2020年4月19日日曜日

わかりはじめた植物利用のあり方

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 15

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「3 わかりはじめた植物利用のあり方」を学習します。

1 わかりはじめた植物利用のあり方 概要と感想
1-1 堅果類用貯蔵穴の存在
・氷期がおわりに近づきつつあった約一万五〇〇〇年前頃、地球環境は急激な温暖化に見舞われた。
・この温暖化によって多くの植生は、冷温帯性の落葉広葉樹林に急速に置き換わっていった。この新しい森の主役はドングリを実らせるナラ類であった。
・鹿児島県の東黒土田遺跡からは、縄文時代草創期のドングリ類貯蔵穴が発見されており、これは約一万三四〇〇年前のものという年代測定結果が得られている(工藤2011)。
・食用とするのにアク抜きを必要とする種類のものであったら、この時期にまでアク抜きによる植物加工技術はさかのぼると見てよいだろう。
→フェイズ1の最寒冷期に食糧不足を少しでも補う目的で土器が(おそらく魚貝類調理のために)発明されたと想像します。その後のフェイズ2の温暖化でその土器が堅果類アク抜きに「転用」され、それが結果として縄文人の主食確保につながり縄文社会の基礎ができたと素人考えします。
本来の目的ではない別目的で発明された道具が、突然の環境変化で思いもかけない重要機能を担うようになったという現象が発生したと理解します。
このような事象つまり「別目的で作られた道具が転用により社会発展の原動力になる」が人の歴史、古今東西の歴史に多数あるのかどうか興味が湧きます。
このような事象を単なる偶然として片づけてよいものか、それとも偶然以外の法則的な現象であると捉えられるのか、興味が湧きます。
→ドングリ類のアク抜きの方法や必要量・保管方法等について詳しく学習する必要性を痛感します。膨大な量の備蓄方法など。

1-2 クリの利用開始
・縄文人は、温暖化によって植物相が変化していく中で、木材として食料として、有用な樹木であるクリをいち早く見いだしていたのである。
・この時期にノビルやギョウジャニンニクといった植物が利用されていたこともわかっている。
・他、ダイズ属(ツルマメ)の土器圧痕も検出されており、当時の人々がすでにマメ類も利用していた可能性が高い。
→クリの活用、クリ林の管理については別に詳しく学習したいと思います。

1-3 ウルシの利用開始?
・鳥浜貝塚からは、約一万二六〇〇年前のウルシ材が出土している。ウルシは、本来、日本には自生しない外来植物であることから、ウルシがすでに草創期には日本に持ち込まれていたことになる。現状では、当時ウルシが何に使われたのか判断するのはむずかしいが、樹液を採集し、石鏃と矢柄を接着したり、土器を接合したりする接着剤として使われた可能性も否定はできない。また、すでにこの段階で漆器の製作加工の技術が存在した可能性も視野に入れておいてもよいかもしれない。
→ウルシの樹液による漆器製作にはウルシ液の保温等のために土器が必須ではないだろうかと考えます。土器が先行するからこそウルシ液活用が始まったと考えてよいか学習を深めます。

2 参考 加曽利B2式土器漆パレット再利用品

西根遺跡352番土器 内面 (千葉県教育委員会所蔵)
(観察土器は放射性炭素測定資料採取のためにあらかたの漆が除去されています。)

352番土器漆付着の様子
西根遺跡発掘調査報告書から引用
出土した時の漆付着の様子写真です。
ブログ花見川流域を歩く2019.06.04記事「加曽利B2式土器 西根遺跡 漆パレット再利用品

2020年4月13日月曜日

草創期フェイズ3の学習

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 14

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「2 草創期における各様相」の「フェイズ3におけるさまざまな展開」を学習します。

1 フェイズ3におけるさまざまな展開 概要と感想
・寒の戻りであるヤンガードリアス期の頃で、およそ一万三〇〇〇年前から一万一五〇〇年ぐらい前のことである。

参考 旧石器時代末から縄文時代にかけての狩猟具の変遷と気候変動
堤隆著「狩猟採集民のコスモロジー 神子柴遺跡」(2013、新泉社)から引用・加筆

・この時期に使用された土器…爪形文土器群、多縄文土器群、表裏縄文土器群
・「遺跡の立地をみると、山間部へと分布が拡大していくさまが読み取れる。遺跡数も以前より増加し、住居跡等の遺構の発見例も多くなる。」
→山間部への分布拡大について、後日データを見つけてその具体的状況を確認したいと思います。一般論として生活域が拡大したというレベルではなく、〇〇のために山間部まで分布が拡大したと考えられるにように学習します。寒冷化で生活が厳しくなる状況で、なぜ山間部にまで拡大したのか?なぜ住居跡等の発見が多くなる(≒遺跡増、人口増?)のか?
・「実用品である石器や土器以外にも呪術具である土偶(三重県粥見井尻遺跡・滋賀県相谷熊原遺跡)や赤色顔料を塗った土器(宮崎県清武上猪ノ原遺跡)なども出土しており、この段階で精神文化にある程度の高揚があったことは間違いないだろう。」
→精神文化の高揚と寒冷化で生活が厳しくなったという事象に関係があるような気がします。寒冷化と精神文化高揚の相関を考えてよいか?
飢えで家族が死ぬなどの厳しい場面に何回も遭遇する中で、自分の正気を保ち、困難に立ち向かう気力を保持するための心の持ち方の工夫が集団全体で営まれたと想像します。その精神的営為における産物が土偶や赤色土器であると理解しておきます。

滋賀県相谷熊原遺跡の土偶
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用
土偶の乳房は、出産後赤ん坊に十分な母乳を飲ませることができて、無事育てられることを祈願していると思われます。
おそらく母乳が十分に出ないために、出産後しばらくして死してしまう赤ん坊が多かったのだと思います。
妊娠した女性が母乳がたくさん出るように乳房が大きくなるように祈願して、土器製作の合間に自ら作成したと想像します。
首のところにある穴はここに蔓のような紐を差し込んで樹液等で接着し、その紐で衣服に縛ってお守りとして肌身離さず持てるようにしたと想像します。土偶(お守り)が生活の邪魔にならないように手でできる最小限の大きにしています。
土偶(お守り)が最小限の大きさであることから、逆に、妊娠女性が自分だけで加護を祈願していたということがわかります。家族に見せるためとか、家の中に飾るとかの用を全く考えていなかったことがわかります。出産と育児の全責任が自分にあるという覚悟を持っていたことが判ります。
赤ん坊が無事育つことがいわば奇跡であり、無上の幸福であった時代であることをこの土偶が語っているのだと思います。
逆にこの土偶は、多くの出産後女性の乳房が小さく、母乳が十分に出ないので赤ん坊の多くが死んでしまう食糧事情を物語っています。

