山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)学習 7
土器が最終氷期に発明され、なおかつ列島内で誕生した可能性が高いという記述について、それが腑に落ちないので、考えてみました。
1 図書記述で生まれた疑問
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)では「縄文文化の母胎は西回りルート細石刃石器群と尖頭器石器群(神子柴・長者久保文化)にもとめられることは間違いない。」と記述しつつ、「その一方で、北海道で草創期土器文化がほとんど見つからないことと、朝鮮半島でも見つからないので、縄文土器は日本列島域内で誕生した可能性が極めて高くなる。」とも記述しています。
石器群つまり文化そのものは大陸渡来であるにも関わらず、土器だけ独自発明であるということは腑に落ちません。
さらにそもそも最終氷期になぜ土器が発明されたのか?
著者は土器が煮沸具として発明され人々の食生活改善に大いに役立ったことを述べています。しかし、なぜ最終氷期に発明されたのかその理由が十分に納得できません。
参考 最終氷期に土器が発明された様子
「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用・着色
2 土器が最終氷期に発明された理由
そこでアーダ、コーダと考え、web検索でいろいろな情報を見ていました。
その検索活動の中で偶然つぎの論文を見つけました。
谷口康浩(2005):極東における土器出現の年代と初期の用途
この論文を読んで、最終氷期に土器が発明された理由が自分なりに分かった(腑に落ちた)のでメモします。
この論文では最終氷期の土器について、その出土例が少なく、かつ出土数も少ないことと大陸側で土器がサケマス漁と関係していた事実から、日本でもサケマス漁の現場だけで魚油抽出等に使われていたと推測しています。
その後、一時的な温暖期や本格的な後氷期到来期には土器出土数が増え、その頃の土器は堅果類のアク抜きなど縄文土器本来の使い方がされたと記述しています。
土器出土量の年代的推移
谷口康浩(2005):極東における土器出現の年代と初期の用途から引用
大平山元Ⅰ遺跡の復元図
「縄文はいつから!?」(小林謙一/工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編、新泉社)から引用・着色
サケマスを当時の人々が獲っていたと推測される。
この情報に接し、土器が最終氷期に発明された理由について、次のような自分版ストーリーを構築して、腑に落としました。
1 最終氷河期ユーラシア東部の後期旧石器社会は食料資源の開発を積極的に行い、石器文化を進歩させていた。
2 食料資源開発の一環として漁獲サケマスから効率的に魚油を抽出する道具として土器を発明した。
3 人々は土器が魚油抽出だけでなく、これまで利用困難であった固い動物の筋や骨、植物の根や実の食料資源化に活用できることを体験的に発見しつづけた。
4 気候が温暖化し植生変化により堅果類が増えると、人々は土器が堅果類アク抜きにも使えることを発見し、食料獲得が急速に進展した。土器が生活で必須の道具となった。
2と3はその順番が逆かもしれません。あるいは同時かもしれません。いずれにしても最終氷期における後期旧石器時代人の食料資源開発の一環として土器という道具が発見されたと考えます。
後氷期縄文人の文化は後期旧石器時代人の土器発明がなかったならばその発展は低調だったに違いありません。
これからは「後期旧石器時代に土器が発明されたからこそ、縄文時代の土器文化発展があった。」と考えることにします。
後期旧石器時代の石器文化は大陸側→列島側という経路で入ってきています。ユーラシア大陸東部全体の後期旧石器時代人社会の大陸側社会の巨大さやそこにおける情報伝達量の多さなどとくらべると、列島社会はその端末に位置します。
根拠はありませんが、大陸側で土器が発明され、それが列島に伝播したと考える方が大局歴史観として素直なような気がします。
仮に列島における土器発明が最初であるとしても、大局併行的に大陸でも土器が発明されている共時性的発明であると捉えることが大切であると考えます。
「日本の土器が一番だ!」みたいな問題意識は現代政治が紛れ込んでくる恐れがあり筋悪であると考えます。
ユーラシア大陸東部全体の後期旧石器時代社会の様子を知り、その中での列島特殊性を知ることがまず大切だと思います。
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