習している大膳野南貝塚の後期集落では鹿頭骨列が出土していて何らかの祭祀に使われたものと想像しています。

参考 大膳野南貝塚後期集落 鹿頭骨列
大膳野南貝塚発掘調査報告書から作成

参考 鹿頭骨列復元空想図
ブログ花見川流域を歩く2018.01.22記事「鹿頭骨列の解釈」参照