・「フェイズ3の段階における居住形態は、本格的な定住を視野に収めつつも、その段階にはまだいたっていないものと考えられるだろう。」
→三重県粥見井尻遺跡や滋賀県相谷熊原遺跡の住居について発掘調査報告書等を入手してデータを確かめて、本書記述の理解を深めたいと思います。

2 参考 縄文早期前半のバイオリン型土偶

バイオリン型土偶 小室上台遺跡出土
船橋市飛ノ台史跡公園博物館展示

2020年4月12日日曜日

草創期フェイズ2の学習

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 13

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「2 草創期における各様相」の「フェイズ2における状況」を学習します。

1 フェイズ2における状況 概要と感想
・温暖化が始まった15000年ぐらい前から13000年ぐらい前の段階。

参考 旧石器時代末から縄文時代にかけての狩猟具の変遷と気候変動
堤隆著「狩猟採集民のコスモロジー 神子柴遺跡」(2013、新泉社)から引用・加筆

・「この頃になると植生も落葉広葉樹が多くなり、遺跡も台地や丘陵地へと進出していく様相を見ることができる。この頃に使用されていた土器は、口縁部に粘土の貼り付けによってミミズ腫れのような文様を付けた隆起線文土器群と呼ばれるものである。この時期には、日本各地において遺跡数も増加し、住居跡と考えられる遺構の発見例も増えてくる。」
→台地や丘陵地は旧石器時代から主要な狩場として利用されてきていますが、フェイズ2の段階ではじめて台地や丘陵地の狩猟キャンプでも土器を利用しだしたと理解します。土器が海岸や河川での生業で使われるだけでなく、狩場近くの逗留地でも使われるということは土器の利用の幅が広がったということで、堅果類の食用に使いだしたと考えます。また土器を所持するということから1箇所に定着する期間が延びたということ、つまり定着性が進んだというとも意味すると考えます。
→温暖化による植生変化という自然事象を、土器という道具を活用することによって、生活を有利に展開する条件に変えたことが縄文文化展開の根本的な基礎であると考えます。

・「縄文時代を代表する石器である石鏃の出土数も増加する。しかしながら、石鏃が出土しない遺跡も存在するので、この段階には弓矢の使用はまだ一般化していなかったのかもしれない。」
→弓矢の発明がいつ行われたのか、その契機(背景)はなにかなど学習を深めたいと思います。
→携帯弓矢と設置型仕掛け弓との関係も研究があれば知りたいと思います。
→この時期だけ矢柄研磨器が伴うのはなぜか、その疑問に対する答えを得たいと思います。

・「九州地方南部における人々の定着性(定住化傾向)は、他地域に先駆けて強くなっていたと考えられるだろう。」
・「北海道にも本州と同じ時期に土器文化が存在したことが明らかとなった。」
→九州地方南部と北海道の遺跡事例を発掘調査報告書等により今後学習したいと思います。
→九州の事例では「植物加工に用いられたと思われる石皿や磨石類(堅果類などを敲いてすりつぶすための丸い石)が目立つようになる。」のに対して、北海道の事例では「おそらくは川をさかのぼったサケ・マス類を土器で調理した痕跡である可能性が高いとされている(Kunikita,D.etal2013)。」という対比は土器利用の主目的が時間によって変化した様子を地理的に表現しているように理解します。

2 参考 隆起線文土器及び有舌尖頭器 3Dモデル

隆起線文土器片(44図-1) 一鍬田甚兵衛山南遺跡出土 観察記録3Dモデル
撮影場所:千葉県教育庁文化財課森宮分室
撮影月日:2019.05.27
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.353 processing 52 images

有舌尖頭器(88図-30) 一鍬田甚兵衛山南遺跡出土 観察記録3Dモデル
千葉県教育委員会所蔵
撮影場所:千葉県教育庁文化財課森宮分室
撮影月日:2019.05.27
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.353 processing 42 images

一鍬田甚兵衛山南遺跡出土土器、石器を多数閲覧して3Dモデル作成用撮影を行っていますので、それを材料にして時期設定して草創期フェーズ2学習を深めたいと考えています。

2020年4月11日土曜日

草創期フェイズ1の私的学習仮説のバージョンアップ

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 12

2020.03.29記事「草創期フェイズ1と私的学習仮説」の追補記事です。
数冊の図書を読み旧石器→縄文の移行期のイメージが少しだけですが豊かになりました。そこで草創期フェイズ1に関する私的学習仮説をバージョンアップします。
なおこのブログでの私的学習仮説とは、自分がこれから行う縄文社会消長分析学習で何が問題・課題であるか、つまり自分は何に興味を持つべきかという態度を整理するために設ける学習興味一覧みたいなものです。自分の学習をより効率化するための仮説です。

フェイズ1に関する私的学習仮説(バージョンアップ 2020.04.11)
1 寒冷化が促したヒトの土器発明
1-1 最寒冷期にヒトが生き残るために食糧資源開発が活発化した。
最終氷期クライマックス期に入り寒冷化が一段と進み、ヒトという種が生き残るために食糧資源開発が喫緊の課題になったと考えます。
寒冷化の中で狩猟で獲った動物だけではヒト社会を維持できるだけの食糧を全部賄えない状況が生まれたと考えます。
古本州島では生き残りのためにヒトは次のような工夫をした(せざるをえなかった)と考えます。
ア 動物をより効率的に獲る工夫をする
イ これまで利用しなかった獲物部位や動植物をより効率的に食糧資源化する
・骨や皮・腱等の効率的食糧利用
・サケマスの食糧利用
・貝の食糧利用
・樹皮や根茎等の食糧利用

アに関しては当時のハイテク技術とでもいえる細石刃文化が古本州島に入ってきたことに対応していると考えます。石材を採集し持ち運ぶ手間が急減し、狩猟活動が効率化したと思います。
イに関して、多様な工夫がなされ、その一つに煮沸のための容器有用性が体験的に知られるようになり、土器発明の条件が整ったと考えます。
貝の利用は当時の海岸線が海抜マイナス100mにあり、遺跡遺物から検証することは現状では不可能です。しかし、当時の人が海岸線にも進出して食糧を調達したことは当然であると考えます。

1-2 土器の発明
・動物の骨や皮・腱等、サケマスや貝、樹皮や根茎当を調理して美味しく食べるために試行錯誤の末に土器が発明されたと考えます。
・土器は調理器具として発明されたのであり、即ち女性が発明したものです。

2 土器発明が定着場面増加を促す
土器が発明されサケマス、貝、樹皮や根茎等を効率的に食糧に取り込み、美味しく食べられるようになると、それらの食材は全てある季節に獲れるものであり(旬の食材)、その季節に一定の場所で定着することになります。
石器石材の持ち運びに苦労している狩猟民にとって土器はそれ以上に持ち運びに不便なものです。
土器の発明は最初からそれを使う場所での一定の定着生活を意味していたと考えます。
つまり、土器が発明され食材が多様になるとともに遊動生活に定着場面が増えたと考えます。

3 定着場面増加が遊動集団の領域占用を促す
遊動的狩猟をしつつも季節の旬の食材を特定場所で獲得する生活を繰り返しているうちに、集団ごとに領域占用が生まれたと考えます。
同時に集団ごとの交易も始まったと考えます。
集団は自分の領域にないものは交易によって入手できるようになります。

4 石器石材を交易で入手できるようになる
土器発明に起因する定着場面増加→遊動集団の領域占用→交易の活発化によって石器石材も入手できるようになったと考えます。
素材としての石材だけでなく、製品としての石器の流通も始まったと考えられます。
神子柴遺跡の大型石斧はこのような交易の様子を示しています。
細石刃のような石材の超節約をしなくて済む社会が生まれたのだと思います。
土器発明が引き金となって石器石材が交易ルートで入手できるようになると、細石刃文化は用済みになったと考えます。

5 土器発明が古本州島で生じた地形的背景
土器発明が古本州島で生じたと考えるとき、その背景として次のようなことが考えられると想定します。
ア 古本州島では海岸域(貝類)-河川中上流域(サケマス)-台地丘陵山地(陸獣)のセットが手ごろな「流域」として存在しています。その多様な自然環境を家族-集団が独占的に利用できます。したがって、貝類やサケマス資源開発が社会テーマとなった時に社会全集団がその開発に取り組むことができます。
イ 古本州島は地形が複雑であり大規模で効率的な陸獣猟が不可能であることから貝類やサケマス資源開発を促進せざるを得ない側面もあったと想定できます。
ウ 沿海州大陸では地形単位が大きく陸獣猟が効率的にできることからサケマス資源開発が遅れた可能性があります。その結果土器発明も遅れたと考えます。
エ 沿海州陸域面積に比して海岸線が短く、結氷の影響もあり貝類等海域資源開発は低調であったと想定します。海岸部利用の低調さが魚貝類資源開発の遅れになり、それが土器発明遅れに影響したと想定します。

ツタの新芽

2020年4月7日火曜日

春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」学習

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の参考文献(佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」)に出ていて参考文献の学習です。

1 春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」(国立歴史民俗博物館研究報告 第90集 2001年3月)
国立歴史民俗博物館サイトからダウンロードして入手できました。専門論文が一般市民でも即入手できるということは素晴らしいことです。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun4/index.html

2 縄文土器出現の契機に関する記述
佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」で縄文土器出現の契機について次のように記述し、その参考文献として春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」をあげています。
「縄文草創期の温暖期あるいは早期以降は堅果類のあく抜き処理容器として利用された痕跡が確認でき、煮炊きと並んでこれが縄文土器の主要な用途と考えられるが、出現の契機は別であろう。」

春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」における縄文土器出現の契機に関する記述は次の通りです。
「考古学では,土器の出現を,弓矢・磨製石斧とあわせて後氷期における技術革新の一つとして取りあげてきた長い歴史がある。すなわち,気候の温暖化,完新世の始まりと土器・弓矢・磨製石斧の出現を結びつけて,これらは完新世の新しい環境に適応するための技術革新であり生活革命であると理解し,縄文時代の始まりの意味を追究してきた。考古学・古植物学の新たな展開があってもなお,年代をさかのぼらせることによって,これまでの理解を基本的によしとするのか,それとも東日本のばあいはむしろ,寒冷気候下での自然資源の変貌に対応するための発明であったと考えなおすのか,新たな観点からの再検討を迫られている。」(太字は引用者)

関連する掲載図表
春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」(国立歴史民俗博物館研究報告 第90集 2001年3月)から引用

著者は寒冷化が進んで2万年前頃には本州の東ではナウマンゾウなどの大型狩猟獣が姿を消し、旧石器時代人は新たな食糧資源開発を迫られたと述べています。その寒冷期食料資源開発の一環として土器発明もあるのではないかと述べていることになります。

氷期のさらにクライマックス期に土器が発明された理由としてとても分かりやすいものになっています。

3 論文の本旨
論文の本旨は、本州におけるナウマンゾウなどの絶滅の主要な理由は人によるオーバーキルではなく、植生変化によるものであるという点にあります。

更新世後期から完新世にかけての動物の編年的分布
春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」(国立歴史民俗博物館研究報告 第90集 2001年3月)から引用

この論文はシンポジウムの資料に手を入れたものだそうで、読んでいると著者がしゃべっている様子が目に浮かんでくるような錯覚を覚えるようなとても読みやすい読み物です。
更新世後期から完新世にかけての大型動物絶滅の様子がよくわかります。
古生物学と考古学の橋渡しがこの論文で行われています。

佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」学習 その2(完)

佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」(2013、岩波講座日本歴史第1巻収録、岩波書店)の学習を2回に分けて学習し、そのメモをつくりました。
この記事では土器誕生から縄文時代全部の様子を学習します。

1 興味を持った情報の要旨
ア 世界最古級土器の出現
古本州島では青森県大平山元Ⅰ遺跡の無文土器を最古例として世界最古級土器(16000~15000年前)が出現し、以降連綿と土器文化が継続する。
この時期に中国南部や東シベリア・極東等の一部で相互に独立して土器が出現するが、それらの地で継続した痕跡は確認できない。
南アジア・中国では定住集落による農耕が開始され、おくれて牧畜も発生するがすべて完新世になってからの出来事であり、更新世に土器文化の起源を有する縄文文化は世界的にも稀有な考古的現象と考えられる。
古本州島の最古の土器出現プロセスは依然として明らかでない。

縄文草創期の温暖期あるいは早期以降は堅果類のあく抜き処理容器として利用された痕跡が確認でき、煮炊きと並んでこれが縄文土器の主要な用途と考えられるが、出現の契機は別であろう。

イ 草創期における縄文化への構造変動
最古土器群は寒冷期に相当し、出土数がきわめて限られる。
晩氷期前半温暖期は遺跡が増え、隆起線文土器期で列島中に分布が認められる。本格的な定着生活に移行しておらず、広域移動戦略も行われていた。
爪形文・多縄文・押圧縄文期になると遺跡が激減し晩氷期後半の寒冷期になった可能性が高い。旧石器的な資源環境が復活し遊動的行動生活が有利であった。
早期初頭に遺跡数が本格回復する。
植物処理具(礫石器)は未発達、狩猟具は旧石器時代系譜の両面体尖頭器や有茎尖頭器が主体、弓矢を示す石鏃は前半ですでに出現しているが一般化は後半から、水産資源開発・漁労の証拠である貝塚は早期初頭から、小規模な集落出現は後半からとなる。
縄文化への構造変化は、草創期を通じて徐々に行われた。

ウ 竪穴住居
半地下式の竪穴住居は住居の壁を土で代用でき相対的に堅牢で簡便に構築でき、冬季の暖房効率が高い。定着的生活が竪穴住居採用の必要条件のひとつである。

エ 環状集落
中央墓坑群を中心に竪穴住居がめぐり外側を貯蔵穴が取り囲む構成となる。
系統を同じくする同一集団が社会構成原理を維持しながら長期にわたって居住し続けた。同時存在した住居は数軒にすぎない。
中央の墓群と周囲の竪穴住居が祖先-子孫関係のような血縁紐帯によって密接に関連付けられる分節化した部族社会(階層化社会)であったとする解釈が有力。
中心が聖的空間、外側に向かって世俗空間化するとみなされている。
1年を通して定住していたとは単純にみなせない。おそらく春から秋にかけては生業現地に分散居住し、冬季は埋葬・貯蔵施設をもつ環状集落に集住することを基本としていたであろう。

オ 植物資源
アサ、ヒョウタン、豆等の栽培植物、クリの選択管理、イノシシの放獣等が行われたことは明らかである。
雑穀等の農耕(焼畑や畠作)の証拠はなく、縄文農耕論は晩期末を除いて各種研究成果から否定される。
重要な植物資源はクリ、トチ、ドングリ、クルミ等の堅果類で、あく抜きの必要な堅果類は土器を用いた加熱や水さらしによって処理し、主要な食糧としていた。
ただし、堅果類の管理栽培は定住の必然性がない。

カ 水産資源
早期前葉になると貝塚が形成されるようになった。温暖気候化に伴う海退(ママ)によって大陸棚が発達し広大な干潟が形成されたため、貝類をはじめとする水産資源が豊富になったためである。
旧石器時代にはなかった資源環境が出現し、各種漁労が開始された。
北米北西海岸先住民のように漁労や海獣狩猟に高度に依存した社会では例外的に階層化社会を形成していたことが知られているので、北海道の縄文後期海獣猟漁民社会では、すでに階層化社会に到達していた可能性も議論されている。

キ 陸獣狩猟
旧石器時代の狩猟民が特定の中・大型獣を狩猟対象としするスペシャリストであったのに対して、縄文人はゼネラリストの猟漁採集民であった。旧石器時代人は広域移動する集団猟、縄文人は小地域占有的個人猟を発達させた。
列島最古の猟犬は草創期愛媛県上黒岩陰遺跡から埋葬跡とともに出土している。
罠猟のうち陥し穴猟は後期旧石器時代前半期の相対的な温暖期に一部の地域で盛行するが、寒冷化が進行すると衰退した。完新世の温暖化をいちはやく迎えた南九州の後期旧石器時代末期に活性化した。草創期になると北海道を除いて列島各地に展開し、早期にはピークを迎える。
一定の見回りと補修行動が要求される罠猟の盛行は、縄文時代における季節的で定着的な計画的生業活動の発達を意味していた。

ク 資源の流通
生活財から装飾品・奢侈品まで広範囲にわたる産品が流通・交易の対象とされていた。
縄文時代の流通ネットワークは近隣集団間で行われた日常品の交換・交易と地域集団間の同盟関係を安定させるためにもっぱら上層クラスの間で象徴的に行われた奢侈品や威信財の遠距離の贈与交換の2種類から構成されていたと考えられる。

ケ 土偶
土偶は草創期後半から認められ、列島全体で発達した。
土偶の性格を家神(祖先神)に帰するか、地母神・精霊等に帰するかという論争は決着していない。
いずれにせよ縄文時代には、神話と伝承・呪術に満ちた何らかの精神世界が活発に展開していたに違いない。

コ 小氷期のような環境変動の影響
列島規模でみられる環境変動に起因した地域社会の崩壊と再生の画期は、早期中頃、中期・後期移行期、縄文晩期・弥生移行期の各小海退(小氷期)とよく一致している。
高度の動植物資源利用システムの発達こそが、小氷期のような環境変動の影響を受容しやすくしていたのであろう。

サ 縄文中期・後期移行期の寒冷化(小海退)の影響
東日本では谷の削剥等の地形環境の変化に伴い低地にトチが繁茂する環境が出現し、クリからトチの利用へと主要な食糧資源が変更され、それに伴いそれまでの大型環状集落への集住といった居住形態から、河川流域等に分散して居住する散村へと集落形態が移行した。
そのため、集落内にあった各種の儀礼施設・装置が集落外へと移行し、集団維持のための大規模祭祀センター(ストーン・木柱サークル等)が出現するようになる。
中心-周縁からなる可視的空間構成の原理が解体し、今日の集落の構成形態に類似する空間構造へと再編された。
集落は台地上の広い平坦地から尾根・丘陵等のより狭い平坦地や谷際に移動し、谷間にはトチの実を水さらしするための水場等の施設が作られた。
今日の里山に類似する資源利用構造が出現した可能性が高い。

2 感想
2-1 問題意識を深めた情報
ア 「縄文草創期の温暖期あるいは早期以降は堅果類のあく抜き処理容器として利用された痕跡が確認でき、煮炊きと並んでこれが縄文土器の主要な用途と考えられるが、出現の契機は別であろう。」には参考文献(30)「春成秀爾著「更新世末の大形獣の絶滅と人類」(国立歴史民俗博物館研究報告 第90集 2001年3月)」が注記されています。
この文献を芋づる式に読んで、土器発明が「寒冷気候下での自然資源の変貌に対応するための発明であった」と示唆されていて、その通りだと考えました。

 「土偶の性格を家神(祖先神)に帰するか、地母神・精霊等に帰するかという論争は決着していない。」の論争の意味が全くわからないので、参考資料を芋づる式に手繰って学習することにします。

コ 「東日本では谷の削剥等の地形環境の変化に伴い低地にトチが繁茂する環境が出現し、クリからトチの利用へと主要な食糧資源が変更され、それに伴いそれまでの大型環状集落への集住といった居住形態から、河川流域等に分散して居住する散村へと集落形態が移行した。」と書いてある事柄が自分の縄文社会消長分析学習のテーマそのものです。
この図書に書いてあるような具体内容を初めて知りました。
対戦相手の様子がわかってきて、闘争意欲がますます強まったような心境になります。
これまで縄文社会消長の原因について「専門家は判らないことは何でも気候変動のせいにしてしまう」という不満・不振を強く持っていました。そうではなく、専門的研究やデータ分析で縄文社会消長と気候変動の関係が明らかになっているのならば、ぜひともその専門論文を学習したいと思います。その学習のなかでいろいろな知識が身に付き、より合理的な感想をもつことができると思います。
この記述にかかわる文献を芋づる式に学習することにします。

2-2 疑問が生まれた情報
 「早期前葉になると貝塚が形成されるようになった。温暖気候化に伴う海退(ママ)によって大陸棚が発達し広大な干潟が形成されたため、貝類をはじめとする水産資源が豊富になったためである。
旧石器時代にはなかった資源環境が出現し、各種漁労が開始された。」
大いに疑問が湧き出る記述です。
1 まさか海退によって(海面が下がり)大陸棚が顔を出した状況を脳裏に浮かべているのではないと推察します。いくらなんでもそこまで勘違いしていることは無いと思います。
2 海進により(海面が上昇し)大陸棚が徐々に水没して干潟ができた状況を表現しているのだと思います。
そのように記述しているとすれば、2つの疑問が生まれます。
疑問1 海進(海面上昇)により現在大陸棚といわれる部分が徐々に水没していくとき、広大な干潟は形成されていないと思います。寒冷期に長期にわたって浸食を受けている陸地が水没するのですから、リアス式海岸が生まれます。複雑な入り江のある海岸が生まれます。その海岸は干潟よりも水産資源が豊富だったと思います。
疑問2 文章から、寒冷期(海岸低下期)よりも温暖期(海岸上昇期)の方が水産資源が豊富であると読み取れます。それが本当のことであるのか疑問が生まれます。旧石器時代人が水産資源を利用するという観点からみて、海岸低下期の海の状態がどうであったか知る必要があります。その海岸線は旧石器時代人にとって利用すべき資源は少なかったと結論付けることができるのでしょうか?そう言える研究とかデータがあるのでしょうか?

旧石器時代人が当時の海岸には寄り付かなかったという根拠はありません。サケマス漁をするくらいですから、海岸線で貝や魚を取った可能性を否定する根拠はありません。
寒冷期海岸線の様子がわからないだけで、またそこでの遺跡存否がわからないだけです。
寒冷期海岸線で旧石器時代人がサケマス漁と同程度のレベルで漁労をしていたことを頭ごなしに否定できる根拠はありません。

自分の言いたいことは、海岸線漁労も内水面漁労や土器発明と同じで、寒冷期の自然資源開発の一環として行われたという仮説がありうるということです。

路傍の花(2020.04.07)

2020年4月6日月曜日

佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」学習 その1

佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」(2013、岩波講座日本歴史第1巻収録、岩波書店)の学習を2回に分けて学習し、そのメモをつくりました。
この記事では土器誕生までの更新世の様子を学習します。
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習の寄り道学習です。プロローグに参考文献として掲載されていた文献です。

1 興味を持った情報の要旨
ア 現生人類の出現過程と列島に後期旧石器時代人が棲むようになるまでの様子
現生人類型行動という概念を使って後期旧石器時代人が棲むようになるまでの様子について知りました。

イ 後期旧石器時代の古北海道半島の様子
古北海道半島は大陸と地続きで動植物相と人類文化は大陸とよく似ている。
古北海道半島の後期旧石器時代時代区分の存続期間は古本州島と異なる。

後期更新世の日本列島における地質時代区分と考古学的時代区分の対比
佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」(2013、岩波講座日本歴史第1巻収録、岩波書店)から引用

ウ 古北海道半島人類文化の変遷
古北海道半島の最古人類文化は古本州島系の台形様石器群と考えられる。
台形様石器の多くは臨機的な狩猟具であったと考えられる。
前半期後葉になると古本州島で基部加工尖頭形石刃石器が出現し、古北海道にも伝播する。
突然細石刃石器群が登場し、後半期を通じて存続する。
細石刃技術は究極的な石材節約技術であり、素材補給という節約から解放され、人々は大型動物狩猟に専念できた。
細石刃技術は最寒冷期にシベリアからマンモス動物群が渡来する時期と一致し、シベリアからの人類集団渡来によって将来されたと考えられる。
細石刃技術や非細石刃石器群を加えた区分は空間的・時間的重複が大きく、明確な地域差を看取できない。異なる石器群集団は異系統であると考えられるが、広域移動戦略を共有するため排他的領域を発達させなかったと考えられる。この点は後半期に古本州島で排他的地域性が顕在化するのと大きく異なる。

後期更新世の日本列島に見られた中大型哺乳動物相
佐藤宏之著「日本列島の成立と狩猟採集の社会」(2013、岩波講座日本歴史第1巻収録、岩波書店)から引用

エ 古本州島人類文化の変遷
パッチ状に草原が散在する針葉樹林や針広混交林の中でナウマンゾウ-オオツノシカ動物群を狩猟する行動戦略がとられた。
前半期は台形様石器群が基調となっていた。基部加工尖頭形石器(大型狩猟具)と台形様石器(小型狩猟具)が使い分けられていたと考えられる。
後半期になるとナウマンゾウ-オオツノシカ動物群の大型動物が絶滅し、狩猟対象が中・小型動物に移行した。
そのため人類集団の狩猟範囲や資源利用領域も縮小し、石器群の地域的分立が顕著となり地域差が一気に拡大した。
列島に東北、中部、関東、近畿、九州といった地域社会が成立したことを意味する。各地の地域集団が独自に細区画化し領域での資源開発を行っていたと考えられる。

オ 古本州島における地域社会分立の崩壊
後半期後葉になると北海道の細石刃石器群とは技術的に異なる稜柱形細石刃石器群が古本州島西半部に広がりそれまでの石器群の地域差を解消する。
この古本州島独自の細石刃石器群は古北海道の細石刃石器群の影響下で成立すると考えられるが、人間集団の移動を意味するものではなかった。
後半期後半になると古北海道の細石刃技術そのものが古本州島東半部に伝播した(北方系細石刃石器群)。
この伝播は人間集団自体の南下に伴ったものと考えられ、サケマスなどの河川漁労という新たな生業戦略の開始をもたらしたと考えられる。
河川漁労の開始は定着性の発達を促した可能性が高い。
北方系細石刃石器群の存続は短期間にとどまり、後葉期末になると在地系の各種の両面体尖頭器石器群の発達によって更新された、縄文時代草創期へと移行していく。

カ 世界最古級土器の出現
古本州島では青森県大平山元Ⅰ遺跡の無文土器を最古例として世界最古級土器(16000~15000年前)が出現し、以降連綿と土器文化が継続する。
この時期に中国南部や東シベリア・極東等の一部で相互に独立して土器が出現するが、それらの地で継続した痕跡は確認できない。
南アジア・中国では定住集落による農耕が開始され、おくれて牧畜も発生するがすべて完新世になってからの出来事であり、更新世に土器文化の起源を有する縄文文化は世界的にも稀有な考古的現象と考えられる。
古本州島の最古の土器出現プロセスは依然として明らかでない。

2 感想
2-1 読後の総合印象
この図書の発行年が2013年と新しいため、旧石器時代から縄文時代にかけての社会変動の最新知識の結論を体系的に入手できたと考えます。
記述内容も平易であり、論旨が難解と感じるところは皆無でした。
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習のとてもよい参考となりました。

2-1 学習に役立った情報
・古北海道半島と古本州島では後期旧石器時代における人類文化の変遷が大きく異なることを詳しく知ることができました。
・後半期つまり最終氷期最寒冷期になると、古北海道半島ではマンモス動物群とともに大陸から人の移動を伴って、当時のハイテク技術である細石刃石器群文化が突然訪れたことを知りました。
・同じ時期、古本州島ではナウマンゾウ-オオツノシカ動物群の大型動物が絶滅し、狩猟対象が中・小型動物に移行したため、石器群文化が地域的に分立し、列島に東北、中部、関東、近畿、九州といった地域社会が成立したことを知りました。縄文文化の基礎となる地域性が誕生したのがこの最終氷期最寒冷期であることになります。
・その後細石刃石器群文化が西日本と東日本に伝播し、古本州島の地域性が一端一様社会になり、その反発(在地系の各種の両面体尖頭器石器群の発達…神子柴・長者久保文化)の中で土器が誕生したというストーリーになります。
・北方系細石刃石器群文化により河川漁労がもたらされたということや、それまでに地域性が確立していたという要因が土器誕生に絡んでいると推察したくなります。
・地域性の確立つまり海岸から流域界山地までの環境資源開発が進み、定住促進的要件が備わりつつあるところに外部からハイテク技術(細石刃技術)や新生業(河川漁労(場合によっては海岸漁労))技術を有する文化伝播(具体的には異人族の侵入)があり、それに反応した在来集団が土器発明に至ったというストーリーを想像します。
・土器は河川漁労(魚油づくり)だけでなく、貝を煮て食べるための道具として発明された可能性を感じます。
・最寒冷期を生き延びる生活技術として海岸の貝を広い、土器で煮て食べるという発明があったかもしれないと空想します。
・ただ、当時の海岸は現在の海抜マイナス100mですから、遺跡という証拠を得ることはできません。
・「大陸棚海底考古学」みたいなものが発達すれば、更新世の貝塚と土器が発見され、土器発生の説明ができるようになるかもしれません。

・次の趣旨の記述の意味を詳しく知りたくなります。
「後半期後葉になると北海道の細石刃石器群とは技術的に異なる稜柱形細石刃石器群が古本州島西半部に広がりそれまでの石器群の地域差を解消する。この古本州島独自の細石刃石器群は古北海道の細石刃石器群の影響下で成立すると考えられる。」
日本西部に広がる稜柱形細石刃石器群がどうして空間的に離れる古北海道の細石刃石器群の影響下で成立するのか、その空間的な意味でのメカニズムが判りません。

2020年3月29日日曜日

草創期フェイズ1と私的学習仮説

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 11

「第二章土器使用のはじまり草創期(Ⅰ期)」の「2 草創期における各様相」の「フェイズ1の概観」を学習します。

1 フェイズ1の概観 概要
・約16500年前から15000年くらい前の、まだ温暖化が始まらない寒冷期で、針葉樹が卓越する環境下にある段階がフェイズ1である。
・遺跡は平野における微高地上に立地することが多く、この頃の土器は文様のない無文土器群と呼ばれるものである。
→土器を伴うこの時期の遺跡が微高地上に立地している場合が多いという意味で理解します。
→もし、土器を伴わないけれども、この時期であることが特定できる遺跡が判っていて、それが「微高地に立地することが多い」という事実が判れば、自分の思考を直ちに改めることにします。

・フェイズ1の遺跡としては、青森県大平山元Ⅰ遺跡や東京都前田耕地遺跡などを挙げることができる。遺跡数はあまり多くはなく、住居跡などの遺構の確認例も少ない。
→土器を伴わないこの時期の遺跡は特定できないから、つまりカウントできないので、このような記述になるのだと思います。
→フェイズ1に人が残した遺跡は後期旧石器時代の中でも少ないということはないと考えます。逆に技術開発が進んでいた時期ですから人口増加期であると想像します。

・大平山元Ⅰ遺跡は神子柴・長者久保文化の石器群が出土し、これに無文の土器や石鏃が伴うことが明らかになった。
・神子柴・長者久保石器群に土器が伴うことが判明し、縄文時代草創期の石器群として認知されるようになった。較正暦年代で約16500年前から15700年前という年代が測定された。
・大平山元Ⅰ遺跡からは掘り込みを持つような明確な住居跡や繰り返し使用されて被熱面が赤色化したような屋外炉等は検出されておらず、その居住形態も一ヵ所に長期にわたって定着するようなものではなかったようだ。
→大平山元Ⅰ遺跡について、この記事に続いて手持ち資料レベルで学習を深めることにします。

・大平山元Ⅰ遺跡よりはやや新しくなるものの、フェイズ1の段階の住居跡としては、東京都前田耕地遺跡から検出された二棟の住居跡がある。
・一棟は長径四・二メートル、短径三・一メートルほどの不整円形の竪穴式住居である。屋内に炉があるものの、柱穴はなく、長期にわたる定着的な生活ができたとは想定しがたい。一方で、竪穴式住居の炉からはサケのアゴの骨などが多数発見されており、この段階ですでにサケなどが多数発見されており、この段階ですでにサケのように季節によって多量に捕獲可能な水産資源が利用されていたことがわかる。
・これらの住居も、サケの捕獲など季節的かつ集約的な労働時に設営された、一時的なものであったのかもしれない。このような居住形態は、アフリカの民族誌に見られるような、食料を求めて移動を繰り返す人々(これをフォレジャーと言う)の居住形態に近いものと考えられるだろう(佐々木一九九一)。
→前田耕地遺跡は特段の興味が湧きますので、この記事に続いて手持ち資料レベルで学習を深めることにします。

東京都前田耕地遺跡の住居跡
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

サケの顎歯と前田耕地遺跡の尖頭器
堤隆著「列島の考古学 旧石器時代」(2011、河出書房新社)から引用

2 フェイズ1に関連した「私的学習仮説」設定
学習を効率的に行うために、次の私的学習仮説を設定します。今後の学習で得た知識でこの学習仮説を随時修正することにします。学習仮説設定とその修正作業により自分の知識の確からしさを高める活動を効率化します。

フェイズ1に関する私的学習仮説
1 土器が生まれた理由(背景)
1-1 土器発明は後期旧石器文化発展の一つの事象
ナイフ形石器群→細石刃石器群→神子柴・長者久保石器群という変化は狩猟の効率化や環境変化に対する適応だけでなく、居住形態、生業形態、集団構造、精神文化全般に関する社会発展を指標していると想定します。
つまり、後期旧石器文化は時間変化とともにその文化を発展させてきたと考えます。
その後期旧石器文化発展の一つの事象が土器発明であると考えます。

1-2 土器発明は魚介類資源開発の必然であると考える
後期旧石器時代に陸獣だけでなく河川や海域における魚貝類や海獣を食料にする新たな資源開発が進んだと想定します。
河川におけるサケマス漁や海域における魚漁や貝類採集において、魚油の抽出や貝の効率的調理の必要性から土器が発明されたと想定します。

1-3 最初期の土器は漁場キャンプでだけで使われたと考える
フェイズ1の頃はサケマスの漁期だけのキャンプとか魚貝類採集期だけのキャンプで土器が使われ、別の場所に移動するときに土器は持参しなかったと想定します。
従ってフェイズ1の土器出土遺跡は川のそばの微高地に限られ、その数は少なくなります。海岸における土器内包遺跡は現在マイナス100mの海底に沈んでいますから発見されることはありません。

2 土器が発明された場所
フェイズ1の土器が大陸で発見されていないこと、古北海道半島でも発見されていないこと、神子柴・長者久保石器群が大陸由来のものとされていないことから土器発明は古本州島で生じた事象であると想定します。

3 土器発明が古本州島で生じた背景
土器発明が古本州島で生じたと考えるとき、その背景として次のようなことが考えられると想定します。
ア 古本州島では海岸域(貝類)-河川中上流域(サケマス)-台地丘陵山地(陸獣)のセットが手ごろな「流域」として存在しています。その多様な自然環境を家族-集団が独占的に利用できます。したがって、貝類やサケマス資源開発が社会テーマとなった時に社会全集団がその開発に取り組むことができます。
イ 古本州島は地形が複雑であり大規模で効率的な陸獣猟が不可能であることから貝類やサケマス資源開発を促進せざるを得ない側面もあったと想定できます。
ウ 沿海州大陸では地形単位が大きく陸獣猟が効率的にできることからサケマス資源開発が遅れた可能性があります。その結果土器発明も遅れたと考えます。
エ 沿海州陸域面積に比して海岸線が短く、結氷の影響もあり貝類等海域資源開発は低調であったと想定します。海岸部利用の低調さが魚貝類資源開発の遅れになり、それが土器発明遅れに影響したと想定します。

4 フェイズ1の遺跡種類
海岸魚介漁キャンプ遺跡(石器、土器及び貝塚)…全てマイナス100m海底に水没している。
サケマス漁キャンプ遺跡(石器、土器)…前田耕地遺跡、大平山元Ⅰ遺跡
陸獣猟キャンプ遺跡(石器)…土器が出土しない神子柴・長者久保石器群出土遺跡の多く

参考 旧石器時代末から縄文時代にかけての狩猟具の変遷と気候変動
堤隆著「狩猟採集民のコスモロジー 神子柴遺跡」(2013、新泉社)から引用

2020年3月28日土曜日

縄文土器の文様

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 10

「第二章 土器使用のはじまり 草創期(Ⅰ期)」の「1 土器の発明がもたらしたもの」の後半を学習します。

1 土器が製作された場所
・縄文全時期を通して、土器の胎土は出土遺跡周辺の地質と類似することが多く、土器は基本的に各地域において製作、消費された可能性が高い(河西2008)。

2 土器の登場の歴史的意義
・世界各地の事例を見ると、すでに旧石器時代にも粘土を焼成して、土偶(ビーナス像)や動物像を製作する技術が存在していたことがわかっている。
→具体例を、機会をみつけて調べてみることにします。
→土器が発明されるはるか以前から土製品がつくられていたことを初めて知りました。

・土器の登場は、幾多の試行錯誤の上に達成された出来事であった。そしてそれはさまざまな資源、道具類の開発・増産を導くことになる、画期的な技術の成立をも射程に入れるものだった。その意味で、土器の登場の歴史的意義は大きい。
→この記述部分について深く学習したい欲が強まりますが、どこに学習材料があるのか知りません。
→土器発明→食糧事情や栄養事情の改善→肉体的・精神的な余裕の発生→生活・活動の改善や道具・社会組織における発明発見の招来→社会発展(人口増加)という好循環が生まれていたに違いありません。

3 縄文土器の文様
・なぜ縄文土器にはさまざまな文様が描かれたのだろうか。この点についてはまだ未解明な点が多いが、アメリカ先住民の事例を参考として、縄文土器の文様が何らかの意味やメッセージを持っていたと考える研究者もいる(小林1977、佐原1987)。たとえば、青森県薬師前遺跡から出土した土器棺には、あたかもワラビが発芽し、芽吹いていく様子を描いたような文様が連作で描かれている(図11)。これなどは、発芽する場面を描くことで生命の再生を祈念したものかもしれない。

図11
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

・いくつもの芸術作品をみてもわかるように、現代においてもさまざまな抽象的造形物に具体的な意味やメッセージを込めることは多い。もはや詳細にそれを読み解く術はないが、われわれと同じホモ・サピエンスである縄文人が、土器の器形や文様に何らかの意味やさまざまなメッセージ、場合によっては物語や神話といったものを託していたという可能性は十分にありえると私も考えている。

→著者の記述とは裏腹に、考古学者や専門家の多くは土器文様の意味解明について熱心ではありません。一言でいえば科学的手続きに従えば明快な答えが出るという筋のものではないことが最初から分かっているからです。
→ズバリ言えば、土器文様にいくら意味がありそうでも、興味がうまれても、それにかかわっていては「論文がかけない」「出世できない」からだと思います。その世界にいる人は、土器文様の意味解明に乗り出すとおそらく上司や指導者から快く思われないにちがいありません。
→土器文様の意味を解明することは縄文人の本質を知ることに直結し、大いに意義があります。同時に狭義考古学が太刀打ちできないことは明らかです。無意識解明を含んだ心理学とか神話学とかいろいろな知識援用が必要になります。
→清瀬市郷土博物館内田裕治先生著作は土器文様解明に取り組む素晴らしい活動であると知り、今後その学習を開始したいと思っています。
「柳瀬川縄文ロマン展」2019年11月2日~24日開催 縄文土器編 ホームページ公開版

土器文様に関する私の興味例

称名寺式土器(千葉市餅ヶ崎遺跡)
加曽利貝塚博物館展示物
密生する植物が繁茂する様子を表現しているように感じます。最下段は垂れ下がる実、中段は双葉と右側に伸びる芽を、上段は双葉と左側に伸びる芽を表現しているように感じます。上段左の双葉だけ葉先が上を向いていて特に成長がよく、それがこの土器の正面を示しています。空想を重ねれば、育てている食料としてのマメ類植物を描いているのかもしれません。
2020.02.15記事「許可撮影 称名寺式深鉢形土器(千葉市餅ヶ崎遺跡)観察記録3Dモデル

縄文中期中葉深鉢形土器(飯田市大明神原遺跡)
飯田市上郷考古博物館展示物
男女交合の異なる体位(の局部の様子)が2つ観察できるように感じます。見えない背面にさらに2つ別の体位が描かれていると推測します。
女性が料理を家族によりおいしく食べさせるために、料理道具としての土器をより豪華にしたのだと思います。土器に子孫繁栄をイメージできるおめでたい文様として男女交合の様子を描きこんだと考えます。
2020.01.05記事「縄文中期中葉深鉢形土器(飯田市大明神原遺跡)の模様観察

藤内式深鉢形土器(伊那市金鋳場遺跡)
伊那市創造館展示物

文様検討
A-a→B-b→C-c→D-dというような大きな模様対応関係があり、起承転結4場面の物語・神話とか、四季に対応した自然や人の生業活動の表現があるような感じを受けます。
類似パネル文土器の文様を多数集めて比較検討すれば、模様構成要素が多数あるだけに、何らかの有用な情報が必ずや獲得できるように素人考えします。
2020.02.02記事「藤内式深鉢形土器(伊那市西箕輪 金鋳場遺跡)の展開写真

4 縄文土器の型式と編年

小林達雄編「総覧縄文土器」から引用

5 縄文時代の社会を考えるための視点
・私は、それらの要素のうちから居住形態、生業形態、集団構造、精神文化の四つを取り上げて、これまで叙述を行ってきた(山田1999・2002など)。
→居住形態、生業形態、集団構造、精神文化の4つの視点でこの図書の学習を進めたいと思います。

2020年3月27日金曜日

土器は女性がつくったのか?

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 9

「第二章 土器使用のはじまり 草創期(Ⅰ期)」の「1 土器の発明がもたらしたもの」の中の小見出し「土器は女性がつくったのか?」を学習します。

1 「土器は女性がつくったのか?」全文
世界各地の民族事例をみると、生活をしていく上で必要な作業が男性と女性とでは異なる場合が多い。このような作業のあり方を性別分業と呼ぶが、土器に関しては、ほとんどの場合、製作しているのは女性である。このことから類推して、縄文時代にも性別分業が存在し、土器の整形は女性が行っていたとされることがある。おそらくこの見通しは正しいだろう。ただし、土器の製作工程すべてを一人の女性が担っていたと考える必要はない。大型の土器の製作には複数の女性が関わったと思われるし、粘土素地の入手や土器の焼成などは男性が担っていた可能性も視野に入れてよいだろう。」山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

2 感想
2-1 土器について
縄文土器は女性が作っていたという説はどこかで聞いたことがあり、そうかもしれないとは考えていました。
しかし、もう一度、自分がどのように考えていたか、考えてみました。
よくよく自問すると、例えば次のように、土器は男性が作っていたと無意識のうちに考えていました。

加曽利EⅡ式土器
2019.03.08記事「加曽利EⅡ式円文楕円形区画文土器の観察
人口急増期の煮沸用鍋機能がそのままデザインされたように感じる土器
私の無意識のつぶやき「社会発展期の進取に富んだ雰囲気のなかで合理的な思考が芽生え、それが土器器形に反映した。その社会でドングリの共同採集や共同アク抜きを組織しているリーダー達(男性)が率先して作った土器だろう。」

獣面把手(?)付加曽利EⅣ式土器
2020.03.25記事「獣面把手(?)付加曽利EⅣ式土器
後期称名寺式期の土器であり、社会が大きく零落したと考えられる時期につくられ土器
私の無意識のつぶやき「鍋としての使い勝手などは全く無視して、巨大な把手をつけている。大把手は蛇頭の形となっていて明らかに男性シンボルを連想させる仕組みとなっている。困難な生活の中で貧しい食材を少しでも美味しく食べるために繁栄の象徴(獣面把手)を(男性作者が)土器につけたに違いない。」

縄文土器とは男性が作っていたと自分は考えることになります。おそらく現代工業社会(男性社会)の様子から縄文社会を眺めているのだと思います。

縄文土器は女性が作っていたという仮説を受け入れるならば、自分の無意識発想は完全に変革しなければなりません。自分にとってはコペルニクス的転回になります。
縄文土器は女性が作っていたと考えるならば、土器作成はつぎのように考えることになります。

●加曽利EⅡ式土器
社会組織が整備され女性たちによるドングリの共同採取や共同アク抜きが進み、効率的かつ大量に食物を蓄えることができるようになった。その効率的作業に適した器形の土器を女性達は好んでつくった。

●獣面把手(?)付加曽利EⅣ式土器
食事でひもじい思いをするけれでも、少しでも美味しくたべるために、女性達は土器(鍋)だけでも豪華に作りたいと考えた。女性達は繁栄の象徴である男性性(男性器)や女性性(女性器)、あるいは男女交合の様子を文様化して土器に表現した。

参考 男女交合を描いた土器
2020.01.05記事「縄文中期中葉深鉢形土器(飯田市大明神原遺跡)の模様観察

2-2 作業仮説としての縄文土器女性作成説
縄文時代学習を深めるために、これからは縄文土器は女性がつくったという作業仮説を設定して、それに基づいて意識して思考することにします。
妊娠、出産、子育てが人生の主要任務である縄文人女性にとって、土器づくりはそれらの仕事と両立するという特性があります。移動生活におけるキャンプで、定住生活における集落で土器づくりはできます。
土器づくりは大移動や強力なエネルギーを必要としません。
また土器づくりは調理の道具づくりであり、調理が女性の仕事であるとするならば、土器づくりを女性がしていたということと平仄があうような気がします。

2-3 土偶
土器づくりは女性の仕事であると考えると、土器づくりの合間に副産物として作った土偶も女性が作った、女性が使うモノであるということになります。
土偶がいわば女性専用であると考えると出土物の理解が進みます。

バイオリン型土偶
2019.04.27記事「バイオリン型土偶の3Dモデル観察
豊な乳房だけが表現されているといってよいと思います。
せっかく妊娠、出産しても母乳がでなければ乳児が死んでしまい、すべてが水の泡です。
母乳が豊かに出て、子供を死なさないで育てたいという祈願にかかる製品だと思います。

国宝土偶仮面の女神
2020.03.20記事「国宝土偶「仮面の女神」注記付き3Dモデルと想像的解釈
成女式=成人式=集団見合いの様子を描いた土偶で、娘が結婚するまで(生殖活動ができるまで)育つことを母親が祈願している人形であると想像します。

人面付土版
2020.02.05記事「人面付土版 観察記録3Dモデル
口の回りに粘土紐に刻みをつけて髭がついています。
千葉市ホームページでも次のように説明しています。
「全体の3分の1が人面の部分になっており、粘土紐を貼りつけ、刻みを施し、髭と眉を表現しています。眉の下に沈線で輪郭をとって中央を刺突して目を入れ、顔の両脇には耳もあります。頭部の裏面には頭髪と思われる粘土紐の貼り付けに刻み目をいれた表現が見えます。」https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/uchinodaiichidoban.html
私はこの髭からこの土版は男性を表現していると考えました。長野県出土人面付土版では女性器のあるものもあり、男性表現と女性表現が混在しているような気がしていました。
しかし、土偶が女性専用のモノであるとわかると、この髭の意味が氷解しました。
アイヌの女性は口の回りに髭の入れ墨をします。

アイヌ女性の入れ墨
その入れ墨として顔につけられた髭をこの土版は表現しているのです。
この土版は女性のお守りであると想像します。

縄文時代の女性がアイヌと同じように口の回りに入れ墨をしていた証拠がこの土版です。千葉市埋蔵文化財調査センターが縄文時代女性が入れ墨をしていたという大発見をしていたことを、今さらですが、知りました。千葉市埋蔵文化財調査センターはすごいです